Blue Bird Blazon ~アルスの旅~
五十鈴りく
1章
1◇アルステーデと婚約者
エーレという世界があり、レムクールという王国があった。
自然と調和するレムクール王国の人々は、太陽のようにこの世を見守るとされる精霊王を崇め、精霊王の配下である数多の精霊たちもまたレムクールの王族に敬意を払っている。
とても穏やかで自由な気風の国。
――そんな国で生まれ育った王女もまた、自由な姫である。
「クラウス! こっち!」
夏の日差しの中、元気いっぱいに走る少女はまだ成長の途中にあったが、それでも将来を約束された美しさをすでに持ち合わせていた。
癖のない銀色の長い髪が少女の動きに合わせて揺れる。薄青い目は輝きに満ちていて、その光が繊細な顔立ちを儚くは見せなかった。細い四肢にバネでも仕込まれているかのように、少女は活発だ。
少年のようなパンツスタイルで、牧草地の囲いの柵を簡単に飛び越えてしまう。
「アルス、駄目だって……」
そんな少女に追いついたのは、育ちがよさそうに見える同じ年頃の少年だ。
理知的な印象を受けるが、少女の動きについてきて息ひとつ切らさない。
彼、クラウスは十六歳という年齢より成熟していた。
少女、アルスは柵を挟んで振り返る。
「せっかくナハがいないのに、クラウスがナハの代わり?」
頬を膨らませて不満をあらわにするアルスに、クラウスは大人びた様子で苦笑した。
「君が大人しくしていないから、ナハティガルがいつも怒られているんだ」
「私の守護精霊なんだから仕方ない」
「せっかく年に一度の精霊界帰りの最中なのに、それ聞いたら泣くよ?」
「泣くと思うけど、いいんだ」
と、アルスはあっさりと答えた。
レムクール王国の第二王女、アルステーデ・エルナ・フォン・ファステンバーグ。
レムクール王国の直系の王族は、幼少期に守護精霊と主従関係を結ぶ。守護精霊はその王族を護り、死ぬまで共に在るのだ。
ただし、精霊にとってこの
一年のうち一度だけ精霊界に帰り英気を養ってくる。それがアルスの守護精霊ナハティガルにとって今なのだ。
アルスもその間、閑静な牧草地の広がる別荘に滞在中だった。ここは精霊王を崇めるセイファート教団の聖地でもあった。
王都と同じく特別に精霊王に護られた土地である。
「ナハも苦労が絶えないな。僕はナハの気持ちがすごくわかる」
ムッとして見せるものの、アルスは本気で怒ったわけではない。クラウスの表情には確かな親愛があった。それが照れ臭かっただけだ。
「そう。きっと、ナハと上手くやれそうだからクラウスが選ばれたんだ」
「アルスの婚約者になった時、僕以外の皆が辞退して、僕だけ残ったんじゃないのかってナハに言われたけど」
「あいつ……っ」
ナハティガルはアルスに仕える守護精霊ではあるが、まるで友人のように気安い。戻ってきたら説教をしてやろう。
クラウスも柵を乗り越え、そしてアルスの隣に立つと微笑んだ。
「まあ、僕だって、誰か一人を選ぶのならアルスがいい」
穏やかな、整った顔で堂々と言う。クラウスは昔からそうだ。
ナハティガルと契約した六歳の頃――クラウスと初めて顔を合わせたのもそれくらいだった。
公爵家の嫡男で、ひとつ年上の男の子。アルスはさっそく喧嘩を吹っかけたのだった。
手合わせしよう、と。
絶対に負けない自信があった。六歳にしてアルスはすばしっこくてお転婆だった。木剣を振り回し、必要以上に剣術に打ち込んでいて、年が近い男の子の顔を見ればまずこれを言った。
しかし、アルスの見立ては大きく外れ、まるで大人を相手にしているのと変わらないくらい、アルスは簡単にあしらわれたのである。
『アルステーデ姫様、お怪我はございませんか?』
金髪を揺らし、騎士のように優雅に、涼しい顔をして手を差し伸べたクラウス。
その表情には勝ったという優越感は微塵もなく、ただ労りだけがあった。
この手を取った時から、アルスにとってクラウスは特別だった。
家柄、人格、容姿、能力――どれひとつとして劣ったところのない少年だった。そしてアルスと年齢も近い。
十二歳になったアルスの婚約者を決めるという話が持ち上がった時、真っ先に名前が出て当然だった。
アルスの姉、王位継承権第一位のトルデリーゼに婚約者がいなかったら、四つも年下だということを差し引いたとしても推薦されたかもしれない。アルスには勿体ないくらいの婚約者ではある。
それでも婚約したこの三年、アルスはクラウスが婚約者になるのが当たり前のように思えていて、クラウスもそうだったと信じている。
ただ、いつもアルスにはナハティガルがついているから、うるさい。お目付け役のような守護精霊がいない今、アルスは少し浮かれていた。クラウスと二人だとはしゃいでいたのだ。
柵を越え、クラウスが追ってくるように仕向けた。クラウスはナハティガルの分もアルスから目を放さずにいてくれるから。
特別な何かを期待したわけではない。ただ、二人でいるのが楽しかった。
結婚したら、もっとずっと一緒にいられるようになるのに。
アルスは悪戯っぽく笑い、クラウスに背を向けて本気で走った。手を抜くとすぐに捕まってしまう。
絨毯のような草を踏みしめ、跳ねるように駆けていく。走る。走る。
開けた草原から、木々の生い茂る林へ踏み入る。鹿になったかのように、木の根を飛び越え、木の間をすり抜け――。
「アルス!」
クラウスの声と同時に、木に停まっていた鳥が飛び去る。
手首をつかまれ、追いかけっこは終わった。
「屋敷から離れすぎだ」
小川のせせらぎが聞こえる。
木が日光を遮り、地面は湿っていてここは涼しかった。
アルスが観念して振り返ろうとすると、軽く息を乱したクラウスに背中から抱き締められた。
「クラウス……?」
「駄目だよ、アルス。こんなふうに追いかけさせるのはやめてくれ。君がどこか遠くに行ってしまうようで怖くなるから」
ドクン、ドクン、と鼓動が乱れる。
クラウスはいつも、勝手気ままなアルスを優しく見守ってくれるばかりの婚約者だった。抱き締められたのも、こんなふうに熱を持った声でささやくのも初めてだった。
いつの間にか、話す時も見上げなくてはならなくなっていて、こうして触れている体にも柔らかさがない。
どんどん大人に近づいていくのは、クラウスだけではなくてアルスもだ。
「ご、ごめん」
これ以上のことは何も起こらないだろうとは思ったけれど、それでも緊張した。
そして、ごめんと謝りながらも、クラウスの気持ちが確かめられて嬉しい気持ちが勝っていた。
ナハティガルがいたら、お転婆が過ぎると愛想を尽かされるとでも言ったかもしれない。
クラウスは、なかなかアルスを離さなかった。ここは涼しいから、クラウスの体温が心地よかった。クラウスもそう感じていたのかもしれない。
そう思ったアルスは、本当に救いようがないほど愚かだった。
涼しいを通り越し、不意に寒さを覚えた。それは本当に、夏から真冬へと放り込まれたようなものだった。
異常なまでに寒い。そして、暗い。
クラウスもハッとして腕を強張らせていた。そして、その作り出された空間に現れたのは、魔族だった。
青白い蝋のような肌。黒い髪と切れ長の黒い目。黒尽くめの執事のような恰好をした人型の魔族だ。
このレムクール王国の北、ノルデンを越えた先には魔族の国ラントエンゲがあるとされる。
魔族は、人型に限らず、獣型、虫型と多様だが、人型の魔族は高い知能を持ち、強靭な肉体と魔力を持つ。
それぞれの国は魔族に対抗するべく策を練るが、完全に防ぎきることはできていない。人型の力の強い魔族ほど、意図せぬところに現れることが絶対にないとは言えないのだ。
――話には聞いていても、実際に魔族に会ったことのないアルスは、あまり身を入れて聞いていなかった。王族たちがなんのために守護精霊をつけるのか、その意味も考えていなかった。
その魔族は顔に皺などはなく、人間だとしたら青年というべき外見をしていた。少し長めの髪をサッと掻き上げる。
「こんな辺鄙なところに面白い人材がいたものだ」
魔族の声に、二人してギクリと固まった。
剣は屋敷に置いてきたし、ナハティガルもいない。二人にはこの魔族に抵抗する術がなかった。
それでもクラウスはアルスを背中に庇った。青年魔族はそれを見て笑う。
何も言わず、ただ笑っていた。さも可笑しそうに。
この時、クラウスはアルスにささやいた。
「アルス、僕が魔族を引きつけるから、逃げるんだ」
「嫌だ! 一緒に戦う!」
「勝てないのはわかっている。だから、アルスだけでも逃げて」
愕然とするようなことを言う。
クラウスを見捨てて逃げるなんて、そんなことができるわけがない。
絶対に嫌だ。
アルスは地面を見遣り、とっさに拳ほどの石を拾う。こんなもので倒せるわけはないが、隙を作りたかった。
けれど、それを振りかぶった瞬間、魔族はアルスのすぐ横にいた。
「これで何をしようって? 困ったお嬢さんだ」
揶揄する声は冷たく、吐息は氷のようだった。魔族の手がアルスの首に伸び、片腕一本で木にぶら下がった
「アルス!」
苦しくて足をバタつかせたけれど、どこにもかすりさえしなかった。
「やめてくれ! 僕はどうなってもいいから!」
アルスが気を失う直前に、クラウスの悲痛な声を聞いた。
これで死ぬのだと、アルスは人生の幕引きがこんなに呆気なく訪れることに驚く暇もなかった。
それなのに、アルスは死ななかった。
林を抜けた草原の途中に一人で倒れているところを発見されたのだ。
そして、クラウスはそれから三ヶ月の後、レムクールの王都メルヒオルにて奇跡的な帰還を果たす。
しかし――。
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