21◇月と
クラウスが魔王城へ戻ると、廊下には月を見上げる人影があった。クラウスの居室の前である。つまり、クラウスに何か用があってそこにいるということだろう。
気を引き締め直したと、クラウスの肩に乗っているシュランゲには伝わったかもしれない。
黒い髪を結い、青白いうなじをさらしている。黒いドレス姿の痩身は、クラウスから見ても美しかった。ただし、その美は美術品を綺麗だと感じるような心だったかもしれない。アルスを見る時に感じるものとは違う。
何故、今、そこに立っているのか。青い瞳がクラウスに向けられる。
「話を聞いてほしいわけではない。聞きたいわけでもない。ただ、ここから見る月が一番綺麗だというだけだ」
それが彼女が言う、今ここにいる理由らしかった。
仕方なく、クラウスは窓から月を見上げた。
「ああ、綺麗な月だ。こんなふうに見えるのは珍しいな」
月の光は柔らかい。
太陽ほどに強くもなく、ただ綺麗なだけだ。
彼女が月を見ていたい理由は、何も考えたくないからだろう。だから、クラウスはそれ以上何も言わなかった。
けれど、彼女が不意に、本当に小さな声でつぶやいた。
「……全部、馬鹿げている」
馬鹿げていると。
優美な姿とは裏腹な、苛烈な言葉を選んだ。
クラウスも、馬鹿げていると一蹴してしまえたら楽だが、そう簡単なことではない。
「イルムヒルト、君の心は自由であればいい」
人はしがらみの中で生きている。ここに来るまで、魔族までしがらみに囚われているとは思わなかった。
クラウスがそれを言うと、イルムヒルトは表情を浮べないままクラウスに目を向けた。
「私はいつでもそうしている。私は自分のために生きている」
彼女は魔族らしくないというべきなのだろうか。
そもそもが、人型魔族の女性というのはひどく珍しい。クラウスもイルムヒルトに会うまで、魔族に女性がいるのだとは考えたことがなかった。今にして思えば、いて当然なのだが、何故か考えられなかった。
イルムヒルトは、魔王の娘だ。
ただ一人の子である。
本来であれば彼女が魔王として立つべきではあるのだが、魔の国の王は女性では成り得ない。だから、レムクール王国のように女王が誕生することはないのだ。
だからこそ、クラウスたちが連れてこられた。そして、それはイルムヒルトにとっては屈辱的なことだった。
誇り高い彼女には、未熟な夫など不要なのだ。
ふと、イルムヒルトの深い色合いの目が、クラウスの心を見透かすように向けられる。その目は挑むようでもあり、試すようでもあり――。
けれど、もう怯むことはなかった。ただ受け流すだけだ。
「この国の皆が君のようであればよかったのに」
そんなことを言ってしまうと、イルムヒルトはクラウスに背を向けた。気分を害したわけではないとは思う。
ただ月とクラウスとの会話に飽きただけだろう。
それから、クラウスは一人で月を見た。首が痛くなるまでそうしていた。
どんな救いもこの地にはない。
【 第3章 ―了― 】
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