第19話

19.

 

 


緊張したせいでのどが渇き、テーブルの上に置かれた氷の入った水を一口飲んだ佳純は、隼人の反応に驚き、彼から遠ざかった。起きた?しかし、隼人はまたすやすやと眠りにつき、佳純は胸をなで下ろした。


そういえば、隼人が酒に酔った姿を見るのは初めてだ。完璧主義者である隼人は、人前でむやみに乱れた姿を見せたことがなかったからだ。不思議そうに隼人から視線をそらすことができない佳純は、少しずつ近づくと、乱れた前髪に手を伸ばした。


柔らかい感触が指先に届き、胸が激しく鼓動を始めた。しばらく隼人の顔を見ていた佳純は、悪夢でも見ているかのように眉を動かす隼人の姿に髪を触っていた手をゆっくりと顔へと動かした。隼人の眉毛に手が届くころ、突然手首をぎゅっと掴む手に、佳純は息を止めた。


「何だ…?」


隼人のぼおっとした目と向かい合った佳純の表情は硬くなった。


「お…お兄ちゃん」


「お前…。どうしてここにいるんだ?」


佳純を見て酔いが覚めたように隼人は目を開けると、首をかしげた。佳純は戸惑った表情でもごもごと答えた。


「は…晴琉さんに言われて…」


「晴琉が?」


晴琉と飲んでいたことを思い出した隼人は、頭痛が押し寄せてきたのか、こめかみを指で押さえながら顔をしかめた。飲み過ぎたと思ったが、自分でも知らぬ間にどうかしてしまったようだ。


いつもなら飲まない量を飲み、ソファーにもたれかかったまま眠ってしまったのをみると。隼人は喉に渇きを覚え、目の前にあった水を1杯飲んだ。


隼人はぼんやりと自分を眺めている佳純を見た。彼女はまるで悪いことが見つかったかのようにぎくりとした。隼人はそんな佳純の反応に呆れたように苦笑いをした。


「お前のことを取って食おうとしたか?どうして、そんなに驚くんだ?」


「ううん」


「まさか晴琉がお前のことを呼んだのか?」


隼人の問いかけに佳純は戸惑った表情で目を伏せた。佳純がすぐに答えられないでいると、隼人は周りを見渡し、彼女に聞いた。


「晴琉はどこだ?」


「ちょと買い物に出てった」


「そうか?」


「お酒をたくさん飲んだみたいだけど…。大丈夫なの?」


佳純が心配そうに尋ねると、隼人は額に手を当てると答えた。


「まあ。今のところは」


隼人が答えると同時に、一瞬にして空気が重く変わった。きごちないのか佳純は水の入ったコップを無言で撫で、隼人はテーブルの上に置かれたウイスキーをグラスに注ぎ始めた。既にかなり飲んでいるのに、さらに飲もうとする隼人が心配で、佳純は彼のグラスを奪って言った。


「これぐらいにしときなよ。沢山飲んだんでしょ?」


「心配するな。お前におぶわれて帰ることはないから」


冗談なのか、本気なのかわからない言葉を吐き出した隼人は、グラスを奪い返して酒を飲んだ。佳純の視線が自然と彼に釘付けになった。少し緩んだ目元、息苦しいのか少し緩めたネクタイの彼の姿が、佳純の目に一瞬にして飛び込んできた。落ち着いた心臓がまた動き始め、佳純の顔に当惑が見えた。


見慣れないが見慣れた感じ。グラスを握った細い指が彼女の視界に入るたびに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのか、佳純は自分でも知らぬ間にテーブルに置かれたウイスキーをグラスに注ぎ始めた。佳純が酒を飲んでいるところを一度も見たことのない隼人の目が細くなった。


「お前…。酒を飲むのか?」


「私、結構飲めるのよ。お兄ちゃんは知らないだろうけど」


佳純はわざと見せつけるように、酒をいっぱいに満たした。隼人は口元を上げながら、反射的に彼女からグラスを奪うと、酒を飲み干した。そうして妙な目つきで佳純を見つめると再び酒を注いだ。


「そんなに飲めるなら、くれてやる」


佳純は彼の言葉がどういう意味なのか理解できない様子で、首をかしげた。あえて、自分が注ぎたかったのかという疑問が浮かんだころだった。


隼人はグラスを酒でいっぱいにすると、佳純の腰を抱きしめて自分のほうへ引き寄せた。佳純はあっという間に近づいた隼人との距離に驚きながら、両目を丸くして彼を見上げた。


「な…何するの?」


「お前がそんなに飲めるなら、近くで見ようと思ってな。どんだけ飲めるのか」


いたずらっ子のような彼の話し方に佳純は隼人から離れようと、腰を抱いている隼人の手を掴もうと努力した。ところが、もがけばもがくほど隼人はさらに自分のほうに佳純を引き寄せ、彼女はどうしていいかわからなかった。今すぐにでも何かが起こりそうで、部屋の中は緊張感が漂い始めた。


「お前ら何してんの?」


激しく鼓動する心臓の音に、ぼんやりと隼人を見つめていた佳純は、耳に突き刺さる晴琉の声に驚き、ドアのほうへ視線を向けた。


晴琉はアイスクリームを咥えて袋を持って、ドアの前に立っていた。隼人は淡々とした表情で、佳純の腰に回していた手を自然に肩へと動かした。


佳純の体がビクッと震え、2人の間にぎこちない沈黙が流れた。しかし、晴琉は特に関心のない様子で、袋を持った手で頭を掻きながら佳純の隣にどっかり座った。


「酔いは覚めたみたいだな?起きないと思ったのに」


「どこに行ってたんだ?」


「二日酔いのドリンクを買いにな。アイスクリームはおまけ」


隼人は袋からひとつひとつ品物を取り出す晴琉に視線を向けると、佳純は急いで体を起こして晴琉の向かいの席に移動した。あの時、晴琉が来なかったら何が起こっていただろうかという思いに、佳純の手には汗が滲んだ。


「佳純、アイスクリーム食べる?」


「ううん。私は大丈夫」


「沢山買いすぎたかな?じゃあさ、これ持っていって友達にあげなよ」


晴琉の言葉にドリンクを飲んでいた隼人の目が一瞬鋭く変わり、佳純の顔は真っ青になった。


「晴琉、お前が佳純をここに呼んだんじゃないのか?」


酒に酔って寝てしまったので、晴琉がわざわざ佳純を呼んだのだと考えていた隼人は、思いも寄らない彼の発言に眉をひそめた。


再び雰囲気が重くなり、晴琉は異常な雰囲気を察したのか、佳純をチラリと見た。不安げな顔をしてそわそわとしている佳純を見て、何か状況がよくない方向に向かっていることにすぐに気づいた。


「そうだよ。俺が呼んだんだ」


事実とは違う彼の言葉に佳純は戸惑い、晴琉は手に持っていたアイスクリームをコップの中に入れると自然に話した。


「お前が酔いつぶれたんだ。来てくれるのは妹だけだろ?」


「佳純、話してみろ。こいつに呼ばれて来たのか?」


急所を突くような彼の問いに佳純は両手を握り、固く口を閉ざした。喉の奥が詰まり、手が冷たくなるのを感じた。今すぐ本当のことを話せと言わんばかりの彼の目つきからも、玄暉と一緒に来たことを知られては大変なことになることは目に見えていた彼女は、口を開くことができなかった。


「そ、それが…」


「酒に酔って、疑い深くなったか?どうして濡れ衣をきせるんだよ?俺が違うって言ってるだろ?」


佳純を注意深く見つめていた晴琉は隼人の隣に移動し、落ち着けというように隼人の肩に腕を回して言った。しかし、すでに隼人の目に晴琉は見えていないのか、彼はただ戦々恐々としている佳純をじっと見ていた。


すぐに答えるだろうという隼人の考えとは違い、佳純は口を開こうとしなかった。気分を害した隼人は冷たい表情で晴琉の腕を振り払った。そして、椅子から立ち上がると佳純に手を差し出した。


「立て。帰るぞ」


佳純が手を掴まずにためらっていると、隼人は彼女の手首を引っ張って立たせた。晴琉は突然の出来事に、かえって慌てた。


「帰るのか?」


「お前は帰らないのか?」


「帰るよ。だけど…」


言葉を濁した晴琉の目が佳純に向かった。こいつは妹がクラブに出入りするのを見張るほど大切にしてるってのか?という疑問から唇から笑い声が漏れた。今日に限って、本当にいろいろな姿をみせてくれる。血の流れていないようなあいつが。


「佳純は俺が送ってくよ」


突然の晴琉の言葉に隼人が激しく反応した。


「お前がどうして?」


「○○区に住んでんだろ?俺ん家から近いから…」


「いいって」


とんでもない話だと言うように、話し終わる前に隼人が彼の話を遮った。晴琉は恥ずかしそうな表情で額を掻いた。記念パーティでも佳純のことで隼人がキレたという噂が広まったが、本当のようだ。


晴琉の視線はゆっくりと佳純に向かった。紅海グループが主催するパーティに会社の用事で参加できず、佳純を何年ぶりかで見た晴琉は、とても綺麗になった彼女の姿に、自分の妹のように微笑んだ。


そう考えると理解ができた。きっと佳純のようにかわいい妹なら、ムカつく自分の弟とは違い、愛情が湧いただろう。


「誰かが見たら、まるで俺がお前の妹を連れ去ろうとしてると思われるな」


晴琉は残念そうな表情で引き下がった。


「そうだな。よし!お前が連れて帰れ!それでいいんだろ?」


これ以上話すとアイスピックより鋭い隼人の視線に刺されて死にそうだった。晴琉は湧いてきたいたずら心を辛うじて鎮めた。


「ちょっとトイレに行ってくる」


黙って彼らの後ろを歩いていた佳純がためらいながら言った。彼女の目には何故だか焦りが浮かんでいた。


「おう。行っておいで」


何か言おうとしていた隼人を遮り、晴琉が素早く先に口を開いた。彼が隼人の手を無理やり引き離してくれたおかげで、佳純はやっと1人で外に出ることができた。


部屋のドアを開けて廊下に出ると、ハンドバッグの奥で携帯電話が鳴り始めた。佳純は急いで電話を取り出すと液晶画面を確認した。


[左衛門玄暉]


彼女は一瞬立ち止まった。何と言い訳すればいいか考えた後、佳純は緊張した声で電話に出た。


「もしもし」


―電話に出ないから心配したよ。どこ?


佳純は通路の隅に向かいながら答えた。


「ごめん。突然用事ができちゃって、先に帰らなきゃいけなくなったの」


―そうなの?じゃあ一緒に行こう。送ってくよ


「あ…。いいの。もうクラブから出てきちゃったし。ホントにゴメンね!連絡もしないで」


―何かよくないこと?


玄暉の心配そうな声に佳純はごまかしながら答えた。


「ううん。詳しいことは、今度話すね」


―わかった。しかたないね。僕は大丈夫だから、気をつけてね!着いたらメッセージ送って


「うん。後で連絡するね」


―うん


玄暉の答えを最後に佳純は電話を切った。緊張感が解けて、佳純はそのままその場にしゃがみ込んでしまった。あれこれと気まずく、胸が詰まった。


「はぁ…」


深いため息をついた佳純は、待たせている隼人と晴琉のことを思いだし、立ち上がった。1日の疲れが押し寄せてきて、体中がグッタリした。早く家に帰りたかった。


佳純は床を凝視しながら、引き返した。その時、佳純の視界に見慣れた靴が飛び込んできた。佳純はゆっくりと顔を上げた。彼女の視線の先には隼人がぽつんと立っていた。


佳純は全身に鋭いナイフが刺さるような冷たい空気に息が詰まるようだった。彼女の口が本能的に言い訳でもするように動いた。


「お、お兄ちゃん。だから、これは…」


「行くぞ」


隼人はどうしていいかわからない佳純の横を何も言わずに通り過ぎた。わずかな瞬間、隼人と目を合わせた佳純の心臓がドキドキと鼓動を始めた。


言葉では言い表せない妙な怒りが彼の目に宿っていたが、表情はいつにも増して落ち着いていた。いつもとは違う反応。佳純の頭は色々な感情が絡み合い、混乱していた。


「そこに立って何してるんだ?」


ちょうど部屋から出てきた晴琉が佳純を見つけると近づいてきた。我に返った佳純はぎこちない笑みを浮かべながら、手を振った。


「何でもない。何でもないの…」


「行こう」


晴琉は彼女の肩を軽く叩くと、前を歩いて行った。一人残された佳純はカウンターに立っている隼人をじっと見つめた。


いっそ、何か言っていたら、ここまで気まずくはならなかったのに…。何を思っているかわからない隼人の反応に佳純の気持ちは、いつの間にか真っ黒に焦げていた。

 

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