18◇贄
アルステーデ姫は祭壇に寄りかかり、気を失った。
イングベルトが近づいてぐったりとしたアルステーデ姫を抱え、祭壇の上に仰向けに寝かせる。そして、精霊の入った瓶を姫の横に添えた。
その様子を、弟は黙って見ている。
フリートヘルムは幼い頃から薄暗い研究が好きで、魔書ばかり読んでいた。
イングベルトはそんな弟を馬鹿にしていたが、今になってその弟が、当家が魔族から奴隷扱いされずに取り立てられる要因となった。
今はイングベルトも素直に弟を見直している。
「生贄にするには勿体ない気もするけど、仕方ないな」
眠っていても、アルステーデ姫はなかなかの美少女だ。
けれど、若い娘の美しさに心動かされないのか、フリートヘルムはかぶりを振る。
「精霊に護られるレムクール王族だ。魔族にとっては上等の捧げものだよ」
「クルーガーのヤツ、目覚めた時にどうするかな?」
あの精霊術師は、昔からこの姫とその婚約者について回っていた。友人だというが、本当のところは姫に横恋慕していたと見ている。
愛しい姫が魔族の手に落ちたと知った時、彼はどうするのだろうか。
イングベルトは彼の絶望を想像しただけで心が躍った。
やはり彼を生かしておいてよかった。
「さあ、始めようじゃないか」
父が息子たちに促す。
フリートヘルムも血の気の薄い顔を興奮でうっすらと染めていた。
それぞれにうなずき合い、祭壇の三方を囲んだ。
地下室に厳かな雰囲気が漂った。
「――我はフリートヘルム・ベーレント。これより魔の国ラントエンゲの王へと贄を捧ぐ」
フリートヘルムの声が静かな部屋に響く。
この部屋の中にいるのは、気を失ったアルステーデ姫と自分たち親子三人だけであった。そのはずだった。
それなのに、見知らぬ男の声がした。
「贄とは機嫌を取るために捧げるものだろう? その姫は贄には向かない」
見知らぬ――違う。この声を知っている。
年齢に見合わぬ、落ち着き払ったこの声は。
皆が一斉に声のした方へ目を向けた。
そこにいたのは、黒衣に黒髪の青年だった。
均整の取れた体を漆黒の外套で包んでいる。雰囲気こそ違えど、その顔立ちにはやはり見覚えがあった。
最後に見かけてから幾分成長し、逞しさを備えたが、同時に禍々しさも纏っている。それは、フリートヘルムが小物に見えるほどに。
「お、お前は……」
フリートヘルムが言葉を失った。
この閉じられた地下室へどのようにして侵入したものか、誰にもわからなかった。
黒衣の青年は祭壇の上の姫に目を向け、それから底冷えする視線をフリートヘルムに向けた。
「言い訳は聞かない。許しもしないから」
この時、イングベルトは言い表すには難しいなんらかの違和感を覚えていた。自分の頭の中でキチキチと音が鳴っているようで、それが気になって仕方がなかった。
キチキチ、キチキチ、おかしな音がする。
なんの音だかわからない。
だからこそ、余計に気になる。
そして、急に指輪が指から抜けて床に滑り落ちてハッとした。
あの指輪は大事なものだ。すぐに拾わないと。
それなのに、伸ばした手は人の形をしていなかった。
まるで虫のような、節の目立つ手がそこにある。
悲鳴を上げたけれど、キチキチ、としか鳴らなかった。
父も弟も、もはや人ではなかったのかもしれない。
◆
「――まったく、どうしてこんなことになるんだか」
黒衣の青年がぼやくと、床を這っていた
「助かった、シュランゲ」
「いえ。クラウス様、これがアルステーデ姫ですか?」
腕を伝い、肩に乗ると蜥蜴は言った。
クラウスはふわりと笑ってみせる。
「ああ、可愛いだろう?」
「ワタシに人の美醜はわかりません」
それを聞き、クラウスは苦笑した。
髪は黒く染まり、肌も青白さを増したとはいえ、その表情は彼を知る者が見れば以前と少しも変わりないと言っただろう。
クラウスは祭壇へと近づき、アルスの銀髪を払う。
その首筋に小さい蜘蛛のような虫がいた。クラウスはその虫をつまむと、憎々しげに床に放って踏み潰した。
そして、アルスの首についた針で刺したほどの小さな傷を指先で撫でる。
この
疲労感はあれど目を覚ませば大丈夫だろう。
クラウスはアルスを横抱きに抱え上げた。
ほんの一瞬、人の色を残した瞳が揺れる。
「この姫が愛しいのなら、このまま連れ去ってしまえばよいのではありませんか?」
横顔に投げかけられたその言葉は、クラウスにとってとても甘美な誘惑だった。
そうしたい衝動と戦う。常に、戦い続けている。
「そんなわけにはいかない。離れて護ると決めたんだ」
アルスの重みとぬくもりが離れがたい気持ちにさせる。
それでも、クラウスはアルスとの別れをすでに決断したのだ。アルスのために。
「この姫のために、あなたは魔王様の後継者になると仰るのですね?」
「そうだ。魔王になりさえすれば魔族を統率できる。そうしたら、魔族によるレムクール王国への侵攻を止めることができる」
このまま精霊王の力が弱まっていくとしたら、それだけが国とアルスを護る唯一の道と言えた。
アルスとは二度と会えない、その覚悟が必要だとしても。
「まあ、魔族のお前にこんな話はすべきじゃないが」
クラウスがクスリと声を立てて笑うと、シュランゲは一度瞬いた。目を閉じると、闇に紛れすぎて目がどこにあるのかわからなくなる。
「私はあなた様に仕えることに喜びを感じております。どうぞ、裏切りは魔族の特性だなどと思わずに頂きたい」
「ありがとう。どうしても俺の祖国を、かつてのレクラム王国のように滅びさせるわけにはいかないんだ」
「レクラム……。すでに懐かしい響きです」
あの時、魔族と遭遇し、アルスを助ける条件としてクラウスは魔の国へ向かうことになった。
ただ、それによって世界の実情を知ったとも言える。
だからこそ、後は自発的にノルデンから魔の国へと渡ったのだ。
そんなクラウスの覚悟など知らず、アルスは安全な城をクラウスのために飛び出してしまった。それを知ったクラウスは、魔の国にありながら低級な魔族を従えて情報を集め、密かに見守っていた。
魔術を学び、未だシュランゲの補佐を必要とはするが、魔の気配の濃い場所なら空間を歪めて移動することもできるようになった。
精霊王の力が強ければこんなことはできないという理屈も今ならわかる。
――アルスにはもう、触れるつもりはなかったのに。
中途半端に触れたら、苦しみは増すのだから。
クラウスは抱き上げたアルスを一度だけ胸に押し当てて目を閉じた。
アルスが目覚める前に去らなくてはならない。
「俺はノルデンにはいないから、俺のことは追ってこないでくれ。どうか幸せに」
眠ったままのアルスを部屋の外の壁にもたれかけさせた後、クラウスはナハティガルたちの入った瓶を床に叩きつけて割った。二体の精霊はまだぐったりしていたけれど、無事なのは確かだ。
クラウスはシュランゲに合図し、自分が魔術でつけた道筋を辿るようにその場から去った。
そこにはもう、彼らがいた痕跡は何もなかった。
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