第21話



21.




 

 「大丈夫。あなたは悪くない。ただの事故だったのよ」


 

全身血まみれになって慌てていた自分を、優しく抱きしめてささやいた彼女の顔を思い出した。血に染まったまま残酷に微笑んでいる優奈に対する過去の残像のせいで、絶えられないほどの苦痛がこみ上げてくる時には、母親の代わりに慰めてくれた人。


 

「あなたが知っている事実は、佳純にも誰にも絶対に知られてはダメよ!わかった?」


 

紙に殴り書きした文章で強調しても心は休まらないのか、口をパクパクさせながら頼んでいた彼女の姿もやはり、頭の中に鮮明に覚えていた。いっそう知らなければここまで辛くはなかっただろうに。苦しくなる自分を振り返ると後悔だけが残った。


隼人は押し寄せる頭痛に額に手を当てると、椅子にもたれかかった。ピー。焦点の合わない目でしばらく考え込んでいた彼は、一瞬聞こえた音に机を叩いていた指を止めた。


―専務。ライム出版社の編集長がいらっしゃいました


受話器を通して聞こえる玲香の声に隼人はちらりと腕時計を見た。約束時間より遅れている。隼人は立ち上がって答えた。


「お通しして」


―はい


しばらくするとドアがカチャッと開き、編集長が部屋の中に入ってきた。隼人は誰かが一緒に入ってくるのを待つように、彼女の後ろを見つめた。


「渋滞に巻き込まれて遅れてしまい、申し訳ございません」


編集長の謝罪にもかかわらず、隼人は不満そうな目つきで無愛想に返事をした。


「今日もお一人なんですね」


編集長はこめかみ近くに流れる汗をぬぐいながら、ぎこちなく笑った。


「すみません。レニー先生は個人的な事情で、来れない状態でして…」


隼人の顔色を伺いながら、編集長は図々しく尋ねた。


「あの…立ったまま話すおつもりですか?」


隼人は無表情でソファーを指差した。


「お座りください」


編集長は緊張したせいで、咳き込みそうになるのを辛うじて抑えると、ソファーに素早く座った。前に会った時から感じていたが、彼と向かい合うと周りの空気が無くなってしまったかのように息が詰まった。編集長は静寂の中、ぎこちない表情で先に口を開いた。


「お久しぶりですね。もともとステキでしたけど、ますますステキに…」


微笑みながら話をしていた編集長は、しまったという思いに戸惑いながら口をつぐんだ。


考えだけにとどめねばならない言葉が、ブレーキをかける前にすぐに飛びだしてしまうので、手の施しようのない状況に陥っていた。


でしゃばりもいいところだ。恥ずかしさに編集長は照れくさそうな笑みを浮かべた。しかし、隼人は関心すらなかったのか、淡々とした表情で隣に置いていた書類を彼女に渡しながら話した。


「契約書です。先日、要請された通り契約条件は修正しました。あとは作家に署名をもらうだけです。」


「あ、そうでなくても今日はレニー先生の印鑑を…」


隼人が本論をすぐに切り出すと、編集長はようやく気がついたのか、カバンから一つ一つ印鑑を取り出した。そして書類を検討しようとした瞬間、隼人は彼女から書類を奪った。


何だろう?戸惑っている編集長に、彼は手に持った書類を前に置いて強い口調で言い放った。


「作家と一度も顔を合わせることのないまま交わした契約を、こちらが納得すると思いますか?」


編集長は彼の言葉に困った様子を見せた。


「あ…。おっしゃるとおりですが、初めてこちらにご提案いただいた時に十分に状況説明をさせていただきました…」


「この部分について、はっきりとさせておく必要がありますね」


編集長の言葉を遮り、隼人は特有の沈んだ声で話を続けた。


「作家が『メビウスの帯』に関するすべての事項をライム出版社に一任したとはいえ、それはあくまで口約束で、作品に関する著作権はあくまでレニー作家にあると聞いています」


「それはそうですが…」


「編集長のおっしゃったとおり、作家の状況は十分に考慮して、最大限身元がばれないように特別に気をつかうと約束しました。ですから損害を甘受してでも映画の広報をする際、作家に関するいかなる言及も一切しないことにも合意したんです。しかし、今のような状況はお互いの信頼のためにもよくはありません」


隼人はソファーにもたれた。


「ひたすら作品だけを見て、会社で単独投資を決めたにもかかわらず、レニー先生が最後まで私たちを信じられず代理人を通じて仕事をされるとしたら、今回のことは、私たちも考え直すしかありません」


断固とした隼人の態度に慌てた編集長の顔には、困りはてた様子が浮かんだ。今回隼人と一緒に仕事をすることになり、それなりに快哉を歌った編集長は、冷淡な彼に直接対面して初めて外見至上主義に陥っていた自分の過ちを悔やんだ。


実際、このような状況を事前に考えられなかったわけではない。しかし、事情を説明したところで、絶対に関係者と会わないとあらかじめ釘を刺している玄暉が、この場に出てくる確率はゼロに近かった。


「お互いの意見を解釈する上で、少しの誤解があったようです。あえて代弁するなら、レニーが外部に自身のことを知られることを極度に敬遠しているため、このような敏感なことがある度に摩擦が起きるんです。これは間に立っている私が賢明に対処できなかったことにも理由があると思います」


彼女は隼人の反応を慎重に伺った。


「とりあえず、契約は次回に持ち越すのはどうでしょう?次の打ち合わせにはレニー先生を…」


「いいえ。その必要はありません」


「はい?」


「我々のほうで直接レニー先生に連絡します」


しばらく話を続けていた編集長は、予想だにしなかった隼人の答えに金づちで頭を殴られたように戸惑った。玄暉に直接連絡をするなど、最悪の状況だ。編集長は急いで彼に話しかけた。


「あっ。それは困ります。作家の個人情報をむやみに教えることができないだけでなく…」


「それも私どもの方で調べますので」


編集長は硬い口調で言葉尻を切る隼人のきれいな口を今すぐにでも塞ぎたくて、手が震えた。何か事がかなりこじれていた。思い通りにいかない状況で、編集長の顔は無残に歪んだ。何か言い訳でもしなければならないのに、頭の中が真っ白になってしまった。


「話は終わったようですので、失礼してよろしいですか?次の会議がありますので」


隼人は整理した書類を持って立ち上がりながら言った。この状況を免れるために悩んでいた編集長は、脳に雷でも落ちたように、飛び起きた。


「あの…。専務、そうおっしゃらず私の話を…」


「次の打ち合わせでレニー作家を連れてくるという、そういう話をしようとしているんですよね?」


編集長は他の言い訳が思い浮かばないのか、ぐずぐずと口を開いた。


「それはそうですが…。そのほうが専務のお手を煩わせなくても…」


「私は今この状況自体が、もっと落ち着かない」


「……」


「レニー作家と直接話して次の打ち合わせの日程を決めます」


編集長の眉がぴくりと動いた。今日に限ってあのそそられる唇がなぜこんなに憎らしいのか、編集長は手でぐっと塞いでしまいたいのを我慢し、和らいだ声で話した。


「まあ、そうされるとおっしゃるなら…そうしないと」


「それでは近いうちにまたお会いしましょう。私は会議がありますので、これで」


「あ、はい。わかりました」


「それでは、お気をつけてお帰りください」


隼人は彼女に一言挨拶だけを残し、そのまま部屋の外に出た。一人残された編集長は、先ほどのことを振り返り、自分の髪をぐしゃぐしゃにした。


確かに、初めて映画化の提案を受ける時までは、あえて問い詰めると上だった立場が、隼人が介入すると、あっという間に下の立場に境遇は下落してしまったようで、心が複雑だった。


「あの子が知ったら大変なことになるだろうな…」


どのように説得すればいいのか悩みに陥った彼女の顔の上に暗い光が徐々に垂れ始めた。



 

* * *

 



「また出ないってわけ?」


花恋は鋭い目を開けたまま、爪を噛んだ。クラブから黙って消えた上に、玄暉は電話にも出なかった。これまで人に無視されたことのない彼女としては、徐々に我慢の限界を感じていた。


「花恋さん、撮影の準備をお願いします。」


スタッフがドアを開けて入ってきて話すと、マネージャーはすぐにでも爆発しそうな彼女の顔色を伺いながらそわそわした。


1日に何十回と気分が変わる花恋を見るたびに、すぐにでも仕事を辞めたいと思ったが、彼は生活に対する心配に、常に現れるイライラと怒りを静めるしかなかった。


「花恋、もう行かないと」


「これって玄暉の番号で合ってる?」


花恋が鋭い声で尋ねると、マネージャーは「どうして彼の番号を俺に聞くんだ」というように冷めた反応を見せた。


「合ってんだろ」


「じゃあどうして、電話に出ないのよ!」


「お前の電話だから出ないんだろ」とすぐにでも言いたかったが、マネージャーは後のことを考えて、言葉を飲み込んだ。本音をありのままに話したらどうなるか、彼は誰よりもよくわかっていた。


「後で不在着信確認して、連絡してくるだろ。だから、とりあえず撮影からしよう。な?」


「今日は雑誌のインタビューだっけ?」


「ああ」


マネージャーの返事に花恋は携帯電話の液晶画面に映る「左衛門玄暉」という名前を指でポンと叩いた。そう、あんたはこう出るってわけ?彼女は固い表情で下唇を噛みしめた。


正直、ここまで玄暉に未練が生じるとは思わなかった。最初はただ好奇心からくる関心程度だった。しかし、会えば会うほど変な意地ができてしまい、いつからか彼におかしな感情を感じるようになった。そして、その感情は先日爆発してしまった。


その時だった。自分にはいつも冷たくあしらって、完璧に無視していたあいつが、ある女性には過度に親切にして、視線を送っていることだ。彼女は否定したかったが,明らかにその女性に嫉妬し,限りなく彼女を包み込む玄暉が憎かった。憎くて、とても寂しかった。


「インタビューの質問に追加したいことがあるって伝えて」


花恋の突然の指示にマネージャーは不安そうな表情でためらった。


「質問…?」


マネージャーの反応に花恋は睨みながら言った。


「心配しないで。あなたを困らせる事じゃないから」


「でも…」


花恋は両目を輝かせ、彼を懐柔した。


「週末に1日休みをあげる」


「わかった」


たった1秒の迷いもなく、マネージャーが答えると、花恋は満足の笑みを浮かべた。あえてここまでしたくはなかったが、彼をひどい目に遭わせなければ、はらわたが煮えくりかえりそうだった。


「もう行こう」


マネージャーの催促に花恋は手に持った携帯電話の終了ボタンを押すと、それを意味深な目つきでマネージャーに渡した。


「持ってて」


マネージャーは普段、肌身離さなかった携帯電話を渡す花恋の行動に疑問を抱いた。一体何を考えてこんなことを言うのだろう。すでに不安な気運がもぞもぞと全身を締め付けた。


「まあ、なんとかなるだろう」


頭を痛めてもどうせ自分は花恋に立ち向かう才能がなかった。マネージャーは地面を突き破ってしまいそうな深いため息をつき、花恋の後を追って部屋を出た。

 



* * *



 

「おかえりなさい」


いつもより早く家に帰ってきた佳純の耳に思いも寄らない声が聞こえた。靴を脱ごうとしていた佳純は体をピクリとさせ一歩後ろに下がった。彼女の目に腕組みをして目を輝かせている恵子の姿が見えた。


「入ってこないで、何してるの?」


まっすぐに立った佳純の小さな体が石のように固まってしまった。リビングに漂う緊張感にしばらく迷っていた佳純は、恵子の顔色を伺いながら、躊躇なく中に入った。


「連絡もなく、突然。どうしてここへ…?」


ひょっとして弱みでも握られたかと、佳純は恵子の動線を避けて遠く離れて立った。


「どうして?私はいきなり訪ねてきちゃダメなの?」


「いいえ。そういう意味では…」


佳純は中途半端に立ち、口の中の言葉を飲み込んだ。佳純は実家から出て独り暮らしを始め、恵子はこの部屋には一樹に急かされ、2~3回来ただけだった。ところが連絡もなしに突然訪ねてきたので、佳純は不安にならざるを得なかった。


恵子は徐々に飾り棚の方に足を運んだ。そして、佳純が母親と一緒に撮った写真が入った額縁を手で撫でて、小さくつぶやいた。


「まったく…。幸せそうね」


恵子の口から皮肉るような冷たい一言が流れ出た。そしてすぐに彼女の手に押されて写真立ての一つが床に落ちた。

 

 

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