7◇エルツェ村

 煙が細長く流れている。

 村が近いとわかり、アルスはほっとした。


 道しるべ通りのこちらの方向だとわかっていても、こんなふうに歩いて旅をしたことのないアルスには絶対の確信がないのだ。


「よかった。着いたな」

「着いたねぇ」


 日が落ちて辺りは薄暗く、村を囲む木戸を閉める直前だった。


「待ってくれ! 中に入りたいんだ」


 アルスが頼み込むと、番人は怪訝そうな顔をした。


「こんな時間に女一人でどうしたんだ?」


 ここは王都から近く、村という規模ではあるが人の通りは少なくない。ただ、馬や馬車を使えばここはただの通過点だ。馬に乗っていればさらにこの先の町まで行けただろう。

 女の足で歩いて旅をするのは珍しいのかもしれない。この番兵の反応を見てそう思った。


「仲間に遅れていて、追いつくつもりだったんだが、今日はもう遅いから諦めてここで休みたい」


 まあ嘘だが。

 二十四、五歳ほどの番兵はふぅん、とつぶやいてアルスを見下ろした。


「剣を持っているし、冒険者みたいだな。こんな時間から宿に空きがあるかはわからないが」


 そこの心配はしていなかった。村に着けば宿があるとだけ考えていたのだ。

 ついでに言うと、アルスの手持ちは宝石や金貨――それも何かの記念の年に特別に発行された記念硬貨だったりする。両替する隙はなかったのだ。この村に換金所はあるだろうか。


 旅をするにはまだいろいろと問題があるようだが、今日は村の中に入るだけでも完全なる野宿よりはマシだ。


「空き、あるといいな……」


 アルスがポツリとつぶやくと、番兵は頭を掻きながら言った。


「うーん、もしどうしてもなかったら、俺の両親と妹のいる家に頼んでやろうか?」

「ああ、助かる」

「じゃあ、しばらく待ってるから、宿を見てこいよ」


 番兵は平凡な顔立ちの平凡な男だったが、とても親切だった。

 アルスの正体に気づいているふうでもない。


「アルスって、案外国民に知られてないんだね」


 ナハティガルが肩でこっそりと言った。


「国民は淑やかな私しか知らないからな」

「アルスが淑やかだった瞬間なんて、生まれてから一度でもあったの?」


 守護精霊の余計な発言を聞き流し、アルスはすぐそこにあった宿の看板がある建物を目指した。

 ただ、そこは本当に小さな建物で、こんなに小さくては部屋数も少なく、すぐにいっぱいになってしまうのも当然だと思えた。


 賑やかな声が聞こえるその扉を開く。すると、持ち手を起用に指に通し、両手でジョッキを八個ほど持った女性がアルスに目を留めた。


「ああ、いらっしゃい!」

「ここの宿に空き部屋はあるだろうか?」

「悪いね、今日はもういっぱいだよ。食事くらいなら出せるけど」

「宿はここだけか?」

「小さな村だからね。ここだけさ」

「わかった。ありがとう」


 そっと扉を閉じた。

 宿は常に空いていない。アルスがまず学んだことである。

 あの番兵のところに戻った。


「空きがなかった。すまないが、頼めるだろうか?」

「わかった。俺はディーターだ。あんた、名前は?」

「エルナだ」


 エルナというのはミドルネームで、嘘ではない。偽名を名乗ることも考えたが、それだと呼ばれても気づけないのでこちらにした。


「エルナさんな。じゃあ、こっちだ」


 途中、簡単に説明してくれたのだが、ディーターは結婚して近くに住み、両親と妹が一緒に暮らしているのだそうだ。

 ディーターの子供がつい十日ほど前に生まれたばかりで、妻の体調もまだ万全ではないから、自宅ではなくそちらに頼むとのことだ。


「でも、ノーラ――妹は明日からデッセルの町の領主館へ奉公に上がるんだ」

「大事な時にすまないな」

「奉公に上がってもそれほど遠いわけじゃないし、節目には休暇がもらえる。それに、奉公は二年だから」


 二年したら村に戻ってくるのだろう。ここからなら王都も同じくらいの距離だが、人の多すぎる王都よりはデッセルの町の方が安心かもしれない。

 そんな話をしていると、すぐに着いた。


 庶民の暮らしとしてはごく普通の木造の家だ。

 壁には染みが多く、建てられてからそれなりの歳月が過ぎたのがわかるが、植えられた花壇の花が彩を添えている。


 先に入ったディーターが説明すると、中からアルスと同じ年頃の娘が出てきた。

 赤毛を三つ編みにした素朴な娘だ。


「初めまして、エルナさん。わたしはノーラって言います。泊るところがないそうで、うちでよければどうぞ」

「ありがとう。甘えてもいいかな?」

「ええ。お食事は済みました?」

「これからだけど」

「大したものはありませんけど、よかったらうちでどうぞ」


 にこりと優しく笑いかけてくれる。この子なら、どこへ奉公に上がっても大丈夫だろうと思えた。


「いいのか? ありがたいけど」

「さあ、入ってください」


 ノーラが中に招き入れてくれて、ディーターは手を振って去った。

 彼らの善良さが、女王あねの苦労の賜物だとしたら嬉しいとアルスはぼんやりと思った。


「女の子の一人旅ですって? それは大変なことだわ」


 ノーラの母はアルスを席に座らせ、目の前にパンを並べてくれた。ノーラはシチューとチーズを出してくれる。ノーラの父はワインを持ってきてくれた。


「一人じゃなくて、相棒がいるんだけど」


 肩のナハティガルに目を向けると、皆がそろって瞬きをした。


「可愛い相棒ね。ぬいぐるみ?」


 ノーラの発言に、ナハティガルが顎が外れそうなほどショックを受けていた。

 ナハティガルはなんにでも化けるけれど、青い鳥の姿を好んでいる。あれが自分なりにカッコイイと信じているのだ。

 それがぬいぐるみと。笑いたくなったが、耐えた。


「いや、ぬいぐるみじゃない。とても賑やかなんだ」


 本当に、とてもうるさい。

 ただ、その言葉の正しい意味は伝わらなくていい。ナハティガルは言い返せなくて鬱憤が溜まっているような目をした。


「そうなの? 人によく慣れているのね。それで、エルナさんはどこまで行く予定なの?」


 ノルデンまでだから、北へ向かう線上にはデッセルの町があり、明日はそこに到着するのが望ましい。


「北へ向かう途中だから、私も明日はデッセルの町に行くつもりだ」


 それを聞くと、ノーラは嬉しそうに手を合わせた。


「そうなの? それならわたしと一緒に行きましょうか?」


 一瞬、断ろうかと思った。

 けれど、今日のような男たちがいると、ノーラも危ないだろう。

 いかにこの国の王族とはいえ、一宿一飯の恩がある。ノーラの護衛のつもりで一緒に行こう。


「ああ、そうしよう」


 アルスが答えると、ナハティガルがふぃーっとため息をついたが、まあいい。

 ノーラと両親は喜んでくれた。


 ベッドが余分にあったわけではなく、アルスはソファーを倒して作った即席のベッドで休むことになったが、最悪野宿もあるかと覚悟していたことを思うと十分にありがたかった。


 もっと北へ進むと、町や村も減っていく。今後、そういう日もあるだろう。

 かといって、引き返す気はさらさらない。


「ぬいぐるみだって! この美しい羽根がぬいぐるみだって!」


 アルスの枕元で丸くなりながらナハティガルがぼやいていた。しつこい。

 眠たいアルスはあくび交じりにうんうん、とうなずいておいた。

 ナハティガルは不満そうにアルスの額に頭をグリグリと擦りつける。


「アルスさぁ、あんまり人に近づくと正体がバレちゃうよ?」

「わかっているけど、な」


 そうつぶやいてアルスはまぶたを閉じた。

 この先のことを考えると、無事に辿り着けるのか不安がないわけではない。それでも、なるべくクラウスのことを考えて気持ちを強くした。


 今頃、クラウスはどうしているのだろうか。

 もし、どうしようもない孤独を抱えているとしたら、その時間は今に終わると伝えたい。

 もう一度出会えたら、アルスは二度とクラウスを一人にはしないから。

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