10◇悪い噂

 結局、アルスは少なくとも換金を終えるまではこのデッセルの町に滞在しなくてはならなくなった。

 そんな時間も惜しいのに。


 とはいえ、アルスだけだったら百五十Gしか手にできず、指輪そのものも失っていた。この件に関してだけはラザファムに感謝してもいい。


 ラザファムはテキパキと二人分の宿を取り、そこへ落ち着いた。

 食堂で食事も適当に注文され、料理がアルスの前に並べられた。


「この中に食べられないものはなかったと思いますが」

「そうだな。大丈夫だ」


 バゲット、野菜スープ、ポークソテーの林檎ソース添え、ベイクドポテトなど――十分に美味しく感じた。ラザファムも同じものを食べている。

 十分な食事を取り、ほっとひと息つけた。


 けれど、それと同時に、クラウスはどんな食事を取っているのだろうかと考える。ノルデンは寒く、土地も痩せていて農作物が育ちにくい。土を耕すのも重労働なのだと聞いた。十分な食事があたっているとは考えにくかった。


 アルスは城を飛び出したものの、まだ空腹を満たすことができていた。腹が減っていては力が出ないから、ある程度は食べなくては旅ができない。

 ただ、なんとなく罪悪感めいたものも覚えてしまうのだった。


 食事を取りながらしょんぼりとしたアルスを、ラザファムは無言で見つめていた。




 それから二階の部屋に向かう。


「言っておきますが、逃げてもすぐに追いかけますから」


 隣の部屋の扉を開けたラザファムに念を押された。


「わかっている。おやすみ」


 少々乱暴に扉を閉めてやった。

 そのままベッドの上に倒れ込むと、ナハティガルも一緒にベッドに沈んだ。


「ふわぁ、つっかれたぁ!」


 今日はそんなに疲れることもなかったと思うが、ナハティガルは黙って鳥のふりをしていると疲れるのだ。


「でもさ、アルスって物の価値とかわかんないんだね。危うく大損するところだったよ」


 アルスは横になったまま、余計なことを言うナハティガルを睨んだが、その程度で怯むわけがなかった。


「ラザファムだって貴族なのに、ちゃんと世の中のコト知ってるし。頼りになるよねぇ」


 甲高い声が頭に響くので、アルスは枕を被った。それでもナハティガルはその枕の上に乗っかった。


「ねーえ、アルスはクラウスの代わりがダリウスじゃ嫌なんでしょ? ラザファムならどぉ? ボク、それもいいと思うんだけどなぁ」

「ない」


 バッサリと即答した。

 そうしたら、ナハティガルが枕の上で飛び跳ねた。


「ちょっと悩みなよ。ヘチマよりはカボチャの方がいいってば! 家柄は見劣りするかもしれないけど、優秀だよ」


 アルスはイライラして枕を放り投げたが、ナハティガルは飛び上がって投げられるのを避けた。


「お前はクラウスにだってよく懐いていたじゃないか!」

「クラウスのことは好きだけど、でも、アルスがこうやって飛び出すのもクラウスのせいだもん」


 ナハティガルはアルスの守護精霊だから、アルスの身の安全を最優先に考える。それがアルスの希望とは違ったとしても。


 ラザファムはアルスにとっても友達ではあるけれど、クラウスの代わりになんてできない。


「もう黙っていろ!」


 アルスが怒ったら、ナハティガルは首を傾げ、肩を竦めるように羽を広げて見せた。




 苛立ちは収まらないが、とりあえずアルスは浴場に行くことにした。

 今度いつ入れるかわからない。城にいると侍女たちがいちいち手を出してくるが、一人で入る方が好きだ。


 ただし、自分以外の誰かと一緒に湯に浸かるのは初めてかもしれない。そういう時、なんと言って挨拶するのが一般的なのだろう。

 よくわからないから口を開かないのがいいかもしれない。


 そんなことを考えながら一階へ下りていくと、食堂の方が賑やかだった。酒も出すようだから、仕事を終えて飲んでいる客もいるのだろう。


 王城でこんなふうにハメを外す者はいないから、興味深くはあった。浴場へ向かう際に漏れ聞こえる話を少しだけ聞いた。


「――ったくよぅ。イングベルト様の手癖の悪さには呆れちまうぜ」

「おい、声がでかいって。領主様のご子息を悪く言ったら牢にぶち込まれるぞ」


 領主の息子は手癖が悪いらしい。どう手癖が悪いのか気になる。もし犯罪に発展するようなら姉に報告しなくてはならないだろう。

 アルスは話を聞くために牛ほど遅い歩みになる。


「でも、また女中がいなくなったんだ。今日新しいのが入ったけど、どうかな」

「イングベルト様が手をつけたとは限らないんじゃないのか?」

「最後にあの娘を見た日、イングベルト様が肩を抱いていたんだ。間違いねぇよ」

「領主の嫡男がそれって、ヤバいよな」

「まったくだ」


 牢にぶち込まれるとしながらも、酒が入っているせいか声がでかい。

 それにしても、領主の息子は女中に手をつけて飽きたらポイ捨てしているのだろうか。本当だとしたら最悪だ。

 領主の息子に言い寄られたのでは、断れない娘も多いことだろう。


 そこでナハティガルがボソリと言った。


「あのノーラって子、領主館に行ったよね?」

「あ、ああ」


 そうだ、ノーラは大丈夫だろうか。

 あの優しい子が悲惨な目に遭わないといいけれど。


 ひと言くらいは忠告できたら、ノーラもその息子と二人にならないように警戒するだろうか。

 どうしよう、とアルスは悩んだ。


 先を急ぐ身だから、面倒に巻き込まれたくはない。正体を知られる恐れもある。

 それでも、だからといって放っておいて、もし何かあったら、親切にしてくれたディーターにも彼女の両親にも申し訳ない。

 それから、姉にも。アルスは王妹として、困っている民を見捨ててはいけないはずだ。


 酔っ払いの男たちはそれ以上有益な情報を漏らさないようだった。

 アルスは浴場へ行ってもそのことで頭がいっぱいだった。服と一緒にナハティガルも置物のように脱衣所に置いて、なんとなく体と髪を洗って出てきた。


 その間に心を決めた。

 明日、ノーラに会おう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る