2◇婚約破棄

 アルスが目覚めた時、姉であるトルデリーゼが駆けつけてくれた。


「アルス! よかった、本当に……」


 金髪を編み込み、純白のドレスに身を包む姉の姿がぼんやりと見えた。

 清楚で聡明な姉がハラハラと清らかな涙を流している。


「姉様……」


 ベッドに寝かされたまま、アルスはぼうっと姉の姿を眺めていた。けれど、すぐに状況を思い出して飛び起きる。


「クラウスはっ!」


 そんなアルスの両肩を姉が細い腕で抑え込む。いつもなら跳ねのけられる程度の力なのに、今は体に力が入らなかった。


「まだ寝ていなさい。あなた、二日間も眠っていたのよ」

「そうだよ、アルス。まったく、ボクがいない時にバカなマネをするんだから!」


 甲高い子供の声と共に、ベッドの枠に停まっていた鳥がアルスの枕に飛び移る。ポスン、と枕に埋もれた青い鳥は、小鳥というには大きく、林檎くらいの大きさがある。羽根こそ翡翠のように綺麗だが、どこかずんぐりとしていて目も大きく、野性味がない。


 この鳥の種類はなんとも言えない。鳥ではないから。


「ナハ……」


 アルスの守護精霊ナハティガルだ。

 精霊なので実体はない。ただ、それだと話しづらいので何かになれというと、決まって青い鳥の姿になる。


 口うるさいナハティガルの甲高い声が、今は胸に染みる。

 アルスは泣きたくなるのを堪えながら訊ねた。


「人型の魔族が出た。それで、クラウスはどこ?」


 それを訊ねた時、姉もナハティガルも顔を曇らせていた。

 この時のアルスは、最悪の事態を想定していなかった。自分が生きている以上、クラウスも生きていると疑いなく思っていた。


 姉は一度唇を強く引き結ぶと、言った。


「クラウスは行方不明なの。今、全力で捜索中よ」

「そんな……っ」


 また起き上がりかけたアルスの額にナハティガルが氷嚢のように乗っかった。本物の鳥のようにあたたかい。


「アルスが動くと邪魔になるから寝てなよ。クラウスは生きているから」

「本当に?」

「うん。王様がそう仰ってたし」


 ここでナハが言う王様は、アルスの父であるレムクール王ではなく、精霊の王のことだ。

 すべてを見通す精霊王がクラウスは生きていると言うのなら、本当に生きているのだろう。アルスはやっと息がつけた。


「わかった。でも、あんなに力のある魔族、初めてだった。早く捜さないと……」

「そうだね。皆、捜しているよ」


 ナハティガルの声を聞きながら、アルスは再び眠りに落ちた。




 それから三ヶ月が過ぎ、五ヶ月が過ぎた頃。


 アルスが毎日クラウスの無事を祈り、見つけられないことに腹を立てて荒れ狂っていると、クラウスの父であるリリエンタール公がアルスをおとなった。

 クラウスの弟のダリウスを連れて。


 よいしらせだとばかり思っていたアルスは、公爵の発言に感情が擦り切れて固まってしまった。


「残念ですが、クラウスは絶縁しました。アルステーデ姫様とのご婚約も白紙に戻して頂くよりありません。それで……その、我が家としてはクラウスの代わりに弟のダリウスを、と考えております。知らぬ間柄ではございませんし、いかがでしょう?」


 公爵がこれを告げた時、同席した父王も姉も愕然としていた。ダリウスはうつむいて震えている。


 兄弟の年の差はひとつしかなく、顔こそクラウスと似たところもあるけれど、ダリウスはすべてにおいて凡庸だった。優秀すぎたクラウスの代替品になどとてもなれない。それを誰もがわかっている。


「絶縁? 婚約を白紙? 公は何を仰っておいでか」


 アルスが声を震わせながら問うと、公爵もまた戸惑っていた。


「もしや、アルステーデ姫様はまだご存じではなかったのでしょうか?」


 すると、父がやつれた顔を手で覆った。


「こんな惨いことをどうやって告げられるというのだ」


 血を吐くような声だった。アルスは毎日、クラウスが見つかったかと訊ねていた。それに対し、父はまだだとしか答えてくれなかった。

 本当は、そうではなかったのだろうか。


 絶縁というからには何かがあったのだ。

 アルスは逸る心臓を押さえながら公爵に詰め寄る。


「クラウスが見つかったのだな? 何故、絶縁などと……」


 公爵は心底困った面持ちでかぶりを振った。


「息子は、クラウスは、もう以前の息子とは別人――いえ、人と呼んでよいのかもわかりません」

「……えっ?」


 意味がわからなかった。公爵は何を言っているのだろう。

 公爵にばかり語らせてはいけないと思ったのか、父もようやく重たい口を開く。


「二か月前、クラウスは戻ってきた。しかし、公が言うように彼は変貌していた。髪も目も黒く、魔族のそれと似た風貌になって、明らかに魔族の影響を受けたものと思われた」


 何を言っているのかわからない。わかりたくない。

 アルスが首を振ってばかりいても何も変わらなかった。


「そのような者を家に上げるわけには参りません。魔族に魅入られたあれのことは、ノルデンへ送りました。あれも納得して出ていきました」


 公爵はクラウスの名を呼ぶのも避ける。

 かつては自慢の跡取り息子であったというのに。


「納得して? ちゃんと話ができたのなら、クラウスは何も変わってなどいない! 見た目がどう変わろうと、中身はクラウスだ!」


 怒りのあまり、アルスは頭から血の気が引いて卒倒しそうだった。こんな感覚を初めて知る。それくらい、クラウスへの仕打ちは許しがたいことだと思えた。


「クラウスは私を庇ってくれたんだ! それをこんなひどい目に……っ」


 公爵にとって大事なのはクラウス自身ではなく、王家との繋がりを持つことで、ダリウスが代われるならそれでいいとでも言うつもりか。


 ふざけるなと怒鳴ってやろうとした。クラウスがどんなに勇敢だったか知りもしないで、皆が勝手なことを言う。

 誰がなんと言おうと、アルスだけは絶対にクラウスの味方でなくてはならない。


「私はクラウス以外の誰とも婚約も結婚もしない! 帰ってくれ!」


 喚き散らすアルスを、姉が精いっぱい宥めた。けれど、姉もクラウスがノルデン――北の果てに追放されるのを止めてくれなかったのだ。

 アルスはただクラウスが可哀想で、何もできない自分が情けなくて、嫌で、この時ばかりは涙を流した。


 けれどそれ以来、もう二度と泣かないと決めた。

 次に泣くのはクラウスと再会した時にすると。


 心労が祟ったのか、その半年後に父王が急逝した時でさえ泣かなかった。

 心優しい姉、トルデリーゼは若干十九歳にしてレムクール王国の女王となった。


 そして、その姉にはまだ子がおらず、よって王妹のアルスが王位継承権第一位、さらに下の妹のパウリーゼが第二位である。

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