3◇騒がしい旅立ち
「ア、ア、ア、アルス。それ、冗談だよね? 冗談だって言ってくれるよね?」
十七歳になったその翌日、アルスはすっかり旅支度を調えて窓辺にいた。
椅子の背もたれにちょんと停まっているナハティガルが、丸い目を潤ませながら(本物の鳥なら泣かない)アルスに懇願する。
ビスチェの上にフードがついたボレロを羽織り、フラップスカートの下にはレギンス、ロングブーツ。腰にはベルトを巻きサーベルを佩いているアルスは、とても王女には見えないだろう。
髪も結わずに下ろした。どこぞの冒険者にでも見えたらいい。
これらの服は数着、こっそりと仕立て屋に持ってこさせた。人にプレゼントするから内緒だと釘を刺しておいたが、いつまで黙っているだろうか。
アルスはリュックに詰めた荷物を担ぎ、腰に手を当ててナハティガルに言い放つ。
「冗談なものか。私はこれからノルデンまで、クラウスを捜す旅に出る。これはずっと計画してきたことだ」
そう、ずっと。クラウスが追放されたと知った時から。
誰に頼んでもクラウスを迎えに行ってはくれなかったのだから、こうなったら自分自身で迎えに行くしかない。
本当はずっと飛び出していきたかったが、アルスはあまりに無知で世間を知らなかった。自分の身支度さえ自分ですべて整えられなかった。
だからこの二年の間、アルスは旅をするために学べるだけのことを学んだのだ。
ナハティガルもそれを知っているはずだが、どこかでアルスが思い留まってくれると期待していたのだろうか。生憎とそうはならない。
ナハティガルはバッサバサと翼を振り乱した。
「ちょっ、自分の立場とかわかってるっ?」
「王位継承権がなんだっていうんだ。姉様がどうにかなるわけないし、いざとなったらパウがいる」
「パウリーゼ様が王様に向いてると思うのっ?」
「いいや、まったく」
「そうだよ。法律で町中の家の壁がピンクにされちゃう。男はヒゲを生やすなとか、緑の野菜は撲滅しろとか、絶対ムチャ言うよ」
多分、言うだろう。まだ十二歳の妹はそういう子だ。
アルスにとっては可愛い妹だが。
「まあ、そのうちに姉様に子供ができるだろう」
「そうなったら余計に陛下の体調を考慮して、アルスが代理で立たなくちゃいけない公務が増えるんじゃないの?」
ナハティガルのくせに正論を言う。
言葉に詰まりそうになったけれど、押しきられるわけには行かない。
「クラウスは……っ」
クラウスがこんな目に遭ったのはアルスのせいなのだから、自分だけは彼を諦めてはいけない。
「クラウスは、私を助けるためなら自分はどうなってもいいと言ってくれたんだ! それなのに私が何もしないで忘れていくなんて、そんなのあっていいことじゃない!」
アルスが声を荒らげて睨むから、ナハティガルがしょんぼりとした。ナハティガルが悪いわけではないのはわかっているけれど。
「アルスのせいじゃないって、皆言ってくれたよ?」
ポツリ、とナハティガルが言う。
けれどそれは、アルスが一番言われたくないことだ。
これまで、精霊王に護られた土地に魔族が出たためしはなかったのだ。あの日のアルスたちが危険だと察知することはできなかった。
だから、アルスのせいではないと。
本当にそうだろうか。
もしそうだとしたら、クラウスの口からその言葉を聞きたい。
アルスのせいではないと。
「私がただ、クラウスに会いたいんだ」
この二年。ずっとそれを考えていた。
思い出すのはいつでも、あの優しい微笑みだ。それが変わってしまったなどとはとても信じられない。
だから、会いに行く。会って、連れ戻す。
誰もアルスの声に耳を傾けてくれなかったのだ。誰も頼らずに行く。
ただし、ナハティガルだけは別だ。
ナハティガルは困惑して首を小刻みに振っている。拒否の意思表示かもしれないが、アルスを護るのがナハティガルの役目だから無理だ。
「覚悟を決めろ、ナハ」
「ヤ、ヤだぁ! パウリーゼ様のところの守護精霊のアードラなんて、暇すぎて昼寝ばっかりしてるのに、何この差っ!」
本気で嘆かわしいらしく、ナハティガルはつぶらな目からボロボロと涙を零した。普通の鳥はそういう泣き方をしないからやめろというのに。
「パウは叱られるのが嫌いだから、危機管理能力が高いんだ」
「アルスも見習いなよ!」
「わかった。来世でな」
「遅いし!」
ナハティガルは精霊としては年若いので、精神年齢もまあ幼い。それを選んだのはアルスではあるのだが。
アルスは窓を開け放つとそこから空を見上げ、そうして下を見下ろし、窓を乗り越えた。
「ギャ――ッ!」
ナハティガルのやかましい声が、アルスの旅立ちの始まりを告げるのだった。
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