第20話




20.

 



 

満は周りを見回した。財界の名高い奥様たちがそれぞれ息子のような男たちを横に侍らせて座っていた。男たちは皆、慣れているように作り笑いを浮かべ「奥様」と熱唱するのに忙しそうだった。


華やかな照明の下に座り、ぼんやりした目つきで正面を見ていた満は、突然目の前に現れたグラスに驚き、隣を見た。


「グラスが空なの、見えない?」


恵子がグラスを振りながら言った。やっと我に返った満は黙って彼女のグラスに酒を注ぎ始めた。


どれくらい時間が経っただろう。今すぐにでもゾッとするこの場から逃げたしたい気持ちで、満はポケットからこっそりと携帯電話を取り出すと時間を確認した。1時間ほど経っていたが、まるで1日を費やしたように、既に疲れ果てていた。


「行こうか?」


背筋がゾッとするような恵子のひと言に、満が驚いた目をして尋ねた。


「えっ?」


「店を変えてお酒を飲みましょうってことなのに、何をそんなに驚いているの?」


恵子の言葉に皆が満の反応を笑い始めた。鳥肌が立つほど恐ろしい状況。彼は逃げだそうとしていた自分を無理やり部屋に放り込んだ宙志がただただ恨めしかった。


「俺は、大丈夫ですけど…」


「私が大丈夫じゃないのよ」


きっぱりと言いながら恵子が席を立つと、満の顔に困った様子が浮かんだ。むしろ相手がほかの人だったら、悩むことなく冷たく部屋を出て行っていたかもしれない。しかし、佳純の母親であると知った以上、むやみに接することもできず、慎重に振る舞うしかなかった。


この状況からどうやって抜け出そうか悩んでいた満は、自分の手首を掴む恵子の行動に両目を丸くした。


「立ちなさい」


満はすぐに立ち上がることができず、座っていた。背中を冷や汗が流れるのを感じた。


「あなた、この業界から消えたい?」


恵子の残忍なひと言に満は身震いした。彼はついに拳を握りしめたまま、ゆっくりと立ち上がった。真っ黒な不安が頭の中をかき乱すように、彼の目は不安げに揺らいだ。


「では、お先に失礼するわ」


「はい。奥様」


恵子は女性たちに手を振って挨拶をすると、満と一緒に部屋を出た。何かに取り憑かれたように無表情で歩いて行く満をちらりと見た恵子の口元に嘲笑が広がった。


まだ純粋な姿。彼女の視線は満を離れて前に向かった。自分で考えても恐ろしいことだ。母親ほど年の離れた女性相手に酒の接待だけでなく、性的な接待までしなければならないと考えると、おそらく死にたくなるほど惨い気持ちだろう。


だから何だというのだ?この状況を作ったのは、顔だけで芸能人になるとか、身体を売るとか、そういう者たちに惜しみない投資をする自分のような女性がいるからではないか。


言い換えれば、お互いの合意による取り引きに他ならないということだ。それ以外に非難される罪などない。地獄のような人生を辛うじて絶えている彼女には、そのようなことを計算する余裕さえ残っているはずはなかった。


「奥様。お帰りですか?」


恵子と満が出口に近づくと、若い男たちがすぐさまやってきてドアを開けた。宙志は両手を揃えて恵子に話しかけた。


「車は前に回しておきました」


「そう。木戸(きど)室長、今日もご苦労様」


「とんでもない。仕事ですから」


宙志の肩をポンと叩きながら話した恵子の体が突然横に傾くと、満は驚いて素早く彼女の腰を掴んだ。


酒のせいで、体を支えるのが大変なのか、やっとまっすぐに立った恵子は本能的に自分を支えてくれた満のことを感心するように彼の頬を撫でた。


「ありがとう~」


満は恵子が話すのと同時に宙志を睨んだ。彼は恵子を車のほうへ案内するのに忙しかった。満の表情は一瞬にして歪んだ。


今すぐにでもスポンサーも何もかも投げ出したかったが、色々な複合的な考えと絡み合って、躊躇した。そんな自分の態度に心の底から自ずと悪態が出た。いくら酷い星の下に生まれてきたからといって、ここまで事態がこじれるとは神を恨まざるを得なかった。


「乗って」


車の前で立ち止まった恵子が、満を振り返りながら命令するように言った。横で見ていた宙志が満に急いで「早く乗れ」と口を動かした。それでも満は固くなって立ったまま、動くことができなかった。なぜかこの車に乗ってしまうと、越えてはいけない線を越えてしまうという思いが、彼を引き止めていた。


「待って」


どうかこのまま恵子が自分のことを諦めてくれるようにと切実に願っていたその時だった。彼女が通りの向こうに誰かを見つけたのか、視線が釘付けになっていた。


「あれがどうして…」


恵子は向かいに見える3人の姿に唇を震わせた。たった一人の息子と、目の敵のような女。突然我に返った。


晴琉も一緒にいるのを見ると偶然に会ったとは思えなかった。彼女の脳裏を過去の残像がかすめた。


「奥様?」


尋常でない恵子の表情に宙志が首をかしげながら彼女を呼んだ。しかし恵子は一カ所を見つめたまま、動く気がないようだった。宙志はいぶかしがって満に顔を向けた。満もまた、道の向こうの誰かを見てびっくりしながら振り返った。


「今日はもう帰りなさい」


曇っていた恵子の目が鮮明になった。宙志は突然の彼女の命令が理解できないといった顔で聞いた。


「奥様。それはどういう…」


「今日は用事ができたから、あの子を帰しなさいと言っているの」


恵子は宙志に腹を立て、車に乗り込んだ。宙志は突然の恵子の変わりように戸惑いながら、車の前に立ち尽くして彼女を見つめた。


ただの一度もパートナーを連れて帰らないことがなかった彼女。ところが、どういった心境の変化があったのか、それとも自分の知らない所で失礼があったのか、全くピンとこない状況の前で宙志はどうしていいかわからなかった。ただ、恵子が乗った車のドアをじっと眺めているだけだった。


「お宅に向かいますか?」


恵子が車に乗り込むと、運転席に座っていた男が振り向きながら尋ねた。恵子の顔は再び車の外、隼人と佳純に向かっていた。


「あれがどうして隼人と一緒にいるの?」


「私にも…わかりません」


男の答えに恵子が冷たい目つきで爪を噛んだ。特に他人には冷たく接する隼人が、おかしなほど佳純を気にかけるたび、ただ会長によく見せるための上辺だけの行為だと思っていた。少なくとも会社に関することなら、何でもする男なので、もちろん佳純に対する言動もその程度だと思っていた。


そう…時々疑問を感じはしたが、ただの過剰反応だと思っていた。しかし、隼人の車に佳純が乗り込むのを見た瞬間、恵子はなぜかわからないが確信した。


「金子室長」


「はい。奥様」


「隼人と佳純が頻繁に会っているのか調べて」


隼人の車が走り去った場所をじっと見つめながら、恵子が唇だけ動かして指示した。不快な何かが喉を登ってくるようだった。過去の恐ろしい記憶が彼女の頭を支配した。


空気まで凍り付きそうに冷たい雰囲気。いつの間にか鋭く尖った彼女の目つきをバックミラーでみた金子はゆっくりとうなずいた。


「承知いたしました、奥様」



 

* * *

 



まるで誰かが追いかけてきたかのように、玄暉はクラブの外に急いで飛び出し、壁に身を寄せて深呼吸をした。彼の目には混乱が見え、暗い顔をしていた。


トイレに行ってくると言って振り向いて歩いていた佳純の後ろ姿が目の前にちらついた。それから、なかなか現れず心配な気持ちでクラブの中を歯ぎしりするように捜していた玄暉は、佳純が電話にも出なくて困っていたところだった。


もしかしたら悪い奴に絡まれて、何かあったのではないかと頭の中がぐちゃぐちゃになっていた時だった。2階に行き、再び佳純に電話をかけた玄暉は、ちょうど部屋の中から出てくる隼人を見つけた。それと同時に佳純が電話に出た。


不吉な予感がしたが、玄暉は隼人を凝視し、淡々と佳純と話した。そして通話が終わる頃、嘘のように、壁に隠れて見えなかった佳純の姿が見えた。


隼人の登場に途方に暮れている佳純の顔が目に入り、心が大きく揺れ始めた。彼らの間には兄妹とは言いがたい妙な視線が行き来し、見慣れない雰囲気が2人を取り囲んでいた。


 

「腹違いの兄妹なのよ」


 

過去の編集長の声が耳元に響いた。確かに異母兄妹だと言った。いずれにせよ、父親が同じだという意味だった。ところが、佳純と隼人を見ると、しきりに気分が悪くなる何かが彼の頭の中で想像された。はらはらする綱渡りを見るようで、危なげに見えてしきりに彼の神経に触った。


しばらく黙って考え込んでいた玄暉は、自分の手に握られている携帯電話をじっと見下ろした。色々な思いと悩みが複雑な心境をあらわにした。


ヴーン


その瞬間、携帯電話が振動し、玄暉は液晶画面を見た。花恋からだった。彼の顔に苛立ちが滲み出ていた。


―どこにいんのよ?まさか帰ったんじゃないわよね?


余計な言い訳さえ並べれば、しつこく言葉を付け加えて嫌がらせをしてくる女だった。花恋のメッセージに返信もせず、玄暉は注意深く出口のほうを見つめた。その間、佳純と隼人が外に出て、玄暉は彼らが一緒に待機していた車の後部座席に乗り込むのを見守った。


車が見えなくなるまで視線をそらすことができなかった玄暉は、何かをためらって携帯電話をいじった。普通の兄妹というには少し納得できない2人の姿。しきりに自分を苦しめるこの疑問を解決しなければ、もどかしくておかしくなりそうだった。


玄暉はどこかに電話をかけた。呼び出し音がしばらく続き、聞こえてくるざわめきに彼は片方の目をしかめた。


「どこですか?」


―あらぁ。作家大先生がこんな時間に電話なんて、どうかしたの?


酒に酔っているのか、ろれつの回らない様子で編集長が尋ねると、玄暉は道路のほうへ歩きながら答えた。

「あした事務所に行きます」


―えっ?何?


いつもは無理やり引っ張って連れてこようとしても、来ない彼が自分から出向いてくるという言葉に、編集長が警戒心の籠もった声で聞き返した。彼女の気持ちを読み取った玄暉はタクシーを捕まえるために手を挙げ、ひと言ひと言はっきりと話した。


「聞きたいこともありますし、ほかにも話があるので」


―うーん…。そうなの?明日は外出しないといけないのよ。午後には事務所に戻るけど?


「関係ありません。では明日の5時ごろ行けばいいですか?」


―ええ。その時間なら事務所にいると思うわ。ところで何の話?


「明日会ってから話します。それから、頼むから年相応の…」


プツッ。玄暉の無差別攻撃のような小言が炸裂するのを予想したのか、編集長は電話を切ってしまった。玄暉は大人気ない編集長の行動に呆れたように首を横に振った。彼は目の前に止まったタクシーに乗り込んだ。


真冬に霜がおりた場所に立っているように体中が冷たくなり、炎に包まれたかのように熱い何かが喉までこみ上げてきた。初めて経験する感情。玄暉は慣れない経験に全身がへとへとになったようだった。


「○○区にお願いします」


目的地をタクシーの運転手に告げると、玄暉はそのまま椅子にもたれかかった。ときめきで始まった1日。しかし、結局失望と混乱の中で終わってしまった。玄暉は落胆した表情で徐々に目を閉じた。



 

* * *



 

最後の決裁書類にサインをして椅子から立ち上がった隼人は、焦点がぼやけた目でぼんやりと窓の外を眺めた。昨日のことが思い出され、思わず額にしわを寄せた。


「玄暉くん」


隼人の耳に入った佳純のひと言。誰かは推測できる名前だった。彼との通話がばれないように、佳純の行動はいつにも増して慎重だった。その姿がしきりに目の前に浮かび上がり、彼の神経を逆なでした。


「はぁ…」


幼稚極まりない感情を隠そうとしても、本能的に表情と行動に出てしまい、結局惨めな自分の姿を見ることとなった。


短いため息。そして押し寄せてくる疲れに、しばらく目を閉じていた隼人は、携帯のメッセージの着信音に机の上に置かれた携帯電話を手にした。


 

[隼人君、穂乃恵です。佳子(よしこ)の調子がとても悪くて昨日電話したんですが、出なかったのでメッセージを送ります。この前何度も言われたから、佳純には連絡していませんが、どうすればいいかわかりません。とりあえず、このメッセージを見たら連絡ください。]


 

メッセージを確認した隼人は重くため息をついた。これからよくなるという彼の期待とは裏腹に、佳純の母親である佳子の状態は日増しに深刻になっていた。不安な気持ちを代弁するかのように、隼人はしばらく指でテーブルを叩いていた。


規則的な音が部屋の中に響き、歪んでぼやけた視界から、過去の佳子とのことが走馬灯のように通り過ぎていった。

 

 

 

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