8◇許容できない

 コルトは眠りながらうなされ始めた。


 アルスが熱を出した時は、よく誰かが手を握ってくれていた。幼い頃は母が、母が亡くなってからは姉が。

 そして、妹のパウリーゼがうなされていたらアルスも枕元で頭を撫でたりした。


 妹の時と同じように額をそっと撫でてあげていると、コルトが目を覚ました。

 ハッと気がつき、一度すがるような目をした。それがとても悲しそうに見える。目が覚めて独りぼっちではないことを喜んでくれるかと思えばそうではなかった。


 アルスの顔を見たら、父がいない現実を思い出したのかもしれない。

 それでもコルトはその現実を呑み込んだようだ。しばらくぼうっとしてから体を起こす。


「ちょっと休んだら楽になったよ、ありがとう。……ねえ、姫様はどうしてこんなところにいるの? 普通、王族はフラフラ出歩かないよね?」


 コルトが顔の汗を肩口で拭きながら訊ねてきた。コルトから解放されたナハティガルは、えっ? と声を漏らしてアルスの頭に飛び乗った。

 アルスは頬を掻きつつ答える。


「うん、ちょっと事情があって旅をしている」


 行き先がノルデンだということを言うべきか迷い、やめた。一緒に連れていってほしいと言われてしまいそうだ。

 ラザファムが言うように、やはりノルデンは子供が行くところではない。魔の国との境なのだ。何が起こっても不思議はないところで、アルスはコルトを護れる気がしなかった。


 コルトもまさか姫君がノルデンへ向かわんとしているとは思わなかったらしい。

 ふぅん、とつぶやいただけだった。


「じゃあ、すぐにここを発つんだね。僕ももう少し休んだらまた出発するつもりだけど」

「ノルデンまで?」

「そうだよ」

「ノルデンに父親がいるというが、その理由を聞いてもいいか?」


 アルスは慎重にこの話題に触れる。ナハティガルは取りあえず首を傾げ、鳥のフリを続けていた。

 コルトは唇を尖らせ、年相応に子供らしい表情になったが、握った拳を震わせている。


「濡れ衣を着せられたんだ」

「濡れ衣?」

「お父さんは何もしてないのに、お父さんのせいにされたんだ。自白したって言うけど、そんなの嘘だ。何か理由があるはずなのに、丸く収めるためにお父さんが悪いことにして、全部押しつけたんだっ」


 穏やかではない話だが、コルトはまだ子供だ。自分の父親が悪事に手を染めたと信じることよりも濡れ衣だと思いたいのも仕方がない。


 実際のところがどうなのかわからない以上、アルスはなんと声をかけていいのかがわからなかった。下手な希望は心を無残に打ち砕く。


 たった一人でノルデンを目指すほどにはコルトは父親のことが好きなのだから。

 誰もが愚かだと首を振ることを認められないのはアルスも同じだ。


 コルトは恐る恐るアルスを見た。


「姫様ならお父さんをノルデンから助け出せる? こういうこと、本当は言っちゃいけないのはわかってるよ。でもっ、誰も僕の話なんて聞いてくれないんだっ」


 小さな目に涙が浮かぶ。

 本当はそれを言ってはいけないと弁えるほどにコルトは大人びている。この年頃のアルスなら呼き散らしただけだっただろう。


 アルスはコルトの頭を撫で、目線を合わせた。


「じゃあ、まずは話を聞こう。何がしてやれるのかはわからないけれどな」


 頭の上にいるナハティガルがドスドスと足踏みをした。深入りするなと言いたいのだろう。

 けれど、孤独に打ちひしがれている少年を突き放すのは難しかった。

 コルトは頬を染めてうなずいた。


「お父さんの罪状は、栽培禁止植物を育てたカドって」

「栽培禁止植物な……」


 例えば人を害する毒であったり、多幸感を与えてくれる代わりに精神を蝕む麻薬であったり、そうしたものだろう。

 その植物が危険だと知らなかった可能性はある。もしそうだとしたらノルデン行は厳しい判決に思えた。この話には何か裏があるのだろうか。


「どこで育てたんだ? この家に庭はないが」

「ここはお父さんがノルデンへ送られて館が叔父さんのものになったから、僕のために用意された家だよ」

「館って、この村にある館はひとつだな」

「うん。お父さんが村長だったの」


 コルトは村長の息子として大事にされていたはずが、その事件で村人の態度が一転してしまったようだ。コルトが悪いわけではないのだが。

 今のコルトは汚れていて、とても育ちがいいようには見えない。


「事情はわかった。そうだ、風呂に入ろうか。さっぱりしたら気分もよくなる」


 あまりにも汚れている上に汗もかいている。このままというのは可哀想だ。


「うん……」


 感情を持て余しつつ、コルトはうなずく。

 アルスはなるべく明るく笑って見せた。


「よしよし。準備をしよう。私も一緒に入ろうかな」


 えっ、とコルトが小さく声を漏らした。


「うっ、うちのお風呂は小さい、ですっ」

「でも体調が悪いと一人で入れないだろう?」


 アルスは侍女たちのように手際よく介助をしてあげられないかもしれないが、いないよりはマシだろう。


 ただ、この時――。

 家の中でバンッと何かが破裂するような音がした。


「なっ、なんだぁ?」


 ナハティガルがびっくりして声を上げてしまい、それから慌てて羽でくちばしを押さえた。そういえば、コルトの前では喋ってもいいとまだ伝えていなかった。


 アルスが音がした方に行ってみると、そこは今まさに話をしていた風呂のようだった。

 確かに狭い。手洗いかと思うような木製の小さな風呂桶が置いてあるだけだ。


 その風呂桶がぱっくりと割れていた。

 窓ガラスも割られていた。風が中に吹き込んでくる。


「なんだこれ。嫌がらせか?」


 アルスは風呂の戸に手をかけたまま顔をしかめた。

 コルトの父がノルデンへ送られてから、コルトは迫害されているのかもしれない。こんな小さい子にひどい仕打ちをする。




「……一体何をされているのでしょうか?」

「何って……」


 アルスがいる小さな家の風呂を破壊して隠れているクラウスに、シュランゲが呆れたような声を上げたのも致し方のないことである。


「いや、アルスがあの子と一緒に入るって、どう考えても駄目だろう?」

「相手は子供でしょうに」

「女の子ならまだしも、男だったら許容できるのは二歳までだ。あの子はもう大きいし、大体、風呂に入っているうちにラザファムだって帰ってくるかもしれない。アルスはそういう点が無防備すぎる。ここは城じゃない」


 苦々しい顔をしているクラウスの肩でシュランゲが首を振ったのがわかった。

 あまりの狭量さに失望されている気がした。


「あの姫を諦めるのではなかったのですか?」

「諦めている」

「ほぅ」


 人様の家の風呂を破壊しておいてよく言うとでも言いたげだ。蜥蜴だから表情が読めなくてよかった。

 言い訳をさせてもらえるのなら、自分でもこんなことをするつもりはなかった。だが、気づいたら力を使っていた。


「……あなたはもっと冷静な方だと思っておりましたので意外です」


 冷静なつもりではいるのに、いつもアルスが絡むと途端に自分が自分ではなくなるような気がしていた。そんなふうになったのはいつからだっただろう。


 アルスと初対面の時はまだ冷静だった。

 冷静に、王女であるアルスに気に入られようと計算していた。


「俺は昔から、他人が何を望んでいてどう動くのか、ある程度は読めていた。だから、相手が望むように振舞うのはそう難しくなかったんだ。アルスに気に入られておけば展望は明るいと思って、全部計算づくで内心ではわらってそばにいた」


 幼いうちから人格を認められていたクラウスは、すべてが計算された、いわば演技によって作り上げられた人格と言ってもいい。


 本当はひどく打算的で性格が悪いのに。

 誰にも好かれる、いい子のクラウスだ。


 アルスはそんなクラウスとは真逆の性質を持つ人間だった。

 いつでも真剣に感情を込めて生きている。

 些細なことに怒り、笑い、全力で人と接する。心をさらけ出すことを恐れない。


 アルスを知れば知るほど、素直にすごいと思った。そして、自分があまりにもちっぽけであることを知った。弱さを覚られたくないから、上辺だけ上手く取り繕う、張りぼての人間だ。


 それでも、彼女から向けられる尊敬や好意がクラウスを変えていった。上辺だけではなく、本当にアルスに相応しい人間になりたいと。

 クラウスにとって、この世のすべてがアルスを中心に回っていた。それは今も変わりない。


「でも、アルスは何ひとつ俺の計算通りには行かなかった。アルスの言動だけは読めない。俺が予測もつかないことをするし、不意打ちで笑いかけるし、いつでも心臓のスペアがほしいって思うくらいには落ち着かなかったな」


 ポツリと零すと、シュランゲは経験豊富な老人のようにして答える。


「それが恋というものでしょう」


 蜥蜴に恋心を説かれてもどう返答していいのかわからないが、今の自分の気持ちは自分が一番よくわかっている。離れなくてはならないからこそ、以前よりも一層不安で、ただ苦しい。

 アルスが素直に城にいてさえくれたなら、もう少し落ち着いていられたはずなのに。


 けれどそれが、クラウスに会いたいという気持ちからであることがより複雑なのだ。

 嬉しくないわけではないのに、来てほしいとも思えない。


「……俺にもっと力があればよかったのに」


 もっともっと、強い力があれば。


「とにかく、もう戻りましょう。いつまでもここにいるわけには行きませんから」

「わかっているけど……」

「あなたはあなたのすべきことを。あなたが他のに後れを取ってしまえば、結局のところレムクール王国の姫などは蹂躙されるだけです」

「っ……」


 魔王候補にと選出されたのは、何もクラウスだけではない。

 そして、クラウスが魔王にならなかった場合、レムクール王国を護るものは何もないのだ。


 その時、クラウスは新たな魔王に太刀打ちできるような力は持たない。護れないままアルスを目の前で喪うことになるかもしれない。

 そうならないために選んだ道なのに。


世界エーレにより多くの魔性を撒き、聖なる精霊王の力を弱める。それが魔王候補たちの評価基準ですから。しかし、まだ人であるあなた方は故郷を忘れられない。せめて他国へと働きかけています。他の候補たちがこのレムクール王国を狙うように、あなたも他国へ赴き、同じように――」

「わかっている!」


 思わず声を荒らげた。そんな苛立ちは未来の魔王には相応しくないとしても。


「どうか、お忘れなきように」


 シュランゲはポツリとそれだけを言った。

 先にデッセルの町で起こったことは、候補の誰かの仕業だ。領主とその息子たちを闇へと引き込んだ。


 そこに精霊たちと、精霊に愛されているレムクール王族のアルスが飛び込んできたのだから、本来であれば大手柄だっただろう。しかし、それを妨害するのもまた競争と言えるだろう。

 そんな理由で邪魔をしたわけではないとしても。


 シュランゲに促され、クラウスは後ろ髪を引かれる思いでその場を離れるしかなかった。

 ただ、魔の国ラントエンゲへ魔族のつけた道筋を戻る時、ふとラザファムの姿が見えた。


 彼はアルスのそばにいることができる。それをとても羨ましく思った。

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