第四十話 帰結

「貴殿らはワイダ様をお探しせよ!」


 混乱する状況を目にして、マジーグはギルダムの将官に鋭く声を投げた。

 やがて、広間にも乱戦は及び、ハイサル以下の衛兵と、それを攻める兵が雪崩れ込んでくる。あっという間に山荘全体が戦闘状態に包まれたようであった。

 そしてなおもマジーグの鼓膜を打つのは、ガロシュ二世を讃え兵を鼓舞する、指揮官らしきの男の声だった。


 ――王都を離れ、ハイサル殿下の御身が手薄になったところを、軍に潜んでいたガロシュ陛下の勢力が動いたか。なかなかどうして、陛下の側も狡猾であるな!


 もはや、誰が味方で敵かわからぬ状態になっていた。いや、そもそも自分にとって、この場における敵味方とかいったい、誰なのか。

 迷いつつ、マジーグも腰に帯びていた長剣を鞘から抜き、机を飛び越え、広間から廊下に身を躍らせる。既にハイサルの姿はどこかに消え失せていた。


 ――ならば、俺は。


 マジーグは右手で剣を振るい、そして左手は胸元で揺れる瑠璃石を握りしめながら、思う。


 ――俺は、この山荘のどこかにいるはずのアネシュカを助けねば。戦いに巻き込まれたら、まずい。


 マジーグはかつて訪れたことのあるこの建物の構造を思い返す。たしか二階建てだったはずだ。 

 そして、ここ一階はこの広間以外に部屋らしい部屋はない。ならば、上の階を見て回るのが得策か。幸い、山荘のさらに奥にある階段の方向は、まだそれほど混戦に巻き込まれてはいなかった。


 マジーグはそちらに疾風の如く、駆ける。黒いマントと長髪が、焦げ臭い匂いが漂う空気のなかを、激しく躍る。そして一気に段を飛ばして階段を昇ると、二階の部屋の扉を手前から軍靴で、勢いよく蹴破る。正直、手間がかかって仕方ないとは思ったが、いまの彼にはそうとしか手がなかった。


「アネシュカ! どこだ! どこにいる!?」


 すると、木の扉を三枚蹴り倒した時分、聞き覚えのある嗄れた声が、荒ぶるマジーグの背を打った。

 その場に似合わぬ、静かな声だった。


「アネシュカなら、この階のいちばん奥の部屋におりますぞ、閣下」

「……タラム」

「閣下。殿下へのお言葉、二階まで聞こえましたぞ。なるほど、あなたはたしかに、生まれ変われたようですな」


 階下の喧騒が遠く聞こえる。

 そのなかで、軍服姿のタラムはまるで騒音など聞こえないとでも言うように、皺だらけの顔に穏やかな微笑みを刻み、立っていた。


「タラム……! そこを退け!」


 焦げ臭い匂いが、次第に空気を染め上げようとしていた。マジーグは途端に焦り出す心の臓を押さえながら、悠然と佇む元副官に怒声をぶつける。


 だが目の前の老いた男は、白い髪を揺らしながら、瞳を細めて自分を見つめ、こう笑うだけだ。


「ですが、まだ足りないようですな」

「お前はなんの話をしている!?」

「怒りの発露が、ですよ」


 思わぬタラムの台詞に、マジーグは息を飲み、そして黒い双眼を尖らせる。そんなかつての弟子を、タラムはどこか愛しいものでも眺めるかのように、見つめていた。


「あなたは昔から、どんなにご自身が理不尽な目に遭っても、怒らない子どもだった」


 そして、マジーグの顔から目を逸らさずに、彼は述べる。懐に手をさりげなく、伸ばしながら。


「ですが閣下、あなたはもっと、ご自身が蔑ろにされたことに、怒っていいのですよ。いや、そうするべきです。これまでの人生を清算し、決着をつけるべきなのです。アネシュカとともに、チェルデで生きる未来のために」


 タラムの口調は、マジーグの知る彼にしては、皮肉の響きがない。それでも、彼の胸元から音もなく光る白い刃が現れたのを認めたとき、マジーグの長剣を握った右手は、瞬時に構えの姿勢を取った。


 対するタラムも、愛用の短剣を宙に翳す。こう、言葉を紡ぎながら、ゆっくり、ゆっくりと。

 マジーグの喉に刃の狙いを確実に、定めながら。


「ですから、閣下。もう一仕事して、真に生まれ変わるがよろしい。さあ、怒りを爆ぜさせなさい。怒りのまま、私を倒してごらんなさい。長きに渡り、あなたの人生を蔑ろにし続けてきた、この……この私を!」


 次の瞬間、タラムの刃がマジーグの胴を襲った。その歳に似合わぬ俊敏さと、迷いのない突きに慄きながら、マジーグは咄嗟に身体を捩り、なんとか一撃を躱す。それを見て、老いた男はまた、意味ありげな薄い笑いを口に刻む。


 そして、タラムの白い髪が風を切り、マジーグの黒い髪が空を跳ねる。


 他に誰もいない山荘の一室のなか、元上官と副官、または師弟の男ふたりの死闘は、こうして幕を上げたのだった。



 ハイサルは、山荘の廊下を駆けていた。

 廊下の奥には、王族しか知らぬ非常時の脱出口がある。そこに向かって走りながら、脇を固めた数名の護衛の方をちら、と見、その数が広間を出たときよりも減っていることに遅まきながら気づく。叛逆者に討たれたのだろう。


 ハイサルは唇をちぎらんばかりに噛み締めながら、ぎりり、と紫色のローブの裾を掴む。その手とて、憤怒と恐怖からくる震えが止まらない。


 ――俺は、ここまでなのか。父に疎まれ、兄たちに蔑まれ、心を通じ合わせられたのは共に育った妹だけ。そしてその妹に会うことも叶わず、いま、ここに斃れるのか。


 ハイサルの脳裏に、妹の面影が浮かぶ。生まれたときから苦楽を共にした愛しい妹の顔だ。ハイサルは駆けながら、胸のなかで彼女に語りかける。


 ――なあ、ハニーン。成人して王宮に呼ばれ、お前の元を去るとき俺は約束したな。必ずやマリアドルとチェルデの覇権を握り、お前を迎えにくると。「俺たち」の国ふたつを、俺たちは手に入れるのだと。だけどお前はそんなことはしないでほしい、そんなことはしないでいいから、傍にいてほしいと泣いた。だが俺は、そんなお前を振り切ってシュタラに向かった。


 脱出口は厨房の奥にある。高貴な身分の者には、このようなときでなければ縁のない場所だ。天井から吊られたいくつもの鍋や鉄板が、ハイサルの頭を掠めて、がちゃがちゃと喧しく音を立てる。


 ――あのときのお前には見えていたのか? 俺がこんな末路を辿ることを? 俺たちは共にいるべきだったのか。あの砦で、お前と、絵を描きながら孤独を癒す日々を、続ければよかったのか? 母の思い出を語りながら、お前と絵を描く日々を――。


 前を進んでいた衛兵が厨房の炉の横の壁にかがみ込み、煉瓦の壁を押し開ける。途端に煉瓦は崩れ、庭園に向けて掘られた穴が姿を現す。人間ひとりがかがみ込んでようやく通れるくらいの狭い穴だ。


 そこからは庭に溢れる冬の陽光が漏れて出ている。


 ハイサルは真っ先に身を屈めてその穴に潜り込んだ。その先に溢れる光を頼りに。

 その先にあるはずの、光に向かって、手を伸ばした。


 その次の瞬間、前方、つまりは庭園の方向から、彼を待ち構えていた兵の一団より一斉に矢が放たれる。

 ハイサルの視線の先で、届くことのなかった光がこれ以上なく眩しく、激しく、瞬いた。



 地面に仰向けに斃れたハイサルが、次に意識を取り戻したのは、それから数分後のことだ。


 しかしながら、ハイサル自身には、それがどのくらいの時を経た後かは、わからなかった。それでも、激しい痛みですらもはや怪しい、朦朧とした意識のなか、彼は最後の力を振り絞り、瞼を持ち上げた。


 光溢れる冬空を背にした人影が、ぼんやり、見えた。

 その顔はもはや、はっきりとは判別がつかない。だが、陽にきらきらと跳ねる金髪のおかげで、ハイサルにはそれが誰か、すぐにわかった。


「ワイダ……」


 女の名が唇から零れ落ちる。同時に肺から逆流した血も零れたが、それはもう、ハイサルにわかることではない。

 それでも彼は頭上の女に向かって、虫の息のなか、なんとかこう語りかける。


「こんな死に方……俺、らしくない……」

「いいえ……とてもあなたらしいですよ、ハイサルさま。あなたさまは、最期まで、あなたさまでした」


 ワイダの穏やかな声が、冬の風のなか、静かに響き渡る。風に攫われんばかりの微かな声音ではあったが、その口調は明瞭だった。


 その力強さは、ハイサルが最後に聞き取れた、次の言葉でも、変わらなかった。


「ハニーン様のことはお任せください。帝国の名にかけて、お護りいたします。だから……殿下は、ご安心なさって、お眠りなさいまし」


 ワイダの声が、遠く、近く、闇に落ちていく意識のなかを、漂う。


 ハイサルが最後の最後に思ったことといえば、やはり妹のことだった。それをワイダが察してくれたのが、なにより彼には嬉しかった。


 そのことだけに満足して、ハイサルは齢二十二歳の短い生涯を閉じた。



 ハイサルの瞼が落ち、その手ががくり、と紫色のローブの上に崩れたことを認め、ワイダの周りにいたギルダム兵が動いた。


 彼らはハイサルの心の臓が、確かに止まったかを確かめるべく、ロープに包まれた身体に荒々しく腕を伸ばす。


 だが、その動きを、ワイダの鋭い声が止めた。


「丁重になさいなさい!」


 兵士たちは、ワイダの一喝に身体を縮こまらせた。

 その頭上を、いまやマリアドルの寵姫としてではなく、ギルダムの神官としての威厳を取り戻したワイダの朗々とした声が過ぎる。


「この方はマリアドルの王族であられます! それ相応の取り扱いをなさいませ! 我が、ギルダム帝国の名誉にかけて」

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