第22話

22.

 

 




ガシャン!


「何をするんですか…」


「あなたみたいなのを引き取るんじゃなかった」


何気なく続く言葉とともに、2つ目の写真立てが恵子の手から離れ、床に落ちた。


ガシャン!


「あれだけ警告したでしょ。おとなしくできないなら母親のこと、ただじゃおかないって」


ガシャン!


「それなのに、怒らせるなんて」


ガシャン!


恵子は佳純が母親と撮った写真だけを選んで床に落とすと、鋭い目つきで佳純を振り返った。この状況が理解できないというように、佳純の顔にショックと混乱が同時ににじみ出た。


「何のことをおっしゃっているのか、わかりません…」


魂でも抜けた人のようにぼんやりとした目つきをした佳純の声は震えていた。残酷な警告。全身を蝕むほど激しく押し寄せる恐怖に佳純の顔が真っ青になった。


地獄のような場所で、なんとか絶えられた理由が恵子の口から出た瞬間、佳純の理性は急激に崩れ落ちた。


「隼人がここに毎日のように出入りしてるみたいだけど…本当なの?」


ゆっくりと近づいてくる恵子からきつい香水の香りと酒のにおいが絡み合って濃く漂った。


「それだけでは足りなくて、外でもよく会ってるとか…。全部本当のこと?」


心臓を締め付ける冷たく殺意に満ちた視線が、徐々に佳純を襲ってきた。いつの間にか目の前に到着した恵子は、ためらうことなく佳純の頬をぶった。


バシン!


「年長者が質問したら、すぐに答えなさい。どこで礼儀を身につけたの?」


佳純は頭が揺れるほどの大きな苦痛にも声を上げなかった。反抗でもしているのか、もう一発ぶつ勢いで手を上げる恵子を避けることもせず、むしろ恨み混じりの目で睨んだ。


その姿に恵子は手をゆっくりと下ろした。佳純の目つきと態度がある女性を連想させ、恵子の怒りは極限に達した。


「話したくないなら、話さなくていい…。あなたがどういうつもりで隼人に近づいたか、見ていればわかることだから」


「……」


「その代わり、これからは、あなたの母親に対する配慮なんてものは期待しないで」


その後、言葉が途絶え恵子はソファーに置いていたハンドバッグを持ち、悠々と玄関に向かっていった。


「誤解…なんです」


佳純の横を過ぎて歩いていた恵子は、隣から聞こえる低い声に彼女のほうへ頭を向けた。


「何を想像されているのかわかりませんが、お兄ちゃんと私は何の…」


「言い訳でもするつもりなら、必要はないわ」


恵子が佳純に近づくと顔をまじまじと見つめた。


「私がどうしてありもしない、おぞましいことまで考えたか…。気になる?」


少し時間を空けて、恵子が冷ややかな目つきで話を切り出した。


「あなたとあなたの母親みたいな人たちの悪い習慣をよく知ってるからよ」


佳純の顔はぐしゃっとなった。耳障りなほど低い恵子の声が、一瞬にして佳純の心臓を貫いた。怒りと羞恥心で真っ赤な顔をした佳純の指先はぶるぶると震えていた。


「いま…おっしゃったこと。取り消してください」


佳純が震える声で恵子に向かって声を押し殺して言った。しかし恵子はむしろ馬鹿げているというように鼻で笑っただけだった。


「怖くないようね」


「ほかのことは我慢できても、母のことだけは…」


「お黙りなさい」


恵子が不快な様子を見せながら、叫んだ。佳純の反応を見ていると、彼女の母の姿が目の前にちらつき始めた。それでも医者だと、ひと言も負けずに反論する姿が気に障る女だった。


パノラマのように過去の出来事が脳裏をかすめると、恵子は我慢していた言葉を吐き出した。


「あなた…。母親が普通の事故であんなことになったと思っているの?」


恵子の口元に残酷な笑みが浮かんだ。


「あなたの母親が私の警告をちゃんと理解していれば、入院することなんてなかったのに…」


「それって…何のことなんですか?」


不安と恐怖が入り交じった佳純の顔を、恵子は軽蔑に満ちた目つきで打ち返すように凝視した。見れば見るほど、鳥肌が立つほど似ている。あの女に。


「あなたの父親が私に死ぬまで秘密にしろと言った事。真実のことよ」


恵子の目に徐々に怒りの色が浮かんだ。


「他人の家庭を壊した女狐のようなあなたの母親を私が…飲み屋に売り飛ばしたってことをね」


飲み屋?


「なん…ですって…?」


佳純は虚ろな目で震える手をぎゅっと握り締めた。彼女はショックのあまり顔色が真っ青になった。精神が次第に混迷していった。


「信じられないみたいね」


佳純が信じられないように首を横に振っていると、恵子がぞっとする笑みを浮かべた。


「だから、そうだと思って生きていきなさい。どうせ、あなたの母親も私が手を回したことを知らないから」


二人の視線が微妙なところで絡み合った。佳純は絶望したが、恵子の顔には魂が抜けてしまった佳純に対する少しの同情心も映っていなかった。夫との約束など、すでに彼女の眼中から消えて久しい。


生きて呼吸することさえ地獄なのに、恵子は佳純と隼人が一緒にいる姿さえ見る自信がなかった。2人の仲を誤解していると言われても関係ない。


たった一人の息子が、憎くくてしかたないこの子に好意を持っている姿を見なくてすめば、それでも頼みの綱を放さずに耐えられる生命のような存在を、これ以上奪われることがないのであれば、この子の感情と心など関係なかった。ただそれだけだ。


「今まで私が言ったことは、最後の警告よ」


恵子は玄関のドアの前に立って、佳純をちらりと振り返った。


「母親みたいになりたくないなら…」


強い警告。


「逃げることなんて考えずに、息だけして暮らすのよ。死ぬまで…」


その言葉を最後に恵子はドアを開けて外に出た。


バタン!


激しくドアが閉まり、余波で押し寄せた重い空気が家の中いっぱいになった。冷たい玄関のドアが音を立てて閉まるように、佳純の心も音を立てて閉じてしまったようだった。残忍な恵子の言葉が胸をめった切りするように刺さった。血が心臓を突き抜けて噴き出した。喉まで熱くなった何かが彼女の目を刺激した。


「うっ」


突然みぞおちから上がってくる吐き気に、佳純はかろうじて体を回してトイレに向かった。激しいストレスで時々気分が悪くなると現れる症状だった。しばらくトイレにとどまっていた佳純は、すぐに静まった揺れにゆっくりと居間にあるソファーに足を運んだ。


どかっと体を横にしてぼんやりと宙を眺めた彼女の顔が赤く熱くなっていた。佳純は怒りと絶望に詰まり、息をしようともがき、冷静さを取り戻そうと沸き上がる鬱憤も飲み込んだ。


「はぁ…!」


佳純は虚しいため息をつき,起き上がって床に散らばっているガラスの破片に足を踏み入れた。彼女の足の裏はガサガサという音とともに血まみれになった。しかし、苦痛を感じない人形のように、佳純はそのまま腰を曲げて割れた写真立ての間に挟まれていた写真を拾った。一生話せない苦痛を抱え込んだまま生きていかなければならなかった彼女の母親が写真の中で笑っていた。


「最初から私たちだけで暮らすんだった…」


ぎゅっと閉じて暗くなった佳純の視界に母親の顔が浮かんだ。どうにかして彼女を保護するために地獄のようなこの家で必死に持ちこたえてきたが、結局返ってきたのは冷淡な現実だけだった。全身が痙攣するほど我慢したが、これ以上乗り越える自信がなかった。


「ふっ…」


必死に堪えていた涙が彼女の頬に流れた。指先が震えて、唇が真っ青になっていった。ガラス片が足の裏に刺さり床が湿るほど血が出たが、苦痛さえ感じられなかった。彼女はじっと座って写真を抱きしめたまま、涙を流し続けた。


「ふぐっ…ふっ…」


暗闇が下り、冷たくなった空間に彼女の泣き声だけが響き渡った。



 

* * *

 



「それ何?」


事務室の中に入ってきた玄暉の手に見慣れない何かが握られていた。コーヒーとケーキ?出版社に来たのも数回しかないのに、自分で食べ物まで持って訪ねてきたのを見ると、何か釈然としない様子で編集長の目が細くなった。


「手ぶらで来るのはあれなので」


「手ぶらで来ることが相手に負担をかけない最高の美徳だと言ってた子が、ひっくり返しちゃうわけ?」


編集長の責められ玄暉は手に持った食べ物をテーブルの上に置き、気乗りしないように答えた。


「そういえば、そんなこと言ったような気がする」


「急に何の話だって、今までやらなかったことするのよ?不安になるじゃない」


関心のないふりをしていたくせに、編集長はいつのまにかケーキを取り出して指ですくって食べた。玄暉はしばらくためらった後、ソファーに座りながら言った。


「大したことではなんですが…」


「何なの?」


編集長の催促に玄暉は彼女と目を合わせながら尋ねた。


「柳原隼人代表…のことなんですが」


「柳原隼人?」


編集長が話を切り出す前に反応すると、玄暉は普段、意地悪なところがある彼女を疑い深い目つきで睨みつけた。


「かなり好きなんですか?柳原代表のことを考えると胸がどきどきするとか?」


皮肉めいた彼の話し方に編集長に照れくさそうに声を整えながら答えた。


「そんなんじゃなくて、あなたが突然彼の話を持ち出すからよ」


編集長はもしかしてすでに隼人と話したのかとハラハラしたが、玄暉は特に表情を変えることなく、ストローをコーヒーに差し込み一口飲んだ。


「A&T企画と契約するんですよね?ってことは、僕と関係があるんじゃないですか?」


予想していなかった彼の問いに編集長は「ピンとこない」という表情で尋ねた。


「それで言いたいことは何?」


「柳原代表に直接会ってみたいです」


玄暉の言葉に編集長はしばらくぼうっとした。ひょっとして耳がおかしくなったのかと耳を傾けた彼女は、すぐに玄暉を呆れたように見つめながら尋ねた。


「あなたが?」


「はい」


「どうして?」


信じられないというように彼女の瞳孔が広がった。


「ただ…一度お会いしたいんです。まあ、いろいろ聞きたいこともあるし」


「だから彼に聞きたいことって何なの?」


根掘り葉掘り聞いてくる編集長が気に入らない様子で、むっとした表情で玄暉が答えた。


「そんなことまで編集長に選別してもらわないといけないんですか?」


「あっ、そういう意味で言ったんじゃなくて…」


話を続けていた編集長は、あっという間に口をつぐんだ。重要な機会だった。どうすればあのクソ意地で武装した玄暉を隼人の前に連れて行けばいいのか頭を痛めていたのに、直接自分から訪ねていくとは…。一瞬、彼女の表情が明るくなった。


「そうね。じゃあ、打ち合わせの日程が決まったら知らせるわ」


くすくす笑う編集長の姿が何だか気にかかったが、玄暉はひとまずうなずいた。方法はともかく、会うだけでいい。彼の表情が微妙に変わった。


「あっ、その前に…」


ヴーッ…


テーブルの上に置かれていた玄暉の携帯電話が鳴ると、話し出そうとしていた編集長は出なさいというように玄暉に目を向けた。別のことを考えていて、ようやく携帯電話を確認したヒョンの顔に驚きがあふれた。


[柳原佳純]


突然の彼女からの電話が信じられないようで、玄暉はしばらく液晶画面をのぞき込んだ。


「誰なの?」


編集長が好奇心に満ちた目つきで携帯電話を見ようとこっそり頭を出した。すると彼は立ち上がって彼女を避けて席を移した後、慎重に通話ボタンを押した。


「佳純ちゃん」


―……


何の返事もないので、電話に出るのが遅くて切れたのかという焦りから、玄暉は液晶画面を再びのぞき込んだ。


―もしかして今、忙しい?


その時、ふいに聞こえる彼女の声に玄暉は素早く携帯電話を再び耳に持っていった。


「ううん!忙しくない!声がおかしいけど、どうしたの?」


―それが…。ごめんね、急に電話して…。何も考えずに…。だから…


「佳純ちゃん?」


―歩いていたら学校の前だったの。それで、ひょっとしたらと思って電話したんだけど…

しどろもどろ話す佳純の声に玄暉の表情が固まった。不安そうに震える彼女の声が全身の神経を刺激するようだった。


「今どこ?」


―…学校の前


「すぐ行くから。そこでちょっと待ってて」


すぐにでも消えてしまいそうなかすかな声に、玄暉はドアに足を向けた。外に出ようとした瞬間、彼は自分の手を握る編集長の手に後ろを振り返った。


「まさか付き合ってる人がいるの?さっきの電話は何?」


編集長がにやりと笑いながら尋ね、玄暉は彼女の手を振り切って無愛想に答えた。


「そろそろ、そういうこともしようかと」


「え?」


恋愛の「恋」だけを取り出しても痙攣を起こしてた子が恋愛ですって?編集長は信じられないというように、両目を大きく開けた。


「相手は誰?」


「知らなくてもいいです」


きっぱりと言い切ってドアを出る彼に編集長が真っ直ぐな目で叫んだ。


「ちょっと!玄暉!」


「また今度」


「まだ話を始めてもいないのに、どこに行くのよ!」


振り返りもせず走り去る玄暉の後ろ姿を見ていた編集長の口からため息が漏れた。歳を取ってから恋愛を知るとハマるとは言うが、初めて見る玄暉の行動に空笑いが思わず出た。


「あの子が恋愛?」


改めて編集長は玄暉が恋愛するなんて信じられないという様子で、首を横に振った。


「私以外は世界中の人が恋だ愛だに忙しいのね。私の運命って!」


苦々しい気持ちで、憂鬱になった編集長の肩が落ち込んだ。

 

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