幕間
トルト、大いに嘆く
その朝、赤い髪の青年は絵画工房に入ってもなお、目は虚ろであった。手は震え、視線こそ画板を捉えているものの、筆は線を引くのもおぼつかない。
そんな有様なので、見かねた同僚たちがトルトにこう声を掛けるまで、さほど時間はかからなかった。
「トルト……何があった?」
「な、なんでもねぇよ……」
「馬鹿言え、今日のお前はいつにも増して変だよ」
「いっ、いつにも増してって……!」
「なんだ? アネシュカのことで何かあったか?」
途端にトルトの表情が崩れる。見ればその緑の瞳には涙が溜まっている。二十七歳の大の男が何を、と普段の彼らなら叱り飛ばすところだが、工房の仲間たちはため息をつきながら、ついにこの日が来たかとばかりに彼に憐れみの目を向けた。そして彼らのひとりが、躊躇いがちにこう問いかけた時、トルトの絶叫が工房に響き渡る。
「あいつがついに来たのか? アネシュカを迎えに」
堪らずトルトが吠える。そしてひとしきり咆哮を放った後、彼はがくり、と画板の前に肩を落として、おいおいと泣き出した。
「……今日さ、いつものように、朝、迎えに行ったわけ。うん……嫌な予感はしたんだ。なかなか返事がなかったから」
「お、おう。それで?」
「そしたら! 扉を開けたの、あいつだったんだよ! 忘れもしない、あのマリアドルのおっかねえおっさん! それから、呆然とした俺にこう言いやがったんだよ。『アネシュカは今日ちょっと身体が辛いだろうから、仕事は欠勤させてくれ』って! しかも、上着がはだけたままの格好でだよ!」
「……なるほど。それで?」
「どうもこうも、しょうがねぇだろ! そのまま引き下がって帰ってきたよ!」
「何も言い返さずに?」
「言い返せるかよ! あいつの怖さは十年経っても忘れられねぇもん! 下手なこと言ったら、斬られちまうよ!」
それだけ叫ぶとトルトは今度はうわーんと声すら上げて画板の上に突っ伏して泣き出した。工房の一同はそんな彼に呆れ顔半分、同情顔半分、といったところである。
それもそうだ、彼らはこの十年というもの、トルトがどれほどアネシュカに「ご執心」だったか、よーく知っていたから。
そもそも今もって工房の唯一の女性絵師であるアネシュカに下心を持つ男は、工房の内外を問わず多かった。それは二十歳を超えて、彼女に持って生まれた天真爛漫さに色気が見え隠れし始めたこの五年間は特に顕著だった。
だが、結局、アネシュカに手を出す男は皆無だったのだ。それは、アネシュカが兼ねてから、あの残虐ぶりを今も語り継がれる元チェルデ総督を、ずっと待っていることを公言していたからだけではない。
この十年、アネシュカに「悪い虫」がつかないように、常に側で目を光らせていたトルトの存在あってこそだった。
さらに付け加えれば、いつか彼女が振り向いてくれるとばかりにアネシュカの世話を焼く彼を不憫に思い、工房の男たちはいつのまにかにトルトを密かに応援さえしていたのだ。
しかしながら、その思いは遂に叶わず、アネシュカはとうとうあのマリアドル人と添い遂げてしまった。
これは、トルトならず、トリンの絵画工房の全員に衝撃を与える一大事であった。
「あーっ! アネシュカのことをこの十年思い続けていたのは、あいつだけじゃねぇ! 俺もだよ! ……ってか、この十年ずっと、あいつを守っていたのは、俺じゃねーか!」
「ま、まあ、その甲斐あって、アネシュカの貞操は守られたようなもんだからな、……お前はよくやったよ……」
「……でもそれはあいつに、アネシュカをやるためじゃねーっつの!」
工房に響き渡るトルトの慟哭に、その場に居合わせた男たちは揃ってまた、ため息を吐いた。そして誰からともなく、その場に筆を置き、広げた画材を片付け始める。
やがて、画板に赤い髪を沈めたままのトルトに、工房の長を務める男が声をかけた。
「ほら、トルト。飲みに行くぞ、いい加減顔を上げろ」
「……へ? 仕事は……?」
「今日は俺らもそんな気分になれねぇよ。さっさと城外の酒場に行こう。飲み代は工房費から出しても、今日ばかりは許されるだろうよ」
トルトは長に引っ張られるままに、よろよろと立ち上がる。しかし立ち上がりながらも、彼の口からは嗚咽がなおも漏れて止まぬのだ。
「うわーっ! アネシュカ! 俺の青春、返せっ……!」
その夏の日の王都トリンの酒場では、数軒の店を梯子しながら飲んだくれる絵師たちの姿が、昼から多数観測されたとされる。
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