19◇お疲れ

「う……」


 アルスは、フサフサとした何かに顔を撫でられて目を覚ました。それはナハティガルの羽だった。


「ア、アルスぅっ!」


 暗がりの中でもうっすら光っているナハティガルは、涙をポロポロと零していた。


「なんだ、ナハ、泣いていたのか」


 ナハティガルの頭を撫でてもナハティガルは泣きやまなかった。

 それでも、精霊ナハティガルの涙は本物の水とは違うから、零れた先から蒸発したように消えていく。


「ごめんね、アルス。ボクが油断したから」


 えぐえぐと喉を鳴らしている。


「素直なナハなんて不気味……」

「えっ、ひっど!」

「ナハも無事でよかった。でも、あの後何が起こったんだろうな?」


 アルスが立ち上がって部屋の中を覗いてみても、ベーレント親子は誰一人としていない。あの状況からどこへ消えたのだろう。


「考えられることとしては、儀式が失敗したんじゃないかなぁ?」

「自滅したってことか?」

「タブン」


 それなら、自業自得だ。

 そうであればいいと思われても仕方がないだろう。文句は受けつけない。


「エンテは?」

「ラザファムのトコ」

「そうだ、ノーラたちも逃がさないと」

「アルス、どこも痛くない? 大丈夫?」


 いつも以上にナハティガルが心配そうだった。アルスの守護精霊であるナハティガルだから、アルスを危機にさらしたことを気に病んでいるらしい。


「大丈夫だ。どこも痛くないし、なんともない」


 笑ってみせると、ナハティガルはやっと安心したようだった。アルスの肩でぴょんぴょんと飛び跳ねている。


「よかったぁ!」


 強がりでもなんでもなく、疲れはあるものの体に異常は感じてはいなかった。この程度で済んだことに安堵する。


「ナハが私を部屋の外へ運んでくれたのか?」


 アルスが気を失ったのは祭壇のそばだった。

 けれど、ナハティガルは首を傾げる。


「違うけど? アルスが自力で這って出たんじゃないの?」

「そうだったかな? 覚えてないけど」


 自力で出たのだろうか。覚えていないけれど、絶対にないとも言えなかった。

 アルスとナハティガルがラザファムの入れられた牢の前まで来ると、エンテが鍵を開けたらしく、ラザファムが牢から出てきた。


「ラザファム!」


 アルスが声をかけて駆け寄ると、ラザファムはいつになく弱々しく顔を歪めた。


「アルス様……っ」


 そして、アルスが駆け寄ったところでラザファムは体を傾けた。鉄格子にガシャン、とぶつかる。


「だ、大丈夫か?」


 それに答えたのは当人ではなく、蛇の姿のエンテである。


「強い薬を盛られているので、まだ効力が抜けていません」

「そうなのか」


 ラザファムは座り込むと、ハッ、ハッ、と浅く呼吸を繰り返し、汗を滲ませている。苦しそうだ。


「すぐに持ち直します。すみません」


 ナハティガルはエンテに向けてポソッとつぶやく。


「運んであげなよ」


 しかし、エンテはラザファムの隣で細長い体をくねらせているだけだった。


「残念ながら、私は消耗が激しい。お前が運んでやれ」

「ボクも疲れてるモン!」

「お前の方が後から捕まっただろうっ」

「エンテってば細かいなぁ!」


 確かにエンテもナハティガルも消耗しているせいか、ちょっと縮んでいる気はする。

 押しつけ合う精霊たちに呆れつつ、アルスはラザファムの隣に膝を突き、腕の下に体を滑り込ませた。


 ラザファムがぎょっと身じろぎしたが、本調子ではないこともありアルスの腕から逃れられなかった。


「ほら、行こう。立てるな?」


 さすがに支えるのが精いっぱいで、抱きかかえるのは無理だ。


「一人で立てます」

「嘘つけ」

「…………」


 ラザファムは恥ずかしそうに黙った。アルスはなんとなく勝ち誇った気分だった。


「そこのオツカレな精霊たち。とにかく、隣の牢の鍵も開けてくれ」

「精霊使いが荒いっ」


 ナハティガルはぼやいたが、渋々飛んでいって鍵を開けてきた。エンテはというと、本気で駄目なのかもしれない。いつの間にかラザファムの腕に巻きついて運ばれていた。


 牢の鍵が開いたことに中の女性たちは気づいていなかった。何かが起こっているのはわかったはずだが、奥で縮こまっている。


「もう出られるぞ。今のうちに逃げよう」


 声をかけると、女性たちはわっと声を上げて泣き出した。


「エルナさんっ?」


 ノーラがアルスに気づき、目を見張っている。


「うん。ノーラ、無事でよかった」


 ノーラは牢へ入れられて日が浅い。他の女性たちよりは元気だった。

 甲斐甲斐しく他の女性たちを促し、屋敷の外へと導いていく。

 地下から女性たちが続々と出てきた時、屋敷の使用人たちは驚愕していた。


「い、一体何が……旦那様はっ?」


 この時、ラザファムが青い顔をしながらも執事に向けて厳しく言い放つ。


「皆、地下に閉じ込められていた。僕自身も薬を盛られた。このことは然るべきところへ報告する。追って沙汰が決まるだろう」

「そ、そんな! 私たちは何も知りません!」

「それならそう申し開きをするがいい。彼女たちを妨げず家に帰せ」


 女性たちは安堵で泣き崩れていた。屋敷の外まで彼女たちを連れていく。

 いつの間にか空が白んでいた。


「朝だぁ」


 ナハティガルが呆然とつぶやいた。

 早朝ではあるが、この方が動きやすいかもしれない。

 女性たちの家がそれぞれどの辺りなのかはわからないが、この町に留まるつもりはないだろう。


 アルスはリュックの中から金貨を取り出し、女性一人ずつに握らせた。


「これで馬車に乗るなりして帰れ。達者でな」


 皆、戸惑っていた。

 もしかすると、そのうちの何人かはアルスの正体に気がついたのかもしれない。

 涙ぐんで拝むような仕草で金貨を受け取った。


 最後に残ったのはノーラだ。金貨を受け取ろうとしない。


「わたしは隣の村だから平気よ。エルナさん、本当にありがとう」

「いや、最初に助けてもらったのは私の方だからな」


 一宿一飯の恩はこれで返せただろうか。

 ノーラはあんなことの後だとは思えないほど朗らかに笑った。


「ところでその方がエルナさんの婚約者?」


 肩を貸したままでいるラザファムのことを言うのだろう。

 アルスは笑顔で否定した。


「いんや、全然違う。これは友人だ」

「そうなの? お似合いに見えるのに」


 少しも嬉しくないことを言われた。

 ラザファムは眉間に皺を寄せている。こいつも失礼だ。


「じゃあ、急いでいるからもう行く。いくら隣でも絶対に一人で歩いて帰っちゃ駄目だ。馬車を使うんだ」


 ノーラの手に無理やり金貨を握らせ、それからアルスは大きく手を振って道端で別れた。

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