第四十一話 軛から解き放たれるとき

 男ふたりの影が山荘の一室を跳躍する。汗と荒い息が跳ねる。

 窓から差す陽光のなか、ふたつの残像が床と壁を掠める。


 マジーグは壁を強く蹴りつけた。そしてその反動でタラムの喉に長剣を翳すべく、腕を旋回させる。だが、タラムは弟子が踏み込んできたところへと腕を伸ばし、マジーグの黒い上衣をぐい、と掴むとすかさず自分の方へ引き寄せる。同時に短剣が唸りをあげた。


 マジーグは間一髪でタラムの手を振り払い、刃から逃れたが、それでも軍服の左胸部分は、見事に切裂かれている。弟子の動きを、完璧に見切っていたからこその動きだった。


「脇が甘いですな!」


 タラムが舌で乾いた唇をぺろり、と舐めながら、再び間合いを取って身を離したマジーグを見て、語を放った。


「あなたの昔からの悪い癖です、閣下……いや、昔のように名前で今は呼んだ方がよろしいですかね、エド」


 その口ぶりはマジーグを嬲るが如く、余裕綽々としている。呼吸は弾んでいるが、必要以上に荒げることもない。


 戦う相手を戦慄させずはにはいられない落ち着いた佇まいは、まさに自分が長きに渡り、師として仰いだ男だけのことはある。


 それでも、マジーグは、黒い双眼を光らせて、タラムの隙を突かんと窺っていた。


 ――奴は強い。しかしだ。奴の歳なら、いくらなんでも、そろそろ息が上がってくるはずだ。技量が敵わぬなら、俺はそこに勝機を賭けるしかない……!


 実際、タラムの動きは先ほどよりかは、鈍くなっているように思える。彼の白髪は汗でべったりと額に貼り付き、短剣を翳す腕の距離も、跳躍する範囲も、次第に狭まっている。


 しかしながら、油断は出来なかった。


 彼がそのように己の劣勢を見せかけておいて、一気に相手にとどめを刺す例を、マジーグはこの三十年というものの、嫌というほど目撃させられていたからだ。

 それは我が身を持っても、痛感している。若かりしタラムがまだ少年だったマジーグを指導する際にも、それはよくあったことだった。


 すると今度は、タラムの長い脚が風を切り、マジーグの脚を襲った。

 タラムの蹴りは確かにマジーグの腿を直撃し、不意を突かれたマジーグは体勢を崩し、よろめいた。


 その隙を逃さずタラムは今度はマジーグの腹に、足蹴を炸裂させる。


「……ぐっ……!」


 息が詰まる。腹部を走る激しい痛みに、脳が軋む。


 マジーグはたまらず、床にその長身を転げさせた。

 それでも剣を手放さなかったのは、マジーグの意地のなせるところだ。すかさず自分の上に馬乗りになったタラムが短剣を振り落としてきたが、マジーグはなんとか剣の柄で刃を弾き返すことができた。それでも、床に散っていた長い黒髪の数本かは、刃に削られて、はらはらと宙を舞った。


 互いの荒い息が互いの頬にかかる。ふたりの視線が至近距離で交差する。


 だが、すぐ傍で見交わすタラムの瞳は、命を賭けた戦いのなかにしては穏やかだ。マジーグには、それが怖い。少し気を抜けば、なにを考えているか分からぬその眼差しに怯え続けてきた長い月日のことへと、つい、意識が逸れてしまう。


 ――いかん!


 マジーグは剣を握っていない左腕に渾身の力を込めて、タラムの身体を押し戻した。その勢いのまま、横に身を転がして、タラムからなんとか身体を自由にし、そして身を起こし立ち上がる。

 腕と膝は疲労でがくがくと震えるが、歯を血が滲むほどにきつく食いしばり、それを堪える。


 見ればタラムも、ゆらり身体を揺らし、床の上に立ち上がるところであった。そうして、何度目かの師の攻撃が、またマジーグを間髪入れず襲う。白い刃が目前で激しく煌めいた。


 だが、マジーグは今度は、飛び退かなかった。

 ぐっ、とその場に思い切りよく脚を踏ん張る。そして、タラムを引きつける。

 己の運を天に賭けるかのように、突進してくるタラムの身体を、短剣を翳す腕を、自分の方へと、より近く引きつける。


 その刹那、ほんの、ほんの数秒だが、タラムの動きがぶれ、脇に隙が生じた。

 それまで決して防御を解かれることのなかった、タラムの軍服に包まれた左胸がマジーグの視界を掠めた。


 ――いまだ……!


 マジーグはそこに向かって、恐るべき速さで長剣を突き立てる。

 同時に、彼の口からは、知らず知らずのうちに獣のような咆哮が爆ぜていた。


 その叫びに、剣が肉を深く抉る音が重なり、宙を赤い霧が鮮やかに、舞った。


「さすが、私の一番弟子ですな……」


 師のちいさな声が、鼓膜を擽る。


 次の瞬間、マジーグの黒い目は、己の剣を胸に突かれたままのタラムが、白髪を乱しながら、ゆっくり床に崩れ落ちる姿を確かに捉えていた。



「いったい……なんなのだ! 俺は、タラム、お前がわからぬ! お前のすることといえば、いちいち回りくどくて、狡猾で!」


 どのくらいその場にマジーグは立ち尽くしていたのだろうか。


「俺には訳がわからぬ! 一生、訳がわからぬよ!」


 気がつけば彼は、足元に崩れ落ちた師に向かい、長い黒髪を振り乱しながら、そう喚き立てていた。


「そうだ、俺は辛かった……お前と出会ってからの三十年間、ずっと辛かった! 俺の命運を握り続けたお前が憎かったさ! 俺は、俺は、漆黒の悪鬼なんかじゃない、もっと静かに、穏やかに生きたかった……ずっと!」


 叫びながらも、マジーグには自分がわからなかった。


 なぜそんなことを、この期に及んで叫んでいるのか。しかも、自分がいま屠った相手に。しかしながら、喚き声は止まらなかった。


「だけど俺には……! なにも許されなかったんだ!」


 それは、焦りだったのだろうか。

 この場を逃したら、この憤りを爆ぜる相手が失せてしまうという。このときを逃したら、この気持ちは一生心に沈めて生きることになるのではなるのか、という。


「そうだ、好きに生きることだけではない、俺が殺した弟に詫びることすらも! それもこれも、タラム、お前に全ての命運を握られたせいで!」


 あとから考えれば、そうだったのかもしれない。

 だがこのとき、マジーグにはなぜ倒れたタラムにこんな言葉をぶつけているのかがわからなかった。そんな恨み言をいまここで言っても、三十年の年月は過ぎ去ってしまったのだ。失われた時が帰ることは、ない。


 ましてや命を奪った弟が甦ることなど、永遠にないのに。


 すると微かに足元の白い頭が、揺れた。血に塗れた白い髪が、さざめいた。

 そうして、ちいさな、掠れた声が耳を打つ。嗄れた、微かな言葉が、鼓膜を打つ。


「……それでいいのです。閣下、あなたは、運命に抗って生きて下さい。それは、私が、できなかったことですから。代わりに、あなたに叶えてもらえると思えば、私もここで、死ぬ意味を、見いだせます」

「……タラム……」

「私も、国も、超えてお行きなさい。苦渋の年月から、解き放たれなさい。そうしてこそあなたは……生きていける」


 タラムの血で汚れた剣を持つ手が、震える。死を前にしたかつての師から、副官から、放たれた思わぬ言葉に、心がどうしようもなく震える。


 マジーグは、そんなことをタラムにいまさら言われたくなかった。


 死ぬまで憎むつもりだった相手に、そんなことを言われたら、どうすればいいかわからなくなってしまう。


 しかし、タラムが動揺するかつての一番弟子に投げかける言葉は、まだ止まない。それどころかこんなことさえ言う。

 マジーグが聞くに耐えないようなことを、彼は、苦しい息の下で言う。


「あなたには永遠にわからないでしょうが……これが私のあなたへの愛し方です。幸せにおなりなさい、エド」

「ふざけるな!」


 もはや、我慢の限界だった。

 マジーグは黒い軍靴で床を思い切り蹴り飛ばした。黒衣が赤い血の飛沫が浴びた。


 浴びながら、声を限りに、叩きつける。このどうにもならない心の騒めきを。


「俺は死ぬまで、お前のことを、どうあっても理解などしてやらないからな!」


 対してタラムは赤黒く汚れた唇を、薄く笑いに歪ませるだけだ。


 そうしてから、彼は目を閉ざした。そして意識が閉ざされる最後のときに、これだけは告げねばということを口から、さりげなくさらり、零す。


「ああ……そうでした。ひとつ最期にお伝えすることがありましたな」


 もはや乾き切った喉から、言葉を繰り出すこともできないマジーグの前で、タラムは言った。


「あなたは、弟君を殺してはおりませんよ」


 マジーグの黒い双眼がかっ、と見開かれる。力の抜けた手から、ついに剣が離れ、床に落ちる。

 その転げた長剣の刃の先で、タラムは息絶えていた。



 マジーグは深く息を吸った。

 血生臭い空気を肺の奥まで吸い込んでは、吐く。それを数回繰り返すことで、荒ぶる心持ちをなんとか平常心へと揺り戻す。


 あまりにも思いもしない言葉を聞いてしまった後だから、どうしようもなく心の臓が跳ねる。しかしながら、いまはその動揺に身を任せているときではなかった。


「アネシュカを……、助けねば。やっと、彼女をこの手に取り戻せる。やっと、俺は自分の人生を取り戻せる……」


 マジーグはそう独り言つ。

 床に落ちた己の長剣を拾い、赤く汚れた刃をマントで拭う。そして、斃れたタラムの死骸には目を向けることなく、よろよろと部屋を出、廊下に歩を進める。タラムの言っていた「一番奥の部屋」を目指し進む。そこにはアネシュカがいるはずだ。


 廊下の突き当たりの部屋の扉には、鍵がかかっていた。

 しかし、マジーグは渾身の力を持って扉を二度三度と蹴り付ける。頑丈な木の扉ではあったが、マジーグの度重なる足蹴の衝撃には耐えきれず、やがて扉は軋みながら、向こう側に倒れる。


「エド!」


 響き渡る音の向こうに目をやれば、あれほどまでに恋焦がれたアネシュカがいた。


 いや、彼女だけではなかった。

 アネシュカの傍には黒髪を耳元だけ紫に染め、金と瑠璃石の耳飾りを揺らす若い男がいた。彼はマジーグを認めた途端に、目を吊り上げる。どうやら男は、マジーグのことを見知っているようであった。


 マジーグは部屋のなかへと進みながら、長剣をゆっくり男に向かって翳す。


「アネシュカから離れろ……」

「お前の言うことなど誰が聞くか……タラム様に気に入られているからって、いい気になるなよ……!」

「タラム……?」


 そこでマジーグは、若い男の正体にようやく気づく。

 なるほど、タラムが言っていた一番弟子とはこの男のことであったか、とひとり合点する。

 で、あるならば、サグに告げることはただひとつだ。


「奴は死んだぞ」


 マジーグの言葉に、サグの顔はわかりやすいほどに青ざめた。

 そして、呆然としたまま、喉から語を絞り出す。


「なんだって……」

「そうだ、いま、俺が殺した。そうとなれば、お前も終わりだ。諦めろ。諦めて、アネシュカから離れろ」


 このとき、マジーグはサグの心境を正しく理解していなかった。


 ――師が死したと告げれば、降伏するかもしれぬ。たとえ、それを拒んで自分に向かってくるとすれば、一思いに斬り捨てるだけだ。


 そう念じながら、マジーグはサグに剣を突きつけ、にじり寄る。


 ところが、サグはマジーグの思わぬ方向に暴発したのだった。サグは次にこう叫んで、懐に手を翳したのだ。


「だったら……! だったら殺してやる! 奪ってやる! お前からもこの女を、奪ってやる!」


 瞳を憎しみに燃やしたサグが胸元から差し出したのは、白い刃が煌めく短剣だった。そして、横にいたアネシュカの胸を狙って、鋭く刃を振り落とす。

 こう、絶叫しながら。


「奪ってやる! 大切な人間を亡くした痛みを、お前にも味わわせてやる!」


 そして、次にマジーグの耳に響き渡ったのは、アネシュカの悲鳴だったのだ。


「……やめてよ!……」


 もう少しというところで届かなかった、愛しい女の肢体の前で、血飛沫が舞うのを、マジーグは見た。

 反射的に腕は動き、マジーグの長剣はサグの背を貫いてはいた。

 だが、一瞬、ほんの一瞬だけ、サグの方が早かったのだった。


 

「……アネシュカ!」


 マジーグは一閃の元に斬り捨てたサグの身体を飛び越え、亜麻色の髪を血に濡らしたアネシュカに駆け寄る。

 慌てて抱き起こしてみれば、あの懐かしいペリドット色の瞳が、優しく瞬いた。

 そしてアネシュカが、気丈にも、口を開く。


「エド、会いたかった……」

「アネシュカ……、アネシュカ!」

「大丈夫、ちょっと手を斬られちゃっただけ。たいしたこと、ない」


 マジーグがアネシュカのその声に彼女の手に視線を向ければ、たしかに彼女の白い手が赤く塗れている。

 しかも、その手はサグの振り翳した短剣の刃をしっかと掴んでいるではないか。

 マジーグは呆然としながら、呻いた。


「アネシュカ……手で刃を……!」

「うん、だって、だって、守りたかったんだもん……!」

「守る……?」


 アネシュカの言葉の意味がわからず、マジーグは虚を突かれたように、血まみれのアネシュカの手を握りしめながら、言葉を鸚鵡のように繰り返す。

 そして、彼は、先ほど以上の衝撃を、次にアネシュカから明かされた言葉から受けるのだ。


「だって私……お腹に、あなたとの子どもが、いるんだもの!」


 突然の告白に、息を詰まらせ、口にすべき言葉を見失ってしまった男の前で、アネシュカは痛みなど忘れたような満面の笑みを閃かした。


「エド、だから、私にとってはこんなこと、なんでもないの。それに……私はまた、こうして、あなたに出会えたんだもの! こんな素敵なこと、ないわよ!」


 そして、万感の思いを込めてこう告げる。


「ねぇ、だから笑ってよ、エド。私も、笑ってるあなたがいちばん、好きなの」


 その声に突き動かされるように、マジーグの腕はアネシュカの肩に伸びる。

 そして、愛しい身体を激しく抱きしめる。

 アネシュカも、震える身体をマジーグの肩に預けて、寄り添う。


 黒と亜麻色の、二色の髪が、絡み合う。


 アネシュカとマジーグはそうして、互いの熱をしばしの間、ただ黙って確かめあった。離れていた間も胸を焦がしていた想いを、互いに伝え合うかのように。


 ひとつの彫像のように、身を重ね合わせて。

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天を描けど、光なお遠く ~チェルデ国絵画動乱記~ つるよしの @tsuru_yoshino

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