第16話

16.

 

 

「お久しぶりです。柳田隼人さん」


隼人は硬い表情で女性の挨拶を無視し、すぐに椅子に座ると足を組んだ。十分に礼儀を欠いた行動だったが、瀬川千珠(せがわちず)は気にせず、堂々とした笑みを浮かべながら彼を眺めた。


1か月前、お見合いに現れた男がひと言も話さずにステーキを数切れ食べて去って行ったあの日。高かった彼女のプライドは一瞬で崩れた。ところが、今となってはそんなことは重要ではなかった。


隼人に当時の屈辱をそのまま返すと誓ってやってきたが、彼の顔を見た瞬間、怒りは雪がとけるように消え、その時のことは嘘のように忘れ去った。それほど隼人はどんな女性でも手に入れたいと思う魅力的な男性だった。


「今日も何も話さず、ステーキを一口食べて帰るおつもりですか?」


千珠が落ち着いて訪ねたが、隼人は彼女に視線すら向けずに腕時計だけを見つめて聞き返した。


「あの時のことに対する謝罪を受けにいらしたんじゃないと思いますが?」


彼の言動だけで、この場をどれだけ煩わしいと思っているかが分かった。千珠は鬱憤をこらえようと袖をギュッと掴んだ。


クールに考えようと努力した。どうせこの人は最初から自分のことを気に入っていなかったのだから、気のある自分のほうから近づいていくのが正しいのだ。彼のひと言に傷つくのなら、最初からこの場には来るべきではない。


そう強く決心してやってきたが、いざ彼と向かい合うと、しっかりと張っていた心臓の保護膜が虚しいほどガラガラと崩れ落ちた。熱いものが涙腺を刺激するのを感じた。だが千珠は気持ちを落ち着かせ、むしろこれ見よがしに堂々と答えた。


「もちろんです。今日はあなたと私の結婚のことをお話ししに来たんです」


千珠が慎重にハキハキと話し始めると、隼人は何のことだと言うように眉間にしわを寄せた。


「父親同士で話がついていると思いますが…。ご存じないようですね」


千珠の言葉に隼人の表情が急激に固まった。会ってみるだけでいいと言っていたのに、既に瀬川グループと縁談が交わされたということか。紅海グループで地位を固めることが得だと思わない限り、彼の意見を徹底的に押しのけて好き勝手に政略結婚を進めることはなかっただろう。


胸がムカムカするほど、気にいらない父親だった。いつからこんなに親子の関係がこじれてしまったのか分からないが、どんどん回復が難しくなるという考えが固まってきていた。


「そういうことには興味ありません」


隼人は結婚に関して、どんな会話もしたくないという意志を込めて、いつもよりきっぱりと言い放った。千珠はそんな隼人の態度に思わず呆れた笑いが漏れた。


この人、酷すぎる。


この国の財界ランキング10位以内に入る瀬川グループの末娘として育ち、このように無視され、軽蔑の視線は誰からも受けたことがなかった。常に周りの愛と関心を集めながら誰よりも豪華な生活の中で、満ち足りた人生を送ってきたと自負していた。


ところが、数回しか会ったことのないこの男に、このような扱いを受けるとは、熱い何かがフツフツと湧いてきて彼女の涙腺を刺激した。


「実は私も最初は興味がなかったんです。家同士の縁談なんて」


落ち着いていた彼女の口調が一瞬冷たく変わった。


「でも、絶対にしないといけませんね。この結婚は」


千珠の揺るぎない発言に隼人の目は細くなった。賢い女性だと思った。むやみに感情を出さず、どんな瞬間にも声を荒げることもなかった。また、話すときは率直で飾り気がなく、分別なく行動するほかの家の娘たちとは違って見えた。


そのため、ますますむやみに対峙することもあった。二度とこのような悪循環が続かないように、この女性が自ら離れていってくれれば、という思いからだった。しかし、結果は残念な物で、隼人の我慢は今や限界を見せていた。


「俺と結婚すれば、幸せになれると思いますか?」


「はぁ。あなたの口からそんな言葉が出るとは思いませんでした。政略結婚で幸せだなんて」


「言葉遊びをしたいなら、相手を間違えましたね」


隼人が不快そうに立ち上がると、千珠は恨み混じりの目で彼を見上げた。めちゃくちゃになってしまった場が悲しくて千珠の目はいつの間にか濡れていた。しかし千珠とは違い隼人は感情のない表情で彼女に冷たく話しかけた。


「明確にしておきましょう。俺がこの場に来た理由」


隼人は首に力を入れた。


「今後は関わることがなければいいですね」


千珠の瞳が急激に揺れた。


「ちょっと、隼人さん…」


「どうせしないといけない政略結婚なんだ。誰か別の相手を探したほうがあなたのためです」


彼は椅子を蹴って立ち上がった。


「では話は終わったようですので、失礼します」


話が終わるやいなや背を向ける隼人を観ていた千珠の表情はむごたらしく歪んだ。挫折感で喉がカラカラになった。彼女はテーブルの上の水を飲み干した。それから抑えていた感情を爆発させるかのように、隼人の背中に向かって声を荒げた。


「どうせしないといけない政略結婚だからこそ、あなたとするんです」


隼人はその場に立ち止まり、千珠が最後の力を振り絞ってやっと訪ねた。


「それはあなたも同じじゃないんですか?」


いっそのこと、諦められればこんなに惨めなことはなかっただろう。残忍なほどに冷たい彼を今にでも諦めたかったが、しきりに未練が残った。彼を逃したくないと。頭では今の姿が理解できないが、心は確かに熱く叫んでいた。


「そうなら隼人さんも私を…」


「俺が言ったことがまだ理解できないようですね」


隼人は短く息を吐くと、彼女のほうを向いた。


「俺は政略結婚なんてするつもりは…これっぽっちもありません」


「……」


「もしもする事になったとしても、あなたとは絶対にしない」


最後の彼のひと言に千珠の心は崩れ落ちた。しばらく静寂がながれ、隼人は引き返して外に出て行った。千珠は頭を下げたまま隼人の後ろ姿さえ見ることができなかった。


千珠の顔から微笑みが消えて、しばらく経った。何を悪いことをしたというのだ。あそこまで自尊心を踏みにじることはないではないか。心臓を突き刺すほどの彼の毒舌によってつけられた傷は、もうボロボロになり回復することは難しいだろう。


「はぁ…。本当に最後まで酷い人」


愚痴の混じった言葉と共にため息が出た。一目惚れという言葉は、白馬の王子様を夢見る未熟な女性がもつ感情の浪費だと思っていた。決して千珠の人生に男などいないと思っていた。それでも両親の意志に従って政略結婚をした後、お互いやりたいことをしながら暮らしているのが当然だと思うほど、単純に考えていた。


しかし、期待もしていなかった見合いの席で、柳原隼人という男性と出会い、これまで持っていた考えに少しずつ亀裂が入り始めた。彼の心を手に入れたいという純粋な感情を持つようになり、彼女にとっては大きな変化だった。単純な意地ではなく本心だった。しかし状況は最悪の結果に終わってしまった。


「はっきりと振られたんだわ」


認めたくない事実。千珠は虚しく笑うとゆっくりと席を立った。



 

* * *

 



「左衛門玄暉でしょ?」


いつの間にか目の前に近づいてきた花恋を見つけた玄暉は佳純の手をぎゅっと握り、外側に体を向けた。


「映画は今度にして、とりあえず出よう」


「えっ…?」


「あんた!待ちなさいよ。ここであんたの正体を暴かれる前に」


そのまま急いで逃げようとしていた玄暉は花恋の警告に立ち止まった。よりによって今日みたいな日に絶妙に出くわすとは…。最高の日であり、最も運の悪い日でもあった。ともすれば短い時間でバラエティに富んだ何かが起きるのか、本当に分からなかった。


結局逃げるのを諦めた玄暉が振り返った。花恋が意味深な笑みを浮かべ、顎を上げて立っていた。


「やっぱりね。明日、嵐でもくるんじゃない?こんな所で左衛門玄暉に会えたうえに、女連れだなんて」


花恋のささやきに玄暉は佳純を自分の後ろにそっと隠した。


「ここに来たなら、仕事しろよ」


いつの間にか集まってくる視線が気になるのか玄暉は周りを見ながら静かに話した。花恋がすましたように鼻で笑った。


「今してるじゃない。仕事を」


「そうじゃなくて…」


「誰?」


花恋が顎で佳純を指した。玄暉は慌てた目つきで急いで答えた。


「気にしないで、もう行けよ」


「あ、こんにちは」


自分に向けられた視線を感じた佳純は慎重に花恋に挨拶をした。佳純もよく知っている顔だった。海外で先に認められたトップモデルであり、現在は日本でも株価を上げている有名人だった。


華やかな外見と、よどみない話術で人気も高く、テレビをつければ彼女が出ていないCMがないくらいに、最近注目されているスターの一人だった。ところが、こんなところで直接会うとは、不思議そうに花恋を眺める佳純の目には純粋な憧れが込められていた。


「全然挨拶するような気分じゃないんだけど。表情見て分かんない?」


冷たく答える花恋の目は嫉妬に燃えていた。佳純は恥ずかしさと戸惑いに口を固く閉ざし、玄暉は花恋を大きく見開いた目で睨んだ。


彼女の気難しい性格は相変わらずのようだった。何か言ってやりたかったが、そんなことより今の事態を収拾するのが先だった。玄暉は花恋への怒りをしばらく抑えて、笑顔で佳純を振り返った。


「ちょっとここで待ってくれる?彼女とちょっと話を…」


「はあ!ムカつく物書きがどうしてこんなにツンツンしてるのかと思ったら、あんな子に会うためだったの?」


玄暉の額に太いしわができた。気持ちとしては今にも暴言を浴びせるあの口を手で塞ぎたかったが、雲のように集まってくる人波によって、沸き上がる炎を消さざるをえなかった。彼はあたりを見渡し、強い口調でささやいた。


「お前、本当に黙れよ」


「嫌だけど」


「花恋!」


耐えかねた玄暉がとうとう彼女に叫んだ。そういえば忘れていた。常識の通じないあの手のつけられない性格を。


「一緒に映画を見に来たの?」


花恋は玄暉の視線を受けながら、いつの間にか佳純に近づき、聞いた。


「あ、はい」


佳純が短く答えると、花恋は妙な目つきで首をかしげた。


「彼女?」


「いいえ、大学の友達です」


「あ、そうなんだ?」


「お前、今何してるんだ…」


「花恋!」


彼らの会話を聞いていた玄暉が、花恋を止めようとした時だった。マネージャーが人ごみをかき分けて、花恋に近づいてきた。彼はしばらく花恋を捜していたのか、汗をかきながら息を切らしていた。


「お前、ここで何してるんだ?」


「トイレに寄ってくって言ったじゃん!」


マネージャーは、食ってかかる彼女の態度に呆れながら言った。


「トイレに行ってくるって言った奴が、どうしてここにいるんだ?もうすぐ舞台挨拶が始まるから、早く行こう!ほら!」


「分かった!分かったから、ちょっと待ってて」


花恋が呆然と立っている佳純に近づき、携帯電話を差し出した。


「番号を教えてくれない?」


玄暉は何を考えているか分からない花恋の行動を警戒し、彼女に手を振った。


「おとなしくしてる内に行けよ」


「あんたに聞いてるんじゃないの」


「花恋、お前本当にどうしたんだよ。早く行くぞ!」


マネージャーの催促にもかかわらず、花恋は、なるようになれと腕を組んだまま、肩をすくめた。


「私、あの女の人が番号くれるまでは絶対行かない」


分別のない花恋の姿に玄暉の顔が赤くなったり青くなったりした。だから絶対に花恋とは出くわしたくなかったのだ。ところが、よりによってなぜ佳純と一緒にいる時に出くわすことになったのか、神が恨めしかった。


「教えますから、携帯ください」


彼らを注意深く見守っていた佳純が、花恋に手を差し出した。花恋は会心の笑みを浮かべ、彼女に携帯電話を渡した。玄暉が教えるなと手首を引っ張ったが、佳純はむしろ大丈夫というように彼の手を軽く叩いた。


「映画の試写会が終わったら、近くのクラブで知人たちと打ち上げパーティーがあるの。あいつと必ず一緒に来てね」


花恋が携帯電話に保存された佳純の番号を確認しながら言うと、佳純は首をかしげた。


「パーティー…ですか?」


「あっ、念のため番号まで貰ったんだから、私に煩わされたくなかったら、来たほうが身のためよ」


図々しい花恋の態度に玄暉がむっとして言った。


「お前、本当に勝手にやるのか?」


「あ!それから、もしかして知ってる?こいつの正体?」


突然投げられた彼女の一言に玄暉の表情が急速に固まっていった。


「正体…ですか?」


佳純が戸惑った表情をすると、花恋の口元に笑みが広がった。

 

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