第17話
17.
どうしていいかわからずにいる玄暉の表情を見ると、まだ彼女は彼の正体を知らないようだった。そういえば、そのことについては自分も偶然知ったのだった。男なら誰でも羨望する自分のことを、見る度に無視するので、彼には何かあると予想はしていた。そして、その事実を知った時どれほど驚いたか、いまだ興奮が消えないほどだった。
玄暉の小説が出版されてから、レニーを知らない人はいないほど、彼の作品は旋風を巻き起こした。皆が彼の小説をドラマや映画化するために大騒ぎし、読者たちは彼の正体を知ろうとあらゆるデマを沢山作り出すほどだった。
今すぐにでも一躍スター作家になれる状況だった。しかし、奇妙な性格のあいつは怪しいほど自分の正体を隠すことに必死だった。普通はなんとか有名になろうと必死になる状況なのに。その点についてはまだ疑問ではあるが、今のような状況ではそれは重要なことではなかった。玄暉にもっと近づける機会。花恋の目が黒曜石のように輝いていた。
「打ち上げ来るよね?」
弱点を突いた彼女は、まるで自分が勝者であるかのようにしきりに唇をひくつかせた。そんな花恋の顔をずっと見ていると、噴水のように怒りがこみ上げ、玄暉は今すぐその場を離れないと、どうにかなってしまいそうだった。
「もう行こう」
「話はまだ終わってないんだけど?」
花恋は玄暉を捕まえると、圧迫してきた。
「彼女を含めて全員に、あんたの正体がバレていいならお好きにどうぞ。今日はちょうど記者も大勢来てるしね」
花恋の最後のひと言に玄暉の瞳孔が急激に大きくなった。今すぐにでも彼女の口から今まで隠してきた事実が溢れ出るのではないかと、心配で不安だった。しかし、だからといってこのまま花恋の思いどおりに連れて行かれるのはどうしても気が進まなかった。結局彼は我慢できず、感情を込めた言葉を放った。
「好きにしろ」
「なに?」
「お前の好きにすればいい」
花恋の唇が震えた。
「本気なの?」
「ああ」
しばらくの沈黙。お互いに向かって鋭くぶつかっている間に、周辺を取り囲んでいる人々の数が次第に増えていった。マネージャーが両腕で花恋を隠そうと努力したが、落胆した表情で、ただ汗だけたれ流していた。これ以上このままではいられないと思い、間に立っていた佳純が、仲裁の意味を込めた一言を切り出した。
「行きます」
望んでいた答えが佳純の口から流れ出ると、花恋が勝利の笑みを浮かべて見せた。
「そう。それじゃ」
氷のように冷たい玄暉の態度に表には出さなかったが、実はとても緊張していたのだ。このままもっと関係が離れてしまったらどうしようと焦っていた瞬間、ちょうど佳純が返事をしてくれたおかげで、やっと一安心できた。
安堵から花恋の顔に笑みがぱあっと広がった。一方、玄暉は佳純の答えに戸惑った。
「あの…」
「ごめん。なんだか、こうするのがいいのかなと思って…」
佳純が周りの人の顔色を伺いながら話すと、玄暉は一歩遅れて彼女の心情を理解し、申し訳ない表情を隠すことができなかった。そういえば、今この状況に一番居心地悪く当惑しているのは彼女だろう。花恋を相手にするのに忙しくて自分のことだけを考えていたことが思い出され、彼の顔色が暗くなった。
「それじゃあ、正確な時間とクラブの場所をメールで送るね。また後で」
花恋がこれ以上どうにもできないように声をかけると、佳純は玄暉の顔色を伺いながらうなずいた。
「はい」
「それじゃ。行くね」
何事もなかったかのように挨拶をしてその場を去る花恋の後ろ姿を玄暉は鋭く睨んだ。思い起こしてみると、花恋と初めて会った時もこうだった。勝手に雰囲気をめちゃくちゃにしておいて何事もなかったかのように、彼女は後片付けもせずに風のように消えた。
当時は分別がないからそうなんだと思い、ただやり過ごしたが、それが災いのもとだった。花恋と絡むたびに繰り返される状況に今は疲れ、胸が苦しくなってきた。
「大丈夫?」
佳純が心配そうな目をして尋ねると、玄暉は目を下に向けて口を開いた。
「ごめんね。僕のせいで…」
やたらと自分のせいで佳純が困惑する状況に置かれたようで申し訳なかった。もう少し慎重に考えていたら、最初にここに来た時からこのような状況は十分予想できたはずだ。まさかという安易な考えで、すべてを台無しにしたようで胸が痛かった。しかし、佳純はそんな彼の気持ちを理解しているかのように、むしろ明るく笑いながら話した。
「謝ることなんてないよ。私は何ともないから」
「それでも…」
「あっ、映画が始まっちゃう。もう行こう」
彼女が腕時計をちらりと見ながら言うと、玄暉は頷いた。申し訳ないと思わないように話しかけてくる佳純の姿に、玄暉の心は複雑だった。
「よし、行こう」
落ち込んでいたら、佳純がもっと息苦しく感じるかもしれないという気がして、彼は努めてにっこりと笑った。そうだ、この状況は後からでも収拾すればいい。玄暉は前を歩く佳純の後ろ姿を眺めながら、誓うように手を軽く握った。
* * *
「今日はどうしたんだ?」
晴琉(はる)はいつもらしくない隼人の行動に酔っ払いそうだった。いつも完璧な姿を保ちながら、普段は酒を口にするかどうか考える彼が、今日は休まず酒を飲んでいるので心配になるのも当然だった。
しかも人と話を交わすのが好きではなく同窓会に出てくることさえ極度に敬遠していた奴が、大学同期の集まりに出てきたことは、考えれば考えるほど驚くべきことだった。
「どうして今日に限って、いつもはしないことをするんだ?」
「事業は…上手くいってるか?」
しばらく黙って酒を飲んでいた隼人が、話題を変えようとするように目を細めて尋ねた。晴琉は戸惑いながらやりと笑った。ただの一度も人に近況など聞かなかった奴がこんなことをするのを見ると、酔っぱらってはいるようだった。晴琉はこの状況がかなり興味深いという表情で隼人を眺めながら大声を出した。
「当たり前だろ。俺には能力があるんだ!」
「くだらない」
「何だと!ここにいる奴で俺より充実してる奴がいるか?」
晴琉のふざけた言葉遣いに隼人の口元にはいつのまにか笑みが広がった。晴琉はそれでも堅く張っておいた心の壁を崩し、気楽に接することができる唯一の友人だった。
学問で名高い家に生まれ、両親の反対にもかかわらず苦労して入った医大を退学。経営学科に進学するほど積極的であるうえ、自分がやりたいことにすべてを注ぎ込むほど人生を楽しむ奴だった。
一言で言って、隼人とは全く違う人生を送っている友人だった。しかも皆が近寄りがたい隼人相手に、特有の社交性と厚かましさで彼の友達になってやることを厭わないほど性格まで良かった。
「何かあったのか?」
「別に」
晴琉は質問を回避する隼人から怪しさを感じたが、聞き返さなかった。隼人が先に直接口を開かない以上、他人が根掘り葉掘り彼について問い詰めることを嫌っているという事実を、誰よりもよく知っていたからだ。
「ふむ…。そうか?」
晴琉はこれ以上聞かないというように話題を変えた。
「とにかく、これからはもっと集まりに出て来いよ。毎日仕事ばかりの生活にうんざりしないか?」
隼人は晴琉の言葉に返事をせず、ひたすら酒を飲んだ。その姿に晴琉は口の中に漂う小言をぐっと飲み込み、首を横に振った。とにかく何を考えてるか分からないやつだ。
「ところで、あいつらは何で戻って来ないんだ?」
踊ると言って部屋を出てからかなり経ったにもかかわらず、友人たちが戻ってこないと、晴琉が携帯電話を取り出してどこかに電話をかけた。その間に、隼人は体を起こして横に置いた上着を手にした
「先に帰るよ」
「え?おい!待てよ」
突然帰るという隼人の言葉に晴琉は驚いた目で彼の手首を掴んだ。
「どこ行くんだよ?あいつらに会ってから帰れよ」
「もういい」
「ちょっと…。おい!哲哉(てつや)、お前らどこにいるんだよ?」
部屋の内のモニターで外の様子を見ながら、晴琉が受話器に向かって叫んだ。騒々しくなるのは嬉しくなかったが、隼人は自分の手首をぎゅっと握って放さない晴琉の行動に再び席に座るしかなかった。
「え?どこだって?哲哉、お前まだそうやって遊んでるのか?え?なんで俺が行かなきゃならないんだよ…!とにかくわかった、切るぞ」
通話終了を押すやいなや、晴琉の口から深いため息が流れた。
「今日クラブに芸能人たちが遊びに来てるみたいで、そっちの部屋に行ったみたいだ。哲哉の野郎、芸能人たちとよくつるんでただろ…。ほかのヤツらもみんなそこに連れて行ったらしい」
「じゃあ、お前も行けよ」
無表情に晴琉の手を離そうとする隼人の姿に、晴琉がにやりと笑いを浮かべながらグラスを挙げた。
「俺はガキじゃねぇ。芸能人についてくなんて…。好都合だ!今日はお前と酔いつぶれるまで酒でも飲もう」
晴琉は優しく笑って手首を離し、隼人はためらいながら手に持った上着を下ろした。実は、いろいろなことで気分が悪く、今すぐ家に帰りたくはなかった。ただ、他の友達と一緒にいるのもあまり居心地がいいわけではなく、その場を避けようとしただけだった。
「飲め」
晴琉は酒がなみなみと注がれたグラスを差し出した。隼人はそんな晴琉を止められないというように眺めながらグラスを受け取った。
「俺たちの永遠の友情のために?」
晴琉がグラスを前に出して自然に笑いながら言った。すると、隼人もすぐに自分のグラスを彼のグラスに近づけた。カチャンという音とともに、彼らはお互いのグラスを一瞬にして空にした。晴琉はかなり気分が良くなったのか、さっきよりワントーン高い声でグラスを振って見せた。
「とことん飲もう」
晴琉は決心したように、再び隼人のグラスに酒を注ぎ始めた。
* * *
「こっちだ!」
突然の宙志(ひろし)の呼びかけに慌てて走ってきた満は、彼の前に立ち止まったまま、ぜえぜえと息を吐き出した。
「お久しぶりです。先輩」
やっと落ち着いた満が宙志に向かい合って特有の微笑みを浮かべた。劇団で満と一緒に舞台に立つこともあった宙志は、満の数少ない知人の一人だった。彼は家族の商売の問題でやむを得ず俳優の夢をあきらめ、マネージャーに転向したが、それがかなりうまくいって現在は有名事務所の室長まで任されていた。
いつも劇団で満が宙志によく懐いていたため、突然会おうという彼の連絡にアルバイトまで抜けきたのだ。
単なる飲み会だと思って来たのに。高級バーとして有名なレッドホースの前で実際に彼に会ってみると、不思議な気持ちにならざるを得なかった。かなり稼いでいるので、高い酒を奢ってくれるだろうかという単純な考えで行くには、負担になる場所ではあったからだ。
「マジで久しぶりだな。お前、表情が明るくなったな?」
高級そうな建物の外観を不思議そうに見上げていた満は、宙志の言葉に素早く彼に視線を移して答えた。
「ハハッ。いまさら何ですか?俺は昔から超イケてるじゃないですか」
「こいつめ。厚かましいところも相変わらずだな」
「ところで、急にどうしてこんな所で会おうって?」
満が笑顔で尋ねると、宙志がぎこちなく額を掻きながら答えた。
「あぁ。お前に紹介したい人がいて」
満は首を傾けた。紹介?
「紹介ですか?まさか先輩の事務所の人とか?」
もし、自分が属している芸能事務所に紹介でもしようとしているのかという気持ちで、満は精一杯浮かれた表情で宙志を眺めた。しかし、彼は満の視線を避け、慎重に口を開いた。
「そうじゃなくて…」
「じゃあ何です?」
「とりあえず入ろう。説明してやる」
むやみに足を早める宙志の行動に何かおかしいと感じた満は、彼の手を離して止まった。焦って困っている様子が歴然としているのが、どこか怪しいように思えた。満はレッドホースの看板をじっと見上げ、再び宙志の表情を見た。その瞬間、突然何かを思い出した満は、もしかしたらと思い躊躇しながら、ゆっくりと口を開いた。
「あの…まさか…?」
暗くなった満の表情に宙志は入口の横に移動し、タバコを一本取り出して言った。
「一服だけ吸って入ろう」
「先輩」
「気づいたみたいだから、多くは言わない。ただ俺を信じて入ってくれ」
宙志は淡々と話し出し、満は言葉を失ってしまった。いつだったか一度、宙志と電話で話していた時、彼がいたずらに持ち出した言葉を思い出した。スポンサー。芸能人志望の女性だけでなく、男性を支援するスポンサーがいるが、望むならいくらでも繋いでやるから連絡しろと言った。当時は冗談だと思って笑いながら流したが、現実に行われているとは満は信じられないというように、口を閉じることができなかった。
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