第2話
講義室。退屈な講義が続く中、ノートに何かを書き続けている佳純はどこか上の空だった。
あれほど望んでいた大学に入学した当初は講義も一生懸命聞いていたが、そんな姿は今はどこにもない。
どこか行ってしまいたい。
無表情で乱雑に書いた一言は、真っ黒に変わったノートから分かるように、100万回以上望んだことだった。この世に対する否定的な考えのせいで、どこかへふらり旅立ちたいと衝動的に思っていたのなら、行動に移すことは簡単だっただろう。
誰かに言うことも、慰められることもない息苦しさからきた漠然とした願いは、やがて胸に傷を一つ残し、煙のように消えてしまうのであろう。いつもそうであったように。
「そこの君!何をしてるんだ!」
佳純は抑揚のない声で講義をしていた教授の、雷のような声に驚き、下げていた頭を上げることができず、目玉だけが行ったり来たりしていた。
講義はそっちのけで、 別のことに気を取られていた自分に怒鳴ったのではないかと、佳純はドキドキしながらゆっくりと頭を上げた。しかし、佳純はすぐに先生の視線が他の人に向かっていることに気付き、胸を撫で下ろした。そして、教授をはじめ、講義室にいる全ての人の視線を全身で受けている男の方を見つめた。
見るからに疲れ果てた顔をしている男の目には、黒縁眼鏡がかかっていた。シワだらけのTシャツにジーンズを穿いた姿は、道端で会っていたらそのまま通り過ぎているほど、特徴のない、いたって普通な男だった。しかし、彼の行動は佳純の目を疑うような衝撃的なものだった。
「君、私をバカにしているのか? 授業が嫌なら今すぐ出ていけ!」
すっかりご立腹になった教授が大声を上げたが、男は平然な顔で頭を掻き、机の上にあったノートパソコンをカバンの中にしまい始めた。
ノートパソコンの使用を禁止している講義で、見せつけるかのように机の上にノートパソコンを開いて使うなんて。普通の人じゃなかなかできないことだと思った佳純は、一秒たりとも彼から視線を外すことができなかった。
怒りと興奮で今にも顔が燃え出しそうな教授の顔を見るだけでも、胸がざわつく自分とは違って、表情を一瞬たりとも変えることなく、堂々とノートパソコンをカバンに仕舞う男の姿は、少なくとも佳純には礼儀やマナーなどというもの以前に、新鮮に思えた。
彼は、もう二度と授業に来るなという、後頭部を殴りつけるかのような教授の怒鳴り声にも、彼を指差しながらひそひそと話す学生たちの批判的な目からも、まるでこの世をたった一人だけで生きているかのように、目の前の事以外には目もくれず、教授に小さく黙礼をして教室を出て行った。そんな彼の姿に、佳純は興味をそそられた。
誰だろう…。
自分の学校生活は、講義を真面目に聞くぐらいだった。彼に対する好奇心のせいで、初めて自分に普段仲良くしている先輩後輩が一人もいないことに後悔した。
「あれは…何だろう」
授業を続けるという教授の言葉にも、相変わらず彼がいた席から目を離せなかった。すると彼女は、椅子の上にきらりと光る何かを発見しては、大きく目を見開いた。それは、黒くて四角い長方形の形をしたものだった。
さっきの男が落としたものなのだろうか。佳純はそれを拾う一心でめいっぱい手を伸ばしたが、手が届かない距離にあることに気付き、授業が終わる時間だけを待つことにした。
先程あったことのせいか、教授は険しい表情で通常よりも早く授業を終わらせた。佳純は一目散に彼が座っていた席へ駆けつけ、手にした箱をじっと見つめた。
右側に小さくアルファベットの「R」が刻まれた、小さなボイスレコーダーだった。最近では見かけない古いタイプで、長年使われていた物なのか、色あせていた。
佳純はその男が失くした物に気付き、ここに戻って来るのではないのかという期待に少しの間待ってみようかと思った。しかし、携帯電話の画面に映った時間を確認しては、すぐその考えはなかったことにした。
すぐ次の講義に向かわないといけないため、ひたすら待つことはできない。それに、また戻って来るという保証はないのだから、元あった場所に置いておくこともできなかった。学部の研究室に持って行くことも考えたが、その選択も結局選ばなかった。
佳純は、しばらく悩んでからボイスレコーダーをカバンの中に入れた。眼鏡越しに見えた穏やかな目。なぜだろう。一度直接会って渡したいという思いが、いつの間にか頭の中で根強く居座っていた。平凡な日常に清涼剤になってくれるような人。どうしたことか、心の片隅が跳ね上がった。
「そうだ、授業」
佳純は講義室の中に入ってくる学生たちを見てようやく、足早に講義室を出た。携帯電話の画面に映った時間を見た瞬間、早く行かなければ欠席になってしまうと思った。
「走らないと」
真っ白に砕けた日差しの中、佳純の顔にはもう暗い表情はなかった。
* * *
男が結婚生活をすると様々な困難を迎えることは、別にたいしたことではないと思った。
例えば浮気。それに関して、特に否定的に考えていなかった。しかし、単純に男だからそう思っているわけではない。
買い物依存症に、男性芸能人の愛人になることが唯一の楽しみである母親を、父さんが一生愛するなんて思っていなかったからだ。それは、ありきたりなドラマでも叶うはずがないことだと誰よりもわかっていた。
だから、父さんから婚外子を家に迎え入れると言われた時も、あっさり受け入れることができた。家庭円満とは程遠いこの家に、厄介事がまた一つ増えたからといって、何も変わらないとわかっていたからだ。
単純に考えていた。母親にとってはショックを受けるようなことかもしれなかったが、だからと言って父さんを咎めようとはしなかった。時間が経てば、その子が氷の砦のようなこの場所を、自分の足で出て行くだろうと確信していたからだ。
しかし、明るい笑みを浮かべたまま、優しい態度で接してくるその子と初めて顔を合わせた瞬間、全てが嘘のように壊れ始めた。
優奈(ゆうな)に似ていた。彼女は学生時代、不慮の事故であの世に旅立ってしまった。肩にかかる栗色の髪。小さい顔にはかわいらしい目鼻。柔らかい笑顔に加え、相手の目をしっかりと見つめて話すその姿まで…。頭の中は真っ白になり、胸の中は真っ黒に燃えていった。その子が歩み寄ろうとした時には、表に出てしまいそうな何とも言えない感情を抑え込み、目が合った時には、胸が張り裂けそうな辛い思い出を必死に振り払った。
繰り返される日常。歩み寄るその子を無理やり押し返す日々。しかし、そうするたびその子が気になって仕方なかった。その子が家を出て一人暮らしをし始めてから も、家の前まで行っては、顔だけを見て帰るということが日に日に多くなっていった。感情のない人々が住む家で、唯一灯っていたロウソクの炎のようなあの子がいなくなっては、言葉にできない寂しさを感じた。
変わったことはその子がいなくなったことだけなのに、前のような普通の日常を送ることができなくなった。だから変わってしまったのだ。過去に優奈を失ったように、その子を失いたくなかった。この全ての過ちは、こうしたねじれた関係を作った父さんのせいにした。
もう二度と優奈のようにはさせまいと、必死になって自分の傍にいさせるように行動し始めた。どこにも行かせず、誰にも会わせないようにその子を縛り付け、その子の全てに全神経を尖らせ始めた。
しかし、そうするにつれ、歩み寄る彼女は次第に遠ざかり始めた。何か間違ってしまったと気づいた時には、すでに戻れない関係になってしまっていた。
止められなかった。今更、嫌がる彼女を手放してしまえば、自分から離れてしまいそうな不安な気持ちに駆られた。まるで怪物を見るかのように、恐怖に震える眼差しで見られようとも、あの優しい笑顔が見られなくなろうとも構わない。むしろその方がましだと感じた。
彼女が自分の傍にいてくれるのなら…いつでも会えるのなら…。もう、どうなっても構わない。
* * *
「玄関の暗証番号変えるなって言ったよな?」
重い足取りでリビングに入ってきた佳純は、ソファーに座り本を読んでいた隼人の姿に顔が強張った。
隼人に対するほんの少しの反抗心として、佳純は時々玄関の暗証番号を変えていた。しかし、元の暗証番号に戻す前に隼人がいきなり訪ねて来たため、佳純は驚きを隠せなかった。
言い訳でもしなきゃと唇を微かに動かしたが、頭の中に思い浮かぶのはたわごとだけだった。しかし、彼と目が合った時には、ミサイルが飛んで行ったかのように、すでにたわごとは彼女の口を離れていた。
「前の暗証番号が思い出せなくて変えたの」
「……」
「本当だよ」
むしろ、ごめんなさいと言えばよかったのだろうか…。後悔が押し寄せたのは、しばらくしてからだった。
本に固定されていた彼の目と目が合ってしまった佳純は、びくりと肩を震わせ後ずさりした。その姿に隼人は、硬い顔で佳純に手招きした。
「お前が来ないなら、俺が行くか?」
怖気づいて指先をいじっていた佳純は、隼人の一言で素早く手を振り、急いで彼の傍へ近寄った。
俺が怖いのか?残念な気持ちを隠したまま、隼人は何事もなかったかのように、再び本に視線を移し、淡々と聞いた。
「新しい暗証番号、どうやって知ったのか気にならないのか?」
予想外の質問に佳純は困惑し、言葉を濁した。
「さあ…」
変える前の暗証番号はお母さんの誕生日。そして、今回変えた番号は大学の学生番号。
「110524」
正確に答えた隼人に驚いた佳純は、まん丸くした目で頷いた。
「自分の母さんの誕生日を思い出せないと?」
前の暗証番号がお母さんの誕生日だったことをどうして知っているのか疑問に思う前、語尾を少々上げる彼の言い方に佳純は困惑した。
まさか、いまだに本当のお母さんの誕生日を知っているとは想像もしていなかった。佳純はどうにかしてでも他の言い訳を並べようとしたが、ゆっくりとその場から立ち上がる隼人の姿に、ぴくりと動く唇を噛みしめることしかできなかった。
不安で心が乱れた。佳純は、彼が一歩ずつ自分の方へと近づくと同時に後ろに退いた。しかし、すぐ隼人に捕まってしまった佳純は、息づかいが聞こえるほど近づいた彼との距離に驚き、息を止めた。
「お前が暗証番号を毎回バカみたいな数字に変えたり…これくらいのスキンシップにもすぐ顔が赤くなるお前を見るたび…」
やや低い声で言った彼の口角が上がった。
「俺が本当に悪い奴だって思う」
隼人の最後の言葉に佳純は慌てて彼を突き放し、一気に深い息を吸った。
どういうことなのだろう…。心臓を強く殴られたような気分に呆然としていた佳純の姿を見ていた隼人の目つきは、一瞬で重く沈んだ。
「大目に見てやるのはここまで」
彼は腰を屈めたまま、びくっと体を震わせた佳純の目を真正面からじっと見つめた。
「次も下手な真似をして、俺を怒らせたらその時は…」
「……」
「容赦しないからな。佳純」
隼人が無表情にそう言い放った。その姿は息が苦しくなるほど痛いものだった。そのまま自分を通り過ぎ、出て行く隼人の後ろ姿も見れないほど、当惑の連続だった。
「はぁ……」
扉が閉まる音と同時に、隼人が外に出た事を確認した佳純の口からは、深いため息がこぼれた。
疲れた…。重い足取りでリビングに向かった佳純は、飛び込むようにソファーに体を放り投げた。まだ震える手がどれだけ緊張していたのかを物語っていた。
今日も一日なんとか過ぎた。でも、また再び明日が始まるんだよね?まったく、希望なんてない毎日だ。彼女の口元には悲しい笑顔がぶら下がっていた。
「何だろう…」
ゆっくりと目を閉じ一日を終えようとした佳純の目に、テレビの横に置かれた箱が見えた。彼女は疑問に思い、重い体を起こしては箱の中身を確認した。
色とりどりのカップケーキ。食べるのがもったいないくらい、かわいらしい姿をしていた。自分が好きなケーキ屋さんを知っているのは隼人しかいない。そして、こんなものを持ってくるのも、隼人以外誰もいない。
無表情でケーキの箱を見つめていた佳純は、箱から一つ取り出し一口かじってみた。甘いクリームが舌の先を刺激し、優しく喉を通るのを感じた。
「美味しい」
自分でも不自然なほど平然とした声が、なぜかむなしい。小刻みに震える瞼の間のから見える彼女の黒い瞳に、悲しみが映った。
どこから間違ったのだろう…。音のない叫び声が胸を響かせた。
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