第18話
18.
「何だよ?いきなりすぎて驚いたか?ウブだな」
「どうして先輩がこんなことを…?」
会社ではそれなりの地位を固めている宙志がなぜ芸能人志望とスポンサーをつなぐ役割をしているなど、想像もできなかった。満はぼんやりとした眼差しで彼を見つめた。ほかの人ならまだしも、宙志がこのような仕事をしていることがショックだった。
満の目は先ほどとは違い、深く暗く沈んだ。しかし、宙志は満の反応を予想していたというように、しきりに吸っていたタバコを床に擦りつけて消しながら、落ち着いて話し始めた。
「スターたちの火消し役をしてるからって、お前の目には俺が凄い人間にでも映ったようだが、実際はどん底なんだ。この業界はお前が思うほど、簡単じゃないんだ。俺も食べていくためにしかたなくやってるんだ」
宙志は真剣な表情で話した。
「今は芸能人になりたいってヤツらで溢れてるけど、スポンサー無しで芸能界で成功できると思うか?しかも、コネすらないヤツらが」
不条理な宙志の言葉に、満の目に込められていた不安が顔全体に広がり始めた。父親はガンで若くして亡くなり、宗教にはまった母親は月に1度家に帰ってくるかどうか。
それに、幼いころ交通事故に遭い片方の足に麻痺が残っている妹は普通の生活を送ることができず、満の助け無しでは家に籠もっているしかない状態だった。
最悪の環境の中で、どうにかして俳優の夢を叶えようともがく自分自身の姿がもどかしく、挫折感を感じたことは一度や二度ではなかった。
やっとのことで入った大学も学費が高く、やめる寸前までいったこともある。幸い、そのたびに助けてくれた玄暉や周りの人達のおかげで、なんとか乗り越えてきた。
自分に関心を寄せる女性を利用して助けてもらうこともあったが、単純に好意による助けを受けただけだ。後から後悔するようなことは決してしなかった。
簡単にカネを稼げるという誘惑を断り、昼夜を問わずアルバイトをしたのも、俳優になる夢を叶えるという小さな希望があったからこそ、できたことだった。
しかし、醜い世界に接することになった満の頭の中は真っ白になっていた。恐ろしい現実。いざ目の前にすると気持ちが揺れ、かえって目をつむりたいという思いが押し寄せてきた。
「おい。聞いてんのか?」
宙志の声に満は引き戻された。彼の表情には複雑な心境がそのまま表れていた。その姿を見ていた宙志は気に入らないといった目つきで満に話しかけた。
「お前の置かれた状況を誰よりもわかってるから、うちに所属してる子たちを差し置いて声を掛けたんだ。中にいる奥様に気に入られて、成功したヤツが何人いると思う?」
満の顔が冷たくこわばった。もうすぐ学期が終わり、またうんざりするアルバイトと死闘を繰り広げなければならない状態だった。今この機会を逃せば、学費や生活費、それに妹の医療費まで、カネの心配から抜け出せず、夢と現実を天秤にかけながら必死で暮らさなければならないだろう。
彼の口から自然とため息が漏れた。ただでさえ、最近はいろんな家の問題で演技に集中することができなかったせいか、オーディションを受けるたびに落ちていたので、自信もなくした状態だった。
「悩むことなんかない。お前が1日も早く俳優として成功したいなら、目をつむって入ろう」
宙志が満の肩を掴んで強く勧めると、満はうろたえた目で宙志を見つめた。
「かわいそうな妹のことも考えないとな」
やはりこれは違うという思いに、かろうじて拒否の意思を示そうとした満の口は、あっという間に閉ざされた。彼の指先はブルブルと震えていた。人生において、ひとすじの希望を抱かせてくれた存在である宙志のひと言に、満は結局きっぱりと断ることができず、もごもごと口を開いた。
「相手は誰ですか?」
満のどうしようもない態度に、宙志はちらりと振り返ると、少し微笑んでタバコをもう1本取り出した。最初は誰でも満と同じような反応を見せるが、結局は自分の思いどおりになるのだ。
どうせこの世界にいるヤツらの夢や希望など、結局割れやすいガラスのような物で、少しの亀裂にも一瞬にして簡単に崩れる。特に満のような純粋で夢に対する熱望だけが高いヤツほど簡単だ。
宙志は満に口いっぱいに含んだ煙を吐きかけると、ゆっくりと口を開いた。
「お前みたいな人間は一生会うことのできない方だよ」
「……」
「紅海グループの会長夫人だ」
* * *
「今からでも帰る?」
玄暉は横目で佳純を見ながら尋ねたが、彼女はただ周りを見回すのに忙しい様子だった。クラブの中。生まれて初めてだったので、佳純は別天地のような風景に頭がクラクラした。まっ暗な洞穴のようで、白い煙が立ちこめていた。
しかも心臓に響く音楽のビートに耳が詰まり、近くに立って話す玄暉の声も遠くに聞こえるほどだった。慣れない状況であったが、佳純の目は不思議な物を見つけた子どものようにキラキラと輝いていた。
「佳純ちゃん?」
「あっ。大丈夫」
適応できず、顔が真っ青にならないだけでも感心するほどだが、むしろクラブの雰囲気を楽しんでいる姿に玄暉は意外だというようにクスッと笑った。もしも居心地が悪そうならすぐにでも帰ろうと思ったが、佳純はあれこれ見回すのに忙しそうだった。玄暉はもしも誰かとぶつかってはいけないと、彼女を内側に立たせた。
「こっちに座って」
玄暉がバーの椅子を指さしながら座るように促すと、佳純は辺りを見回すのをやめ椅子に座った。目と耳がクラブの雰囲気に慣れたように、佳純も顔からぎこちなさが少し消えたようだった。
「やっぱりほかの店で夕食でも食べようよ」
クラブに来たことが気に掛かる玄暉に佳純は平気だというようにニッコリ笑って見せた。
「私のことは気にしなくていいよ。おかげでこんな所に来れたし…」
「玄暉!」
玄暉は後ろから聞こえた、聞き覚えのある声に眉をひそめた。どうやって、こんな広い場所で見つけることができたのか、まさか体にGPSでも付けているのかと聞きたいくらいだった。
「部屋に来ればいいのに。こんなとこで何してんの?」
嬉しそうな表情で玄暉を迎えた花恋は、ふと彼の隣に座っている佳純を見つけると口をゆがめて笑った。
「一緒に来たんだ?映画は面白かった?」
花恋は澄ましたように髪を耳にかけながら尋ねると、佳純はぎこちなくうなずきながら答えた。
「あ…はい」
「じゃあ、一緒に上に行きましょ。あんたも」
玄暉は肩を掴もうとする花恋の手をバッと払った。恥ずかしくなった花恋の目が冷たく変わった。しかし玄暉は気にせず、ひたすら佳純を見つめていた。
「嫌なら無理して行かなくていいよ」
優しい玄暉の声に佳純は花恋の目つきを避けながら応えた。
「本当に大丈夫だから」
「玄暉!大袈裟にしないでよ!」
2人の間で疎外感を感じた花恋は苛立ち混じりに玄暉に向かって叫んだ。玄暉は花恋を振り返り、落ち着いた声で警告した。
「お前こそ口に気をつけろ。僕にも我慢の限界はあるんだ」
また騒いだらただではおかないというように、燃え上がった彼の目つきに花恋は素早く顔を横に向けた。
いつもはおとなしい玄暉だったが、一度怒ると誰よりも恐ろしいということを花恋はよく知っていた。そういった点で、今の状況はかなり危険な段階に該当した。
「わかったわよ。わかったから、行きましょう」
花恋が負けたというように手を挙げて話すと、玄暉と佳純はやっと椅子から立ち上がった。先を歩く花恋に続いていた玄暉は突然立ち止まる佳純を振り返った。
「どうかした?」
「先に行ってくれる?私ちょっとトイレに…」
玄暉は「じゃあ、一緒に行こう」と言おうとして、劇場でのことを思い出し止まった。
「そう。わかった」
玄暉をあとにして佳純はトイレに向かった。平気なふりをしたが、クラブの空気に気分が悪くなった彼女は、少しでも一息つきたいとトイレに急いだ。ここに入ってくるときにトイレの位置を確認していた彼女は、迷わずにトイレに向かった。
ちょうどトイレの前にさしかかると、佳純は廊下で激しくキスをしているカップルを見つけて驚き振り向いた。ドラマや映画では見たことがあったが、実際に目にするのは初めてだったので戸惑ったのか、彼女の顔は赤く火照った。
やっとのことで彼らを避けてトイレに入ろうとした佳純の肩を誰かが叩き、彼女は振り向いた。見慣れた顔。佳純の目に驚きが溢れた。
「やっぱり!まさかとは思ったけど」
「晴琉…さん?」
高校以来、会っていなかったが、佳純は正確に彼のことを覚えていた。知り合いなど見かけたこともなかった隼人が初めて友達だと家に連れてきたのが晴琉だった。
当時人見知りが激しかった自分に、優しく話しかけてくれたが、このように数年ぶりに偶然再会するとは。佳純は面食らった。
「わぁ。また、かわいくなったんじゃない?」
「そんなこと」
「ハハッ。ところでどうしたの?君がこんな所に来るなんて。友達と一緒?」
晴琉の問いに佳純はもごもごと答えた。
「はい…」
「そうなんだ。あ!ちょうどよかった」
彼女の答えに晴琉は喜んで、手を叩いた。
「隼人が酔っ払って部屋で寝てるんだ。俺、ちょっと買ってくる物があってさ。戻ってくるまで見ててくれない?」
隼人がクラブにいるという言葉に佳純の目は不安げに揺れた。
「佳純?」
ためらっていた佳純は答えた。
「わかりました」
佳純は混乱したが、努めて淡々とした表情を浮かべた。
「2階の右側の一番奥の部屋だよ」
晴琉が階段を指さしながら話すと、佳純はうなずいた。彼は「じゃあ」と言うと、出口に向かって歩いていった。晴琉の後ろ姿をじっと見つめていた佳純は、彼が視界から消えるとようやく複雑な表情で下唇をギュッと噛んだ。
想像もできなかった。こんな所で隼人と会うなんて。もしも玄暉と一緒に来たと知ったら、怒るのではないかと悩んでいた彼女は、階段を上っていった。
部屋へ向かう途中、いろいろな考えが胸をざわつかせた。ゆっくりと廊下に沿って歩いていた佳純の目に晴琉が教えてくれた部屋のドアが見えた。
気軽に入っていくことができず、ドアの前に立ったままためらっていた佳純は緊張した表情で慎重にドアノブを握った。カチャっという音と共にドアが開き、佳純は周りを見ながら部屋の中に入っていった。
証明の下に高級ウイスキーとつまみが見え、見慣れた顔の人物が中央のソファーに目を閉じてもたれかかっていた。ドアの開く音にもぐっすり眠っている隼人を眺めながら、佳純はゆっくりと彼のそばに近づいた。
「お兄ちゃん」
佳純の声にも隼人は起きなかった。彼女は息を殺して彼の隣にそっと座った。初めて見る酔い潰れた隼人の姿。佳純は彼から視線をそらすことができなかった。
静寂が流れ、強いウイスキーの香りが佳純の鼻を妙に刺激し、心臓が激しく打ち始めた。同時に、過去に隼人が言った言葉が走馬灯のように頭の中をかすめた。
「勘違いするな。俺とお前は何の関係もない。だからそんなに親しいふりをするな。俺には無理に笑うな。わかったか?」
優しく近づいた佳純に隼人が吐いた言葉だった。家族は母親しかいなかった佳純にとって隼人は憧れであり、一生望んでいた存在だった。
兄弟姉妹のいる友人を見るたび羨ましかったが、その中でできた兄という存在は彼女にとって特別であるばかりだった。しかも隼人は兄として出会っていなければ一目惚れするほど格好よくて、初めて会った瞬間から佳純の胸をときめかせた。
その時からだった。佳純は冷たく接する隼人の行動にも、どうにかして彼の関心を引こうと努力した。帰宅時間になれば、あらかじめ間食を準備しておいて持っていったり、隼人が面倒くさそうに部屋から追い出しても、部屋の前に立って話しかけたりもした。しかし、そのたびに隼人は鋭い目つきで心をえぐるような言葉を投げつけるだけだった。
いくら努力しても変わらない関係。さらに、隼人の帰宅時間が遅くなっていった。佳純は自分のせいで彼が気まずい思いをしていると感じ、独り暮らしを始めてからは次第に隼人と距離を置き始めた。しかしそのことをきっかけに、2人の関係は妙に複雑になり始め、今まで色々なことが起こった。
「お兄ちゃん」
物思いから覚めた佳純がもう一度、隼人の肩を揺らしながら呼んだが、隼人は微動だにしなかった。結局、佳純は諦めると隼人の肩から手を離した。
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