6◇南下
ナハティガルも外へ出ているから、この時のアルスは本当に一人でポツンと座っていた。
背後で物音がしてようやく、ここが他人の家であったことを思い出す。
戸口に立っていたコルトの顔色はよいとは言えないけれど、立てるのなら熱は下がったのかもしれない。
他人が我が物顔で家の中にいるのだから困っているはずだ。アルスはまず、自分は怪しい者ではないと示すことにした。
「おはよう。具合はどうだ?」
コルトはこくりとうなずく。
具合はよくなったと受け取っていいのだろうか。アルスはとりあえずほっとした。
「私はエルナというんだ。旅の途中で倒れている君を見つけてここまで運んだ。私は怪しくないから安心してくれ」
微笑んでコルトに近づくと、コルトは真顔で首を振った。
「お姉さんの名前、アルスっていうんでしょ? 聞こえてたよ」
「……エルナっていうのも本当だ。名前、ふたつあるんだ」
先ほどのベルノルトとの会話を聞かれていたらしい。
しかし、相手は子供だ。ちゃんと言いくるめれば大丈夫――。
そんな甘い考えを見透かすように、コルトは半眼になった。
「アルステーデ・エルナ・フォン・ファステンバーグ姫殿下」
「…………」
よくそんな長い名前をスラスラ言えたものだ。アルスは自分の名前でなければ口にしたいとも思わない。
凍りついたアルスを相手に、コルトはさらに続けた。
「ちゃんと聞こえていたよ。昨日の晩からね。あのトリ、すっごいお喋りだね。もしかしてアレが守護精霊ってヤツなの?」
「う、うん」
「そうなんだ? 想像していたのと少し……いや、全然違うな」
レムクール王国内外に限らず、レムクール直系の王族が守護精霊を従えていることは知られている。
ただし、守護精霊は王族が人前に出る時は常に一定の姿ではない。これと特定されない形になってついてきているので、イメージはしにくいのだ。
大体の国民はナハティガルのような騒がしい鳥が守護精霊だとは思わないだろう。
「もしかして、うるさくて起こしたか?」
「ううん。しんどくて返事しなかっただけで意識はずっとあったから」
「あのさ、私のことはエルナって呼んでくれないか? それから、このことは村人には絶対言わないように」
「姫様って? うん、そのつもり。だから敬語も使ってないでしょ」
とても淡々と返してくる。コルトは子供にしては大人びていた。
「助かる」
安堵しつつ答えた時、騒がしい鳥が帰ってきた。
「ばば~ん!」
変な効果音を口ずさみながら。
扉を開けたのはラザファムだった。ナハティガルはその肩に乗っている。
アルスは顔をしかめた。
コルトに素性がバレたのは、うるさいナハティガルのせいだという意味を込めただけなのだが、ラザファムは自分に向けられたものと受け取ったのか、身じろぎした。
表情はいつもと変わらない。そんなにしょげているふうには見えなかった。
ナハティガルはコルトが起きていることに気づき、急に大人しい鳥のふりをし始めた。しきりに首を傾げて瞬きを繰り返しているのがわざとらしい。
アルスはラザファムが、先の不当な扱いへの怒りを爆発させる前にそっとコルトに顔を向け直した。
背中にラザファムの視線が刺さる。一度は叱られるだろうが、今のところ心の準備ができていないので、少しだけ先延ばしにしたかった。
「ええと、それで君はコルトって言うんだな?」
「うん。コルト・ニコライ、八歳」
八歳にしては小柄だ。もう少し小さいと思っていた。
ただ、中身は八歳よりもしっかりしているとも感じた。
「あのさ、倒れている時にノルデンってつぶやいたように聞こえたんだけど」
ずっとこれを聞きたかった。
コルトはなんでもないことのようにして、落ち着いてうなずいた。
「ノルデンへ行こうとしたんだ。でも、途中で雨に打たれたら具合が悪くなって。荷物は食べ物が入っていたから犬が持っていっちゃうし、散々だったよ」
「ノルデンなんて、子供が行くところじゃない」
ラザファムが家の扉を閉めてからそれを言った。
コルトはアルスには強気で話すのに、ラザファムには緊張しているように見えた。彼が取っつきにくい仏頂面だからだろう。
「で、でも、お父さんがそこにいるんです」
その発言にハッとした。
ノルデンへ送られたのなら、なんらかの罪状を持つ可能性がある。コルトの父は一体何をしたのだろう。
これを聞き、こんな小さな子供が具合を悪くしているのに、積極的に関わろうとしない村人たちの態度に納得した。何かがあったのだ。
ナハティガルは口を挟みたそうに身を乗り出し、けれど喋ったらただの鳥ではないと見破られてしまうので何も言えず、ラザファムの方の上でもどかしそうに足踏みしていた。
ナハティガルが言いたいことはアルスにもわかる。
「このナーエ村から北のノルデンを目指したのに、なんで村から南下していたんだ?」
けれど、これを指摘された途端にコルトは目を大きく見張り動かなくなった。心なし震えている。
「な、南下?」
「うん。逆方向」
「そ、そんな……」
この年なら、多分まだ村から外に出たことがなかったのだろう。北も南もよくわかっていなかったらしい。
「行けなくてよかったんだ。子供の足で歩いていけるところじゃない」
ラザファムがそう言うのは仕方のないことだとして、それでもアルスまで言い聞かされているようで嫌だった。
「で、でも、僕は――っ」
コルトは自分の努力がまったくもって無意味だったことに傷ついたのか、急にその場にへたり込んでしまった。やはり昨日の今日ではそこまで体力が回復していないのだ。
ラザファムがサッとアルスを通り越し、コルトを抱き上げた。アルスが運ぶよりは安定しているだろう。寝室のベッドの上にコルトを横たえると、ナハティガルが様子を見るように枕元に下りた。
そうしたら、コルトは急にナハティガルの尾羽をギュウッと握った。
悲鳴を上げそうになったのを堪えたナハティガルの顔が面白い。そこでラザファムが言った。
「ナハ、彼のことをしばらく見ていてくれ。僕は少しアルス様に話があるから」
「えっ、そっ、うぇえ?」
「頼む」
尾羽が抜けないらしく、ナハティガルは苦戦していた。
アルスが代わってコルトについていてやりたい。だから代わりにナハティガルがラザファムの説教を受けてほしかった。
しかし、逃げ回っていても仕方がない。アルスは渋々諦めた。
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