第4話

4.

 

「キャアッ!」


腰を抜かすほど驚いた彼女の目の前には、雪のように真っ白い猫がいた。彼女の悲鳴に驚いた玄暉は、バネのようにキッチンから飛び出して来た。


「どうしましたか?」


玄暉はひとつ息をついてから、佳純の足元に居座っている猫を発見した直後、彼女の悲鳴の原因に気づき眉間にしわを寄せた。


しばらくの間忘れていた。親戚のおばさんが今日出張に出かけると言って、猫を預かってと当然のようにメッセージを送ってきていたことを。


確かにさっき、佳純に冗談交じりに言った時までは覚えていた。本当に頭の中に消しゴムでもあるのか、帰り道ですっかり忘れてしまっていた。


「すみません。驚きましたよね?」


玄暉はすぐさま、佳純の横にピッタリとくっついている猫の首根っこを掴み、彼女から剝がすように横に移動させてから、心配の眼差しで彼女を見つめた。しかし、佳純は彼の心配とは裏腹に、一段と明るくなった表情で、いつの間にか膝の上に乗っていた猫を撫でていた。


「大丈夫です。急に出てきたせいで、ちょっと驚いただけですので」


玄暉は佳純の胸にうずめ、ゴロゴロと喉を鳴らしている猫の姿にため息をついた。なぜなら奴は、普段自分が撫でてあげようと手を差し出せば、面倒くさいかのように丸々と太った足で、ツンツンと彼の手を押しのける奴だからだ。しかし、今はまるで大人しい子猫にでもなったかのように、佳純に抱っこされている姿が、大層憎たらしかった。


玄暉は、彼女から猫を放そうと首の後ろを掴んだ。しかし、すぐにそれを中断させるかのような佳純の目つきに、猫をそのまま彼女の膝の上に戻した。


「私、猫好きなので、気にしないでください」


すっかり猫に関心を奪われたかのように、目も合わせてくれない彼女を見て、玄暉は気に入らない目つきで彼女に抱かれている猫を睨みつけた。ずる賢い雄猫め。恐ろしいほど女性をわかってやがる。それも、美人だけを選んで。


「こいつの飼い主が、本当、息子のように育てているせいで性格悪いですけど…見ての通り、女性には優しい奴なので、面倒なことはしてこないはずです」


玄暉の言葉に佳純は小さく声に出して笑った。


「それじゃ、もう少し待っててくださいね」


玄暉は再びキッチンへ向かい、佳純は撫でてほしいとお腹を見せる猫に視線を移した。その姿が愛くるしく笑顔をこぼした瞬間、彼女は自分のかばんから震える振動に小さく飛び跳ねた。


今何時だろう?くせのように壁にかかっている時計を見た佳純は、時計の針が6を指していることに気付き、急いで携帯電話を出した。


[お兄ちゃん]


まだ退勤するには早い時間だった。しかし、ひょっとしたらという思いに全身が恐怖に包み込まれた。


佳純は猫をソファーから床に下ろし、幽霊でも見たかのような真っ青な顔で、恐る恐る応答ボタンを押した。


―どこだ?


隼人特有の不愛想な言い方に、彼女は一気に緊張した状態でゆっくり口を開いた。


「今、家に帰るところ」


―それじゃ、まだ学校か?


佳純は乾いた唾をごくりを飲み込んでは答えた。


「うん、今日はグループ課題の集まりがあって、ちょっと遅く…」


「もしよかったら、サンドイッチでもどうですか?」


通話中に聞こえてきた玄暉の声に佳純は驚き、すぐさま部屋の隅へ移動した。どうしよう…。自分の嘘がバレたかもしれないと思った佳純は、焦った顔で口を開いた。


「お兄…ちゃん…?」


―今どこだ


冷たく冷え切った声に、佳純はぎゅっと目をつむった。


「あ…えっと…今日傘持ってくるの忘れて…だから…」


―今、学校の前にいるから出てこい


学校の前だと言う隼人の言葉に、佳純の顔は一瞬で血の気がなくなった。佳純は急いで、体に巻いていた毛布をソファーの上に置き、かばんを肩にかけた。


「今行く」


返事をしてすぐ、玄関へと駆けて行った彼女は、両手にコップを持ってキッチンから出てきた玄暉を見つけては立ち止まった。急いでいたせいで、危うくあいさつし忘れるところだった。佳純は申し訳ないという顔で彼に黙礼をしてこう言った。


「ごめんなさい、急な用事を思い出して…お邪魔しました」


「あ、はい…それでは傘でも持って…」


傘を持って行けという言葉を最後まで言い切る前に、佳純は後ろを振り返ることもせず、出て行ってしまった。玄暉はテーブルにコップを置き、額を掻いた。


すっかり緊張した姿。何かがおかしい。


「お兄ちゃん…?」


かすかに聞こえた呼び名が耳元から離れなかったのか、彼はもう一度繰り返して言った。


玄暉は、まるで家族に交際がバレてしまった人かのように、慌てた姿で出て行った佳純を思い出し、残念な顔でキッチンへ戻った。



 


いつの間にか雨は小雨になっていたが、未だ佳純はずぶ濡れのままだった。佳純は全身に入り込む冷たい風を感じる暇もないまま、学校の入り口にたどり着いた。佳純は、その場で膝に両手をつき、荒く息を吸っては吐いた。


ある程度呼吸が整ってから、佳純は視野を覆っていた水を拭い、周りを見渡した。何人かの学生に白い目で見られているのを感じたが、必死に無視した佳純の視線の先には見慣れた顔があった。


一目でも分かるくらい、高そうな車の横に隼人が傘を差して立っていた。佳純の体がくせのようにびくりとした。どうしよう…。走りながらいろんな言い訳を考えたが、実際彼を目の前にしたら頭の中は真っ白になってしまった。


「どこに行ってたんだ?」


隼人はずぶ濡れになった佳純の頭の上に傘を移動させ、つぶやくように聞いた。佳純は、おろおろしながらゆっくりと口を開いた。


「傘を買いに…」


傘を買いに?隼人は眉をしかめた。


「もう一度聞く。傘もないままどこに行ってたんだ?」


隼人はバカな言い訳なんてするんじゃないと警告するように鋭く問い直した。佳純は小さく震えた。これ以上言い訳をするのはむしろ今の状況を悪化させるに違いなかった。彼女は乾いた唇を舌で湿らせてから、慎重に口を開いた。


「と…友達に…会ってたの」


「友達?」


隼人は佳純の答えに、友達って誰なんだと問いただそうとしたが、寒さに震える彼女の姿に言葉が出てこなかった。


彼は佳純に傘を渡しては、スーツのジャケットを脱ぎ、彼女の肩にかけてあげた。見当もつかない状況にいらだち、不快だったが、このまま放っておけば風邪にでも引いてしまうであろう彼女に、これ以上疑いをかけることはできなかった。


隼人はひとまず佳純に渡した傘を受け取り、彼女の肩を抱いたまま車がある方へと足を運んだ。


「乗れ」


隼人は助手席に佳純を乗せ、無言で運転席に座ってはエンジンをかけた。佳純は尋常じゃない雰囲気に不安な表情で、肩にかかった隼人のジャケットをぎゅっと握った。


下手な嘘なんてすぐにバレてしまうとは分かっていても、どうしようもできない状況に直面してしまえば、自分の意志とは関係なく言葉を放ってしまう。彼の前に立ってしまえば、自分は小さく縮こまり、意識は朦朧としてしまうため、何とかして気を引き締めようと努めてきた。


しかし、硬くなってしまった心臓を持った人のように、平然と彼の前にいることは不可能に近かった。佳純はそんな自分の姿を見つけては落胆するしかなかった。


いっそのこと、全て正直に言ってしまおうか。そうして、彼に思いっきり怒られた方が、今こうして狭い空間で無言のまま耐え続けているよりかはましだと思った。しかし、次に続く彼の行動は想像すらできず、なかなか口を開くことができなかった。


「俺が怖いんじゃなかったのか?」


隼人が無表情で一点を凝視しながら一言そう言い放った。急な彼の言葉に佳純が疑問に思う頃、彼女の耳に隼人の声が続けて聞こえた。


「それとも、誰かと一緒にいたから、なかった勇気でも出たというのか?」


「そんなんじゃない」


「それとも、そんな下手くそな嘘をついた理由は何なのか言ってみろ」


佳純はすぐに答えられなかった。隼人はそんな彼女の姿に顔が強張り、車線を変え、路肩に車を停めた。キキーッという摩擦音と共に、車の中には極度の緊張感が流れ始めた。佳純は、蒼ざめた顔で隼人を見た。


「言ってみろ。お前が嘘をつくしかなかった理由を」


隼人の催促にも佳純は口を紡いだまま、彼の視線を避けた。すると隼人は手を伸ばし、彼女の顎を掴み無理やり自分と目を合わせた。冷たい表情。佳純は、息が止まるような締め付ける彼の眼差しに拳を握った。


「言え」


彼はたたみ込むように続けて言った。佳純はまつ毛の間に溢れる涙を必死に防ぎ、細く震える声で言った。


「お兄ちゃんのせいで…」


彼女の瞳が不安げに揺れた。


「お兄ちゃんが怖くて嘘ついたの」


「……」


「だって、こうやって怒ることわかってたから…」


佳純は真っ赤に染まった顔で、隼人を直視した。隼人の冷たい目と視線のせいで、言葉では表せられない複雑な感情が首元まで来ていた。


「だから、もうやめて」


お願い…。佳純は口の中をぐるぐると回っていた最後の一言を飲み込み、歯を食いしばった。どんなにもがいても、抜け出そうとしても不可能だということに気づいた瞬間、全てはまた元の場所に戻ってしまった。


その時間は、実に短く瞬間的なものだった。息が詰まり、死んでしまいそうだった。だから、ありったけの力を全て振り絞って言い放ったのだ。全ては再びめちゃくちゃになった。


ザアー―


小雨からまた土砂降りになったのか、ほのかに白い空気と薄暗くなった空の下で、光もなくなった車内には一段と冷たくなった空気だけが漂っていた。


しばらくの間、無表情で佳純をじっと見ていた隼人の眼差しは、重たく沈んだ。佳純の顎の先を持っていた彼の手は、いつの間にか彼女の手首の方へと向かっていた。


その時だった。佳純のシートベルトをバックルから外した隼人は、彼女の手首を自分の体へと引き寄せた。そして、彼の額と佳純の額が合わさった。


いち、に、さん…。顔にかかる隼人の吐息に、佳純の精神が空中をさまよう頃、重低音の声が彼女の耳に響いた。


「こんなに熱が出るほど、ずっと雨の中にいたんだな」


隼人はゆっくりと佳純から額を離し、彼女を見つめた。何なの?佳純は、おかしくなるほどに高鳴り始めた心臓の音に驚いた。彼女は、真っ赤になった顔で隼人から手首を振り払い、彼の肩を突き放した。極めて不慣れな感覚。佳純の瞳には戸惑いの色が映った。


「今、何して…」


「この程度だ」


時間が止まったような、息を殺した空間の中で、歪んだ冷たさが彼の口からこぼれた落ちた。


「…お前が俺にできる反抗はこの程度しかない」


隼人は胸の中から溢れてくる恐ろしい衝動を抑えながら、言葉を続けた。


「家まで送ってやるから、シートベルトしろ」


佳純は彼を凝視し、小刻みに震える手でシートベルトを締めた。


彼と額を合わせたあの瞬間、今すぐにでも間違った何かが起こるかもしれないという不安な気持ちが、全身を包み込んだ。しかし、時間が止まったような錯覚に陥ったその時、嘘のように彼が遠くなった。


「一体何なの…?」


佳純はフロントガラスに映る隼人を見つめ、まだ彼の体温が残っている額を手で触った。吐息が感じられるほどの距離になった瞬間感じた戦慄に、今も指先が震えていた。激しく地面を打ちつける雨の音に頭がボーっとし、全ての感覚は私をまっすぐに立たせているようだった。


疲れた…。本当に風邪を引いたのか、体がぞわぞわと震え出した。佳純は隼人に視線を留め、シートに体を預けた。そして、疲れ切った表情でゆっくりと瞼を閉じた。


 

* * *

 


何かに夢中のように、真剣な眼差しでノートパソコンの画面から視線を外すことができない玄暉の顔には、目の下のクマが顎の下まで下がり落ちていた。その姿を見た友人の満(みつる)は、まるでゾンビでも見たかのように驚いた顔で後ずさりした。


「お前、もうすぐ死ぬんじゃね?」


「話しかけるな。今にでも死んでしまいそうだからな」


玄暉は疲れたのか、木製のテーブルの上に眼鏡を置き背伸びをした。その姿に満は手に持っていたクッキーとジュースを玄暉の前に置き、優しく彼の肩を揉み始めた。


顔の表情から、昨日も徹夜をしたことがわかった。彼の言葉通り、今にでも倒れて死んでしまうんじゃないかと思うような顔色をしていた。


「何をそんなに命がけでやってんだよ」


「これだけか?」


満の言葉は耳にも入らないのか、玄暉はクッキーが入った袋を開けながら、駄々をこねるように唇を尖らせた。どうして毎回「ありがとう」という言葉の代わりに、あんな表現しかできないのだろうか。満は玄暉からクッキーを取り上げようと手を伸ばした。


「こいつ、これがどんなクッキーなのかも知らないで、とんだ贅沢を言いやがる」


「何だよ。賞味期限でも切れたのか?」


「いや、すみれ先輩が作ってくれたクッキーだよ」


口いっぱいにクッキーをほおばっていた玄暉は、目の前でニヤッと笑う満を見ては首を左右に振った。あいつめ、口から出て来る女性の名前はいつも一貫性に欠ける。そんな満に玄暉は、ただ驚くしかなかった。

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