2章
1◇すべては世界のために
レムクール王国の東にはレプシウス帝国という皇帝の治める国が存在する。
世界で最古の国、レムクール王国の五代目の王が、重用していた家臣の一人に領地を与えたのが始まりとされている、比較的に新しい国である。
最初はレプシウス大公国といったが、互いの国が代替わりするうちに関係は蜜月とは言い難くなり、レプシウスは帝国と名乗り始め、レムクール王国とは最早対等であると宣言した。
一時、それが揉め事に発展しそうにな雰囲気になりつつも、時が経つごとに人は皆、精霊王の恩恵によって生かされる同胞であるとして互いに歩み寄った。
結局のところ、
今もレプシウス帝国は表向き、レムクール王国と友好国ではある。ただし、互いに腹の探り合いをしていると言えなくはなかった。
彼の国の現皇帝は、ディートリヒ・オルロープ。
トルデリーゼは表立って敵対するつもりもないが、隙を見せるつもりもなかった。
レムクール王国は今、王妹アルステーデの出奔という秘密を抱えている。そんな時でもレプシウス皇帝が来訪するとあらば断わるわけには行かなかった。
女王トルデリーゼは、夫君ベルノルトと共に澄まし顔で皇帝ディートリヒを王城へ迎え入れるのだった。
他の家臣は交えず、ディートリヒも懐刀の武人を一人連れているだけで、たった四人が窓の大きな室内で空の青さを眺めていた。
ディートリヒは三十代半ば。
両手で数えきれないほどの妃妾を持つ身ではある。
「久方ぶりだが、女王は相変わらず美しいな」
精悍な顔立ちに鋭い目、逞しい長身。それが意匠を凝らした装いで飾り立てているのだから、気圧されないではないけれど、トルデリーゼも王だ。それを認めるつもりはない。
ゆったりと微笑んでみせる。
「ご壮健のようで何よりです。またこうしてお会いできて光栄ですわ」
社交辞令を述べる女王の手を取り、ディートリヒは長し目をくれた。ベルノルトの顔の筋肉が僅かに痙攣している。
「貴女が女王でなければ我が妻に迎えたいところだが、仕方がない。どちらかの妹を寄越してくれたらそれで十分だ」
「あら、どちらも他国へは嫁がせませんと申しましたでしょう? わたくしが寂しいので」
フフ、と笑ってみせる。それというのも、これがディートリヒ流の冗談だとわかっているからだ。
「それは残念だ。まあ、顔くらい見せてもいいだろう? あのお転婆姫とわがまま姫はどうしている?」
「二人とも元気にしておりますわ」
アルステーデに至っては、それこそ城を飛び出すほど元気である。
「ところで、わたくしの妹たちのご機嫌窺いにいらっしゃったわけではございませんでしょう? 何か仰りたいことがおありで、しかもそれが切り出しにくいことだからこそ、軽口で和ませてくださっているように思えてなりませんわ」
トルデリーゼが苦笑すると、ディートリヒは鋭い目つきをほんの少し和らげ、ゆったりとしたソファーに深く身を沈めた。
「さすがと言うべきかな。まあ、先延ばしにしても仕方がないので言うがな、
「まあ……」
「ここ一年で我が国内で魔族が現れた件数が増え続けている。その中には人型の魔族もいた」
レプシウス帝国は、レムクール王国と同じほどに精霊の庇護を受けているわけではなかった。
レプシウス帝国だけではない。レムクール王国だけが特別なのだ。
〈原初の人〉とされる直系のレムクール王族だけが精霊から特別な扱いを受ける。精霊術師だけは血筋でなるものではないのだが、ベルノルトを除けば他国にいると聞いたことはなかった。
精霊王を祀るセイファート教は世界のどの国でも信仰されているが、その度合いや信仰心は各国様々である。すべてが同じということはない。
「ええ、我が国も同じです。二年前、人型の魔族が現れてからというもの、たびたび事例が報告されています」
「ピゼンデル共和国もらしいぞ」
その国名に、ベルノルトは眉を顰めた。
ピゼンデル共和国――共和国となったのはここ十年程度のこと。
以前、ピゼンデル王国であったその国は、ベルノルトの祖国であったレクラム王国に攻め入ったのだ。
ピゼンデルの言い分によると、レクラムの民は魔に侵されていたと言う。攻め入ったのはピゼンデル側ではなく、レクラムが
「あんな国は滅びればいい」
今となっては穏やかな夫が、ピゼンデルの名を聞くだけでまなじりを吊り上げる。
トルデリーゼは、ベルノルトが心に受けた傷を思って顔を曇らせた。
何が真実か。
滅ぼされた国の言い分は聞けない。レクラムの誰も真相など語れないのだ。
「攻め入られた時、貴君はまだ物心もつかぬ幼子だったのだろう? 祖国を奪った相手は憎かろうが、親の顔も覚えてはいないのではないのか?」
事実そうだとしても、それを他人が口にしていいとは思わない。
だから許してやれとでも言われたら、トルデリーゼでもこの男を叩き出してやりたい衝動に駆られるだろう。
「――あの日の、人々の慟哭だけが耳に残っている。その嘆きは民の声だ。私が生涯忘れることはない」
憎しみが消える日はきっと来ないのだ。
ベルノルトは殺されずに捕らえられたが、生かされたのは幼かった彼だけだった。ベルノルトは戦利品のひとつでしかなかったのだと、自らをそう語る。
「まあ、ピゼンデルの王族も絶えたのだから、報いは受けたと言えようが」
ピゼンデルがレクラム王国に行った仕打ちに怒った諸外国は、ピゼンデルを非難し、そっぽを向いた。
レクラム侵攻を諸外国に責め立てられ、見放された後、衰退の兆しを見せ始めた国でクーデターが起こった。
その内乱が落ち着いたのが約十年前。ピゼンデルの王族は討たれ、民間から代表が選ばれる共和国となった。
だからこそ、ピゼンデルの王族が愛玩動物のように檻に入れて飼い殺しにしていたベルノルトは外へ出されることになったのだ。憎悪を滾らせた少年を国内に置いておきたくなかったというだけのことだったかもしれない。
ベルノルトはレムクール王国へ譲られた。だからこそ、トルデリーゼと出会えたのだけれど。
ピゼンデル共和国にとって、奴隷に堕ちていたベルノルトが王配になるなど予測もつかなかったはずだ。
友好の証として毛色の珍しい奴隷を送ったつもりだったのだろうから。
今になってもレムクール王国はピゼンデルと距離を詰めることはなかった。
しかし、レプシウス帝国は別だ。共和国になった辺りから交流が再開している。それも今の皇帝、ディートリヒに代替わりした頃から特にだ。
レムクール王国で過ごし、穏やかな人となりとなったベルノルトだが、やはりピゼンデルの名が出ると顔つきを変えてしまう。
ディートリヒもベルノルトの出自を知っているから、普段は取り分けてピゼンデルを庇うようなことは言わないのだが。
「とにかく、魔族が以前よりもずっと力を持ち始めている。今に国内のことでさえ、うちの国だけでは対処できなくなるかもしれない」
トルデリーゼとベルノルトは顔を見合わせた。この皇帝が胸襟を開いて語るのは珍しい。
「そちらはどうなんだ? 精霊の加護さえあればなんの問題もないと言いきれるか?」
これを素直に語るわけには行かない。
精霊王を祀るセイファート教団は、空に太陽が昇る限り、精霊王の御力が翳ることはないと言うが、その言動のひとつひとつに時折違和感を覚えるようになったのはいつからだっただろう。
セイファート教団がそう言ったとしても、レクラム王族だったベルノルトは教団のしていることは紋切り型で無意味だと感じる。
教団が行う祈祷は、精霊王に届いていないのではないかと。
個々の精霊たちは何も知らないと答える。精霊たちは王であり親とも言える精霊王を信じるのみだ。
「今はまだ、なんとも申せませんが、魔族が力を持ち始めているということは認めざるを得ません」
トルデリーゼがそれを言うと、ディートリヒはうなずいた。
「エーレが危機に瀕しているとしたら、遺恨に囚われているばかりでは活路を見出せん。いざという時、人は協力し合わねば生き残れない、そんな時代だ」
その言葉は多分、ベルノルトに向けられていた。彼は無言で唇を嚙んでいた。
トルデリーゼも心が痛いけれど、ディートリヒが言うこともまた正しい。
すべては
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