16◇浄化

 アルスの横から手が伸び、口を塞がれた。肩にラザファムの体が密着する。


「吸わないでください」


 ラザファム自身も口を押えているのか、耳元でくぐもった声がする。

 あの粉を吸い込んだらどうなるのだろう。死にはしないとしても、体が痺れるか、意識が遠のくか、なんらかの効果があるはずだ。

 アルスが軽くうなずいた時、治療師は隙を突いて逃げ出した。


 表へ逃げるのではなく、裏手へ。あの薄暗い庭へと逃げる。

 アルスがラザファムの腕をすり抜けて後を追うと、遅れてラザファムもついてきた。


「あー! ちょっと待ってぇっ!」


 ナハティガルが上の方で騒いでいるけれど、今はアルスよりも赤ん坊を護ってほしかった。

 治療師が通った通りに走り、扉を抜けて庭に飛び出す。


 そこにいたのは、治療師だけではなかった。

 もう一人、見知らぬ人物がいたのだ。


 セイファート教団の白衣を身にまとっている。この人物が庭を浄化に来たとされる教団関係者だろうか。

 まだ残っているとは思わなかった。


 トラウゴット草の中に立つその人物はアルスたちを見遣ると、すっぽりと頭から被っていた白衣を一瞬で脱ぎ捨てた。

 その下から出てきたのは、対極をなす色――。

 黒衣、黒髪の男。白皙の美しい顔立ち。


 しかし、その顔に生気はない。魔族かと思った。

 アルスが過去に出会った人型の魔族を髣髴とさせるところがあったのだ。それでも、どこか違うとも思う。


 肌の色は白いが、魔族ほど青さを帯びてはいない。とはいえ、髪も瞳も黒く――そう、話に聞いたクラウスの状態と同じなのではないかと思えた。


 少なくとも、セイファート教団の関係者などではない。それだけは確かだ。

 青年は背中まで届くまっすぐな長い髪を揺らし、首を振った。


「赤ん坊は? 残念だが、上手くいかなかったらしい」


 声も薄暗がりの中で音楽的に響く。


「ロルフェス様、この者たちが邪魔立てを――」


 治療師は縋るように黒衣の青年に近づこうとするが、一面に生えているトラウゴット草がそれを阻んでいた。

 治療師はあの草の効力を知っているからこそ踏み込めないのだ。


「どうした?」

「い、いえ。トラウゴット草がこんなにも生えていると……」

「お前は精霊王に見切りをつけたのだろう?」

「しかし、私にはまだ耐性が――」


 治療師は振り返った。そこにはアルスとラザファムがいる。退路はない。


「さあ、おいで」


 ロルフェスと呼ばれた青年が手を差し出す。

 治療師は躊躇い、そして踏み出した。しかし――。

 少しも歩かないうちに治療師は体をよじってうずくまった。


「こ、これ以上はっ」


 はあ、はあ、と息を乱している。そこにナハティガルが飛んできた。


「うわぁお」


 それだけ言ってアルスの頭に乗った。

 ナハティガルが視界に入ると、ロルフェスは顔を僅かにしかめた。

 そうして、ロルフェスは治療師に言い放つ。


「駄目だね。お前は長らく光に染まりすぎた。こちら側には来られない」

「そ、そんな……っ」

「トラウゴット草ごときでその様では、ラントエンゲの大気すら吸えないだろう」


 その言葉が聞こえたのかどうか、治療師はトラウゴット草の中に倒れた。この時、粉のようなものがバッと散ったように見えた。

 その向こう側から、ロルフェスがアルスを射るように見ていた。


「レムクール王族の姫か」


 それを言われたのは、ナハティガルのせいかもしれない。


「お前は誰だ? 一体ここで何をしている?」


 アルスは胸騒ぎを抱えながら問いかけた。


「それに答える義理はない」


 冷たい声が返った。この時、アルスは恐怖を感じていた。

 あの時の、クラウスと共に魔族と遭遇した過去を思い出している。まったく歯が立たず、完全な敗北を喫した。


 ナハティガルがいても、ナハティガルも万能ではない。ラザファムも巻き込むかもしれない。

 クラウスに続いてラザファムまで魔に染まったら、アルスはどうしていいのかわからなかった。


「ここであなたを守護精霊もろとも連れ去れたら、結構な点数稼ぎになるかもしれないな」


 それがどういう意味だか、アルスにはわからない。けれど、いい意味であるはずがなかった。

 この前と同じ、贄にでもされるのだろう。


 ラザファムがとっさにアルスを庇うように腕を伸ばした。それをロルフェスは鼻で笑う。


「でも、面倒だからやめておこう。と揉めると厄介だから」


 つぶやいて、ロルフェスは風と共に掻き消えた。

 そんなことができる人間などいないのだから、やはり魔族だ。それにしては人間臭さも持ち合わせていたような気もする。


 ロルフェスが去ると、アルスもドッと冷や汗が噴き出した。


「あ、あれはなんだったんだ?」

「わかりません。でも――」


 トラウゴット草の中で倒れている治療師が籠った咳をした。


「ラザファム、この草を放置しておくとどうなる?」

「人体に有害かと思われます。それから、繁殖力が強いので、ただ刈り取ったのでは無駄でしょう」

「じゃあ、どうしたらいい?」


 火を使って焼けばいいのだろうか。それでも安心できない気がした。

 ちゃんとしたセイファート教団の者を呼び、ここを清めてもらえばいいのかと思ったが、ただの人間よりも精霊の方がよっぽど浄化力はあるはずだ。


「ナハ、この草なんとかできないか?」

「できるけど、数が多いから、つらい……」

「頑張れ」

「さっきから頑張ってるし。ずっと頑張ってるし」


 ブツブツと言われた。

 ラザファムもトラウゴット草を見つめながらつぶやく。


「すでにヴィルトを呼んでいるので、今の僕では二体同時に精霊を呼ぶのは無理です」

「ナハ、ごめん。頑張れ」

「うぅっ」


 人使いの荒いアルスに、ナハティガルは恨みがましい目を向けながら飛び上がった。


「はーい、浄化ー!」


 光がキラキラと降り注ぎ、庭を光で染め上げる。やっていることはすごいのだが、ナハティガルはどこか緊張感に欠ける。

 そんなことを言ったらまた突かれるが。


 トラウゴット草は、ナハティガルの光を受けて徐々に萎んでいく。そんな光景を眺めつつ、ラザファムは言った。


「ナハの浄化力はすごいですね。意外です」

「音痴だけどな。取柄のひとつくらいはあるさ」


 二人して褒めてない、とナハティガルは怒ったかもしれないが、幸いなことに聞こえていなかったらしい。

 さすがに疲れたようで、アルスの手元にぽてん、と落ちてきた。


「よくやったな」


 そう言ってアルスがナハティガルを撫でると、ナハティガルはぶふぅ、と変な声を上げて寝た。

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