第3話

3.

 


いつものように講義が終わり、建物の外に出たその時だった。カバンの中で響く振動に佳純は携帯電話を取り出し、携帯の画面を覗き込んだ。


[穂乃恵(ほのえ)おばさん]


久しぶりに見る名前の人物からかかってきた電話だった。彼女は普段とは違った、期待に膨れ上がった顔で応答ボタンを押した。


「おばさん!」


―佳純、元気だった?


おばさんの心配げな声に佳純は小さく首を縦に振った。


「もちろんです。それより、お母さんは元気ですか?」


―うん、元気よ。最近は食事もちゃんとできてるし、時々散歩もしてるわ。あなたが心配しなくてもいいくらい、順調に回復してるわよ。


彼女の返事に佳純は胸を撫で下ろした。


ショックな出来事による緘黙症。彼女の記憶に残っているお母さんは、一度も声に出して私の名前を呼んだことがない人だ。白いスケッチブックの上に「佳純」と音のない叫びを通じて聞いたこと以外、お母さんから暖かい言葉を聞いたことがなかった。


辛いものだった。お母さんがどうして声が出なくなってしまったのかは、彼女が幼い頃、お母さんがとある衝撃的な出来事を経験してから、自らこの世に対する心の扉を閉ざしてしまったとしか聞いていなかった。そのため、何によって今のお母さんになったのかは、知ることもできなかった。


精神科の治療を何年も続けてきたが、よくなる気配はなく、むしろますます悪化していったお母さんは、結局施設に入る選択しか残されていなかった。それも、ある日突然現れたお父さんのおかげで入ることができたのだった。


まだ幼かった佳純は一樹に引き取られ、東京に連れられて来てからずっと、穂乃恵おばさんが彼女の代わりにお母さんを介護していた。孤児院で育ったお母さんの面倒をみてくれた穂乃恵おばさんは、佳純にとって誰よりも感謝している人であった。


「なかなか連絡できなくて、すみません」


―何言ってるの。最近の大学生はみんな忙しいんでしょ?あなたのお母さんはとってもよくなってるし、私も相変わらず元気に毎日送ってるわ。ただ、あなたが元気か気になって電話しただけよ。


「そうですか。私も元気ですので心配いりません」


―あの…佳純ちゃん?ひょっとして、あの家で酷いこと言われたり、いじめられたりしてないわよね? 継母のことよ。


一瞬、佳純の口元に悲しい笑顔が滲んだが、すぐ何事もなかったかのように明るい声で返事をした。


「優しくしてくれます」


―それはよかったわ。でも、もし何かあったら…まぁ!


「どうしましたか?」


―外に洗濯物を干してたんだけど、雨が降ってきちゃったわ。全国的に雨が降るみたいだけど、傘は持ってるの?


授業があった建物の入り口に立っていた佳純は、激しく降り注ぐ雨に困った顔をするしかなかった。今日雨降るって言ってたかな…。佳純はとりあえずハキハキと答えた。


「はい、持ってます。お忙しいようですので、またお電話します」


―わかったわ。それじゃあ、また電話しましょうね。


電話を終えた佳純は、地面に叩きつける雨を見つめては、どうすればいいのか迷った。おばさんが心配すると思って傘があると嘘をついたけど、持ってくるのを忘れたせいで、雨に濡れて行くしかないんだと思った。


耳元にかかる湿った風に、周りを見回した佳純は、それぞれかばんから傘を取り出している人々の間で訳もなく恥ずかしくなり、隅へ移動した。


長時間悩んだ末、佳純は決心したかのように階段の方へと踵を返した。彼女はすぐにでも雨の中を走り出すかのような姿勢を取ったが、一歩踏み出す前に彼女はぴたっと立ち止まった。なぜなら、すぐ目の前で傘を開いてのんびりと建物を出て行く一人の男を見つけたからだ。


見慣れた横顔と眼鏡。


無意識に彼の肩に手を伸ばした佳純は、焦ったのかすぐに手をしまった。


彼なのだろうか…。もしかして見間違いかもしれないと思った彼女は、少しずつ遠ざかる彼をじっと見つめた。


彼に違いない。そう確信した彼女は、とりあえずかばんの中をまさぐり、ボイスレコーダーを握った。


返さなければ。強い執念が急に湧き上がったのか、少し前までためらっていた佳純が雨をかき分けながら歩き始めた。強い雨が彼女の体を打ち付け、一瞬で全身が濡れた。しかし、佳純はぐずぐずする気配もなく、ひたすら前を見て彼を追いかけ、彼の肩を掴んだ。


「あの…」


誰かの手の感触を感じた彼は、片方の耳からイヤフォンを外し、後ろを振り向いた。


「何でしょうか」


佳純はぎこちない表情で、握っていたボイスレコーダーを彼の目の前につき出した。


「これ…」


「あれ?」


ボイスレコーダーを受け取ってすぐ、自分のものだと気付いたのか、誰が見ても驚いた人の顔をして佳純を見つめた。


「講義室の椅子にあったんです」


佳純の言葉に彼が首を傾げた。


「講義室ですか?」


「文芸創作の理解の授業の…」


佳純がボイスレコーダーを指差しながらそう答えてようやく思い出したかのか、玄暉(げんき)が妙な表情で彼女をじっと見た。彼女は傘もないまま追いかけて来たのか、ずぶ濡れだった。彼はすぐに自分の傘を差してあげ、佳純の顔を見た。


柳原佳純だった。知ってる顔だ。

同じ国語国文学部の同期であり、いつも授業が終われば風のようにいなくなってしまうせいで、彼女と関わりのある人は誰もいなかった。化粧っけのない顔に、いつもいたってシンプルな服装をしているが、着飾らなくても目に入ってしまうほどの美貌を持っているだけでなく、どこか不思議な雰囲気を漂わせているせいで、学部内で彼女を知らない人はいないほどだった。


彼女には素っ気ない態度を取ったが、普段から佳純を気にしていた玄暉は、突然の状況に戸惑いながら彼女にこう尋ねた。


「これを渡すために、わざわざ雨の中を走って来たんですか?」


「あ…えっと、今日じゃなきゃ渡しそびれてしまうかなって思って…」


佳純は言いづらそうにも、言葉を続けた。


「文芸創作の授業…もう来るなって、教授が…」


ふと、数日前の出来事を思い出した玄暉の顔は、徐々に赤くなった。そういえば、知らずにミスを犯してしまったあの授業に佳純もいた事をうっすらっと思い出した。


「あ、あれは…」


言い訳でもするのか、唇がぴくりと動いた玄暉は、小刻みに体を震わせ始めた佳純の姿に、言おうとした言葉を飲み込んだ。


俺はなんて馬鹿なんだ。

誰かに頭を殴られても仕方がないくらい、玄暉はかなりの時間、ずぶ濡れの彼女をその場に立たせていたことにようやく気が付いた。彼はそんな彼女がかわいそうに感じ、傘を彼女に渡しながらこう答えた。


「これ、使ってください」


「え? 大丈夫ですよ、もう濡れちゃってますし」


佳純が顔の前で大げさに手を横に振り傘を突き放すと、玄暉は困ったかのように頭を掻いた。


「これも見つけてくださったのに、僕のせいでずぶ濡れじゃないですか…」


「本当にいいんです!では、私はこれで」


玄暉はきっと自分のせいで気まずい思いをしているんだと思った佳純は、颯爽と彼を通り過ぎ、校門の方へ向かった。そんな佳純の後ろ姿を見つめ、一瞬悩んだ玄暉は、すぐさま彼女の後ろを追いかけ、腕を掴んだ。


「家はこの近くですか?」


佳純は急な彼の質問に驚き、こう答えた。


「いえ…でもタクシーにでも乗れば…」


「それじゃ、こうしましょう」


「え?」


「僕の家はここから近いので、僕の家で服を乾かしてから帰るのはどうですか?」


玄暉の提案に、佳純は目を丸くした。彼女の反応に彼は、まさか失礼なことを言ったのではないかと、慌てて言葉を続けた。


「あの、えっと…ですから、別に他の意味はなくて、風邪引いてしまうかもしれないので…」


「本当に大丈夫です」


玄暉は彼女の即答に、掴んだ腕を放すしかなかった。


ちょっと行き過ぎたか?


彼は一気に押し寄せてきた失望感に、これ以上言葉を続けることができなかった。


「それでは、また」


佳純は小さくお辞儀をし、もう一度冷たい雨の中に入って行った。最初は玄暉の提案に沿おうかとも思ったが、最初から迷惑をかけたくなく、結局断ることしかなかった。実際に近くで会話をしてみたら、思ってたよりいい人に感じた。


佳純はこれから彼に時々会うことがあれば、挨拶ぐらいしようと思い、急いで校門の外へと出たその時だった。彼女の体を襲った冷たい水爆弾のせいで彼女の体は硬直したまま、その場から動けなくなった。


水溜まりの上を車が早いスピードで通り過ぎたせいで、歩道側に水がはねてしまい、佳純の服は泥だらけになってしまった。


急な出来事に呆然と立ち尽くす佳純の目に、驚いた表情で駆けて来る玄暉の姿が入った。


「大丈夫ですか?」


玄暉は心配の色が混ざった声でそう聞き、佳純は苦笑いをしながら答えた。


「あ…はい」


「どう見ても大丈夫そうには見えませんけど、返事だけは立派ですね」


意地悪をするように冗談を言った彼に、佳純は恥ずかしそうに鼻にしわを寄せた。


「その格好じゃ、タクシーに乗るのは難しそうですけど…」


玄暉は困ったような表情で髪の毛をいじっている彼女に、自分の服を脱いで肩にかけてあげながらこう尋ねた。


「猫は好きですか?」


「猫?」


突拍子もない玄暉の質問に佳純は首を傾げた。


「僕の家にひねくれ猫がいるんです」


彼が恐る恐る聞いた。


「見に…来ませんか?」


にこっと笑顔でそう尋ねてきた彼の姿に、佳純は再び悩むしかなかった。雨は止みそうになく、タクシーを拾いに歩き回るような容姿でもなかった。それに、彼の厚意を何度も断ることもできない状況だった。


佳純は考えた挙句、心を決めたかのように首を縦に振った。


「はい。では、お言葉に甘えて」




 * * *




玄暉の家は学校からほんの5分の場所にあった。とある建物に着いた佳純は、想像以上の豪華な外観に驚いた。一人で住んでいると聞き、いたって普通なアパートだと思ったが、かなり裕福な家庭で育ったのか、一般の大学生には住めないような高級マンションだった。


玄暉の後ろについて行き、当たり前のようにエレベーターに乗り込み、15階に着いた佳純は、玄関の暗証番号式ロックキーを開けている彼の後ろ姿を見て、遅いながらに気まずさが押し寄せて来た。彼女は訳もなく目玉をあちこちに回し、えりあしを掻いた。


「どうぞ」


玄暉は手に持っていた傘を下駄箱の横に立て、自身はその横に移動した。佳純は躊躇しながら家の中へ入った。玄関の扉が閉まる音と同時にリビングに入った彼女は、周りを見渡しては思わず嘆声を漏らした。


他の家ならテレビがあるはずの位置に、書店で見るような高級本棚がどっしりと構えていた。そこには数えきれないほどの本がぎっしり納められていた。ロフト付き部屋であるため、一番最初に目に入ったのは階段だったが、ブックカフェと言ってもおかしくないくらい、階段の横の棚にも本がたくさん並べられていた。


それだけでなく、白と青を基調に、バーを彷彿とさせるキッチンに続く壁には、高価であろう絵画が飾られていた。


「男一人で住んでるので、殺風景ですよね? あ、ちょっと待っててくださいね」


玄暉は部屋の中をぐるりと見渡してから、リビングの真ん中に置かれているテーブルに近寄り、ノートパソコンと散らばっていたA4の紙を急いで片づけ始めた。その間、一人取り残された佳純は、じっくりと家の中を見て回った。


玄暉の家は、男一人暮らしの家にしては小綺麗で、インテリアも洗練されていた。佳純は、同じくいい家に住んでいながら、家具一つぱっとしない家を思い出し、恥ずかしさで鼻先を触った。


「そういえば、自己紹介もしていませんでしたね」


ソファーにある本を横に移動させながら玄暉はそう言った。


「左衛門玄暉(さえもんげんき)です。 」


左衛門…?まるで時代劇に出てきそうな珍しい苗字が不思議に思ったのか、彼女は心の中で玄暉の名前を一度つぶやいてから口を開いた。


「私は…」


「柳原佳純さん、ですよね?」


「え?」


どうして知っているのかとでも言ってるような驚いた顔の彼女に、玄暉はにっこり笑ってこう言った。


「自分が学部で有名だってこと知らなかったようですね」


「私がですか?」


「はい、特に男子生徒の間ではとっても有名です。当の本人は興味もないと思いますけど」


佳純はどういうことなのかと、目をぱちくりさせ、玄暉はにこっと笑い、ソファーの上に置かれていた毛布を彼女に差し出した。


「とりあえずこれをかけて、ソファーに座っててください。温かいお茶を持ってきますので


「いえ…大丈夫です」


彼女は申し訳なさで首を横に振り断ったが、玄暉は毛布を彼女の肩にかけながらこう言った。


「でも、僕の家に初めて来たお客さんなんですよ?おもてなしぐらいさせてください。テーブルの上にタオルもありますから、それで体でも拭いていてください」


「ありがとうございます」


「ありがとうだなんて…僕こそですよ。ボイスレコーダーを見つけてくれたんですから。それじゃ、ゆっくりしててくださいね」


佳純は玄暉の優しさに緊張が少しほぐれ、穏やかになった顔でソファーの方へ歩いて行った。そして、ふと、彼女の足取りに合わせて付いて来る怪しい影にピタリとその場に立ち止まった。


何だろう?

佳純は、自分の全身をぴんと立たせた何かに動くこともできず、しきりに瞬きをした。


その時だった。真っ白な毛の生えたような何かが彼女の足の甲を通り過ぎ、断末魔の叫びが家中に響いた。

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