第三十九話 必ずや取り戻す
マリアドル領に攻め入る前夜、漆黒の軍装に身を包んだマジーグはライルに拝謁の機会を得た。幸いなことに瑠璃石の首飾りも返却され、いまは彼の首元で揺れている。
ただ、黒い長髪は結わず背に流したままだ。
それだけがこの砦に連れてこられてきた時とは、違う。しかし、マジーグにとってはそれがすべてだ。
「我が軍の精鋭を貸すのじゃ、必ずやワイダと愛しい女を取り戻し、ハイサルめに一泡吹かせてやるのじゃぞ、マジーグ。そうじゃ、我が国の要求を突きつけるのも忘れずにな」
「はっ……仰せの通りにいたします」
マジーグは頭を垂れた。
もう結っていない黒髪がばさり、と揺れる。
「マリアドルに入ったら、私の助言通りイルバ城を攻めるがよい。あの城にいるハニーンという女はな、ハイサルにとって脛の傷じゃ」
「御意。ですがその女とは、何者なのですか?」
「それはのう、聞いて驚け、ハイサルの双子の妹よ」
ライルは赤銅色の髪を揺らして愉しげに笑う。マジーグといえば思わぬ言葉に息を詰まらせた。それから、驚きを隠せない顔で、ライルに言う。
「殿下に妹君が? それは初耳でした。たしかに殿下は成人するまで王宮の外でお育ちになられたので、ありえぬことではありませぬが……」
「驚いたか。だが、真相はな、それだけではなくてな。ハイサルにはもっと重大な秘密があるのじゃ」
「秘密、ですか……」
「そうじゃ。あの男の出自が知れたら、マジーグ、お前もさらに驚くことじゃろうよ。楽しみにせえ」
ライルが口角をぐっと上げた。
紅の差された唇が愉快そうに歪む。しかし、彼女はそれ以上ハイサルの秘密についてはいま語る気は無いらしく、視線を跪いたマジーグの首元に動かす。
ライルの瞳の先で、瑠璃石が青く煌めいた。
「その首飾りのファニエルの絵がお前の女か。ずいぶん幼い
急にアネシュカのことに話の矛先を向けられ、マジーグの頬が赤くなる。
彼は火照る顔をいかつい掌で隠しつつも、あれは十年前の姿であります、と反論しようとして、やめる。
なにせ十年前もいまも、自分が変わらずアネシュカに心底惚れているのは、寸分も違わぬのだから。
マジーグは顔を引き締めた。そして今一度、ライルに深々と一礼する。
ギルダムの手先として身を振った自分の選択が果たして正しいのか、彼には今持って判別がつかない。
――それでも。
マジーグは唇を噛み締めて、念じる。
――それでも俺は、この道を選んだんだ。アネシュカとの明日のため。ならば、やり遂げてみせる。アネシュカを必ずや、この手に取り戻してみせる。
砦の夜が更けていく。
マジーグがギルダム軍の騎馬隊を率いて渡河したのは、翌日早くのことだった。
彼が、攻略の地としてギルダム国境とシュタラの中程の山麓にあるイルバ城の名を挙げたのは、いうまでもない。
マジーグによるギルダム勢の侵攻からニ日後、王都シュタラの門を潜り出たのは、ハイサル率いるマリアドル軍の一部隊だった。
兵たちは列の先頭に立つ馬上のハイサルに率いられ、進軍しながらも戸惑いの色を隠せず、隣の者と声を交わす。
「ハイサル殿下自らご出陣とは……なにがあったんだ? 俺たちが向かうのはどこなんだ?」
「なんでも、イルバ城のある山麓に向かうとのことだ。しかしながら守りを固めるにも、ギルダム領に攻め入るにも中途半端な数の兵だ。どういうことなのだろうな? なにか特殊な作戦なのだろうかね」
下っ端の兵士たちには、ギルダム勢を率いたマジーグがをマリアドル領内をイルバ城に向かって進撃していることは知らさせていなかった。
それはそうである。あの漆黒の鬼神が敵国に寝返り、反旗を翻したことを彼らが知ったならば、動揺は計りしれないだろう。兵士の士気は著しく下がるのは火を見るより明らかだ。それほどにマジーグの名は軍下に轟いている。
だから事情を知る数少ない将官は、箝口令を自ら示すしかなかったわけだが、彼らもこの急な出征に困惑を隠せないでいる。
「よりによってハニーン様がおられるイルバ城を狙うとは、マジーグも悪辣なことを。こうとなっては、ハイサル殿下が自ら出陣に踏み切るのを、我らは止めようもないからな」
「いまだ国情はすべてハイサル殿下に味方はしておらぬ。我らとて、一枚岩ではない。軍にもさまざまな考えの者がおる。御身を第一に考えるのなら、殿下にはシュタラにお留まりいただくのが一番なのだが、そうはさせぬということなのだろう」
「しかも、急な出陣だ。マジーグの軍勢と相対するにはぎりぎりの数しか揃えられなかった。それも奴は見越しているな。やはりマジーグは、敵とするには厄介な男よ」
そんな愚痴とも恨み言ともつかぬ会話を投げかける馬上の彼らの後には、壮麗な輿が続く。
輿は金と瑠璃石の装飾が華やかに施され、誰が見ても一目で貴人専用のものと分かる。そしてその後ろに続くのは、鎧戸を固く閉ざした馬車だ。
そのなかにはアネシュカが座していた。
牢に入れられて間もない昨日の夜半、彼女は急に連れ出され、なにも説明されぬままに、馬車へと放り込まれた。
馬車のなかには僅かにしか陽は漏れず、アネシュカには己がどこに連れてかれようとしているのか、見当もつかない。
しかし、彼女の胸中には、確かな希望の光が差し込みつつあった。
――私、死罪になるはずだったのに、いま、こうして生きている。だとしたらきっと、エドがなにか動いてくれたんだわ。ならば、それを信じて私はいまを耐えるだけ。
やがて道は悪路に入ったらしく、ガタガタと車体は激しく揺れる。
アネシュカは仄暗く狭い空間で身を揺られながらも、ぎゅっ、と唇を噛み締める。
――会いたい。私、エド、あなたに早く会いたい。もうすぐ叶うのよね。きっと。もうすぐ夜は明けるのよね。
そんな思いを募らせたアネシュカが、馬車のなかで三度の昼と夜を繰り返した頃、ハイサル率いる軍勢は、目的地とするイルバ城のある山麓にまさにいま、辿り着こうとしていた。
ところがである。
もう少しというところで、もたらされた知らせに、ハイサルは蒼白になった。
「マジーグの軍は我が軍より早く、イルバ城に辿り着く見込みだと?」
「はっ、恐れながら、マジーグは各地の駐屯地を巧妙に避けながら、相当の速さで軍を進めたらしく……また、相対した軍の兵士が、彼と交戦することをよしとしなかったという事情もありまして……」
叫んだ彼の前に跪く伝令の顔もまた、ハイサルに負けず劣らず蒼白だ。ハイサルはぎりり、と歯を食いしばる。
しかし、そうともしていられない。マジーグが城に攻撃を仕掛ける前に、なんとか手を打たねばならなかった。
暫しの沈黙のあと、彼は憤懣やる方ない胸中を堪えながら、決断する。
「伝令を出せ! イルバ城の手前には、我が王族専用の山荘がある。そこで奴の要求に耳を貸す。マジーグにそう伝えよ!」
邸宅の壁面に使われた青い瑠璃石と白い大理石、それらの色をを引き締めるように要所に散りばめられた黒曜石が、十二月の弱々しい陽の光にきら、と輝く。
マリアドル軍に警護された山荘に、マジーグとギルダム軍の将校数名が現れたのは、ハイサルから話し合いの申し出があって三日後のことだ。
マジーグは今や敵軍となった軍勢の前に悠然と馬を進め、ハイサルに面会に来た旨を朗々とした声で告げる。
マリアドル軍の方々から飛ぶ険しい視線が気にならぬわけではなかったが、結いもしない黒髪を長く冬の風にたなびかせた男にとっては、想定内のことでしかなかった。
それ以上に彼を昂らせていたのは、遂にハイサルと相対するからには、必ず目的を果たす、強い決意である。
――前にこの山荘に来たのは、はるか昔、ガロシュ陛下に付き従ってのことだっただろうか。そういえば、あのとき、陛下のそばには見知らぬ男女の幼子がいたような覚えがあるな。思えば、あれがハイサル殿下とその妹君であったか。
懐かしい記憶を脳で反芻しつつ、マジーグは案内の兵に付き従い、連れてきたギルダム人の将官らと共に山荘のなかに進みゆく。
そうして通された広間には、果たして、それから時を経て成人した堂々たるハイサルが配下に囲まれて座していた。
思った通りではあったが、己を睨む彼の目は憎悪にらんらんと燃えている。その火は傍で燃える暖炉の炎より激しい。
しかしマジーグは臆さずハイサルに一礼すると、彼の向かいの椅子に自らも座した。もちろんその礼も、もはや、臣下としての親愛を現すものではない。
間をおかず、マジーグが冷徹な口調でハイサルを質す。
「殿下、ワイダ様とアネシュカはどこにおりますか」
その言葉の内容は、先日、シュタラの王宮でハイサルへの拝謁時、開口一番に放ったものとさして相違ない。だが、口調はあのときのように、激してはいない。ただ、いまここにある現実を確かめるだけの静謐さと冷静さだけが込められていた。
ハイサルはそのことに気づき、いよいよ忌々しげにマジーグの顔を見やる。
「安心しろ。この山荘の別室に連れてきておる。ことにワイダは傷口が痛むだろうからと、特別に輿で運んできたわ。お前との話がついたら引渡してやる。それにしても……」
そこで言葉を一旦切り、ハイサルは喉元にこみ込み上げる怒りの唾を飲み込んだ。
そして、怒りの咆哮をかつての配下に向かい、一気に放つ。
「よくも俺の前にのうのうと顔を出せたものだな! マジーグ! いまのお前の立場は、一体なんだ!?」
「私は、ギルダム帝国、ライル皇女の名代としてこの場におります」
マジーグは冷静沈着にハイサルに答える。
それでも、ハイサルがまるで汚物でも目にするような眼差しで、こう言い捨てたとき、マジーグの黒い目に焔が宿った。
「裏切りおって……! マリアドルの武人の魂はどこに消え失せた? マジーグ!」
怒り狂うハイサルの前で、マジーグは暫く無言でいた。そして、その沈黙にハイサルが耐えられなくなった頃合いを見計らって、大きく息を吸う。
そうしてから、彼は黒い双眼を光らせて、語を放つ。氷点下の温度を滲み出させた言葉を。
「私が……この国で、祖国で受けた恩恵とは、何があるのでしょうか?」
「なに?」
「私は三十年の長きにおいて、この国に尽くしました。たしかに、祖国に恩義は感じております。ですが、それ以上に私にとって辛いことも沢山ありました。であるからこそ私は、真の人間としてチェルデでアネシュカと余生を送りたいと思ったのであります。ですが殿下、あなたはその私の望みを容赦なく、打ち砕かれた」
思わぬ言葉に目を剥いたハイサルの前で、マジーグは滔々と流れるが如く弁を述べた。
しかし、彼の口調は一語一語を噛みしめるほどに、熱を帯びていく。それは先ほどと同じく、氷を思わせる冷徹な熱である。それも話している当のマジーグも意外に思うほどの、至極苛烈な。
気がつけば彼は、解いた黒髪を振り乱し、最後には叫んですらいた。
「私は、私の人生を生きたいのです! その結果としていま、このような立場で殿下の前に立っております。それは、それをお分かりにならなかった殿下の過ちの結果でもあります! よく、肝に銘じて頂きたい!」
マジーグのこれ以上なく真剣で、毅然とした激白に、その場は水を打ったように静まりかえった。
彼自身も驚いていた。自身の胸に、こんなにも深く己の人生を全うしたいとの激情を秘めていたことに。正直、当惑さえする。
だが思い起こしてみれば、いまハイサルに爆ぜさせた想いは、いまにはじまったことではなかった。
アネシュカと出逢い、一旦別れ、祖国で軍務に付く傍ら、その気持ちは火口から噴き出した溶岩の如く、この十年、常に熱く心中を焦がしていたのである。それをいま、口に出すに遂に至った、要はそういうことに過ぎないのだ。
そして、それはつまり、マジーグにとってアネシュカを取り戻すことは、自分の真の人生を取り戻すのと同義であった、ということでもある。
マジーグは煮えたぎる胸の中で、ようやくその真実に思い至り、大きく納得の息を吐いた。
その呼吸に続くように、黒衣の男はハイサルに強く宣告する。
「殿下。陛下に皇位をお返しなさいませ。人間の気持ちが分からぬ者に
「裏切り者のお前に言われることではないわ」
「いえ、これは私ひとりの言葉ではごさいません。それでは、私が軍を引くための、帝国からの条件を述べさせていただきましょうか。……ひとつ、マリアドルからワイダ様とアネシュカを解放すること。ふたつ、今回の拉致の賠償金を帝国とトリン自治区に支払うこと。そして、みっつ。殿下は速やかにガロシュ陛下に皇位を戻し、殿下は事態の責を取り政治の表舞台から身を引くこと。以上であります」
マジーグは、これ以上ない厳しい要求を突きつけると、最後に声を落として、目の前に座するハイサルを黒く鋭い双眼で見据え、こう告げた。
「どうします、殿下。要求をのまねば、私はイルバ城を攻めますし、帝国、そしてトリン自治政府も動きますぞ。それでもよろしいのですか?」
再び、広間は沈黙の帷に沈んだ。
男たちの間には、赤々と燃える暖炉から零れ落ちる、火が爆ぜる音だけが響き渡っている。
その光景が一変したのは、庭園に面した窓にふと目を向けたハイサル側の将官が、目にしたものを見て声を上げたときである。
「火矢……!?」
お互いを睨み合っていたハイサルとマジーグも、叫び声に我に返り、冬の陽光が差し込む窓に一斉に目を向ける。
見れば、言葉通り、火を灯された矢がこちらに向かって飛来していた。しかもひとつではない、複数の矢だった。それらが火球になって、山荘目掛けて放たれてくる。
そして、次に広間の外から響いてきたのは、人が入り乱れる荒々しい足音と、剣撃の激しい音だ。
「何事だ!」
ハイサルが鋭く叫びながら立ち上がり、広間の扉を荒々しい動作で押し開けてみれば、廊下は衛兵、そしてどこからか雪崩れ込んできたらしい兵の一軍の乱戦が始まっていた。
「ハイサル殿下に義はあらず! 殿下は叛逆者に過ぎぬ! 皇位はなおガロシュ陛下のもの、正義は此方にあり!」
兵を指揮している将官らしき男が、そう後方より朗々と声を投げるのが、立ち尽くすハイサルとマジーグの鼓膜を打った。
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