第三十八話 母の思い出

 後宮での騒動の果て、アネシュカが王宮の牢に連行されていく後ろ姿を見届けると、ハイサルはまたも荒々しい足取りで執務室に戻った。

 そして、どのような残虐な手段でアネシュカを殺してやろうか、顔を歪めあれこれ思いを馳せる。


「苦痛が長引くように獣に内蔵をじわじわ食わせてやるのも良い、いや、屍を鳥に食わせてやっても良いな。さぞかしマジーグは苦しむだろうよ」


 ところが、直後にやってきた知らせに、ハイサルは心の臓を跳ねさせることになる。なんと公館から、トリン自治区の使者がやってきて、面会を求めているというのだ。

 しかも、内密に、とのことである。


 急ぎ私室に使者を迎える準備を整えさせつつ、ハイサルの胸中は濁る。

 嫌な予感が胸をざわめかせた。もしや、使者の用件はアネシュカのことではないかと。


 果たして見た目だけは恭しさを保ちつつ、私室を訪れた使者はひととおりの挨拶を済ますと、開口一番、こう述べたのであった。


「して、貴国が拉致したアネシュカ・パブカは、無事なのでしょうな?」


 想像の図星を突かれ、ハイサルは押し黙る。その様相を見て、使者は勢いづいたように続けて語を放った。


「当国のロウシャル将軍は、大変にこの事態を遺憾に思っておりますよ。事と次第によっては、強硬手段も辞さない考えです」

「王族でもない、たかがひとりの女の命ではないか。ロウシャルはなにをそんなに苛ついておる」

「お分かりいただけませんかな。アネシュカ・パブカ誘拐は我が国への内政干渉他ならぬのですよ。つまりは、これはいまや、外交問題なのです」


 思いもせぬ言葉にハイサルは血走った目をぎらつかせる。

 だが、使者の言葉は揺らがない。それどころか、ハイサルが予想もしない方向に話は進んでいく。


「ロウシャル将軍は、この問題が穏便に片付かないならば、貴国のチェルデ支配地域の同胞に、自治区の連絡網を用いて密かに一斉蜂起を促すつもりでおります」

「なに……?」


 ハイサルは使者の言に目を剥いた。


「ただでさえ、貴国は旧チェルデ領の統治に苦心しておいでのはず。そんな事態になったら、一番お困りなのは殿下ではございませぬか?」

「蜂起などしたら、我が占領区域のチェルデ人どももただではすまぬぞ。それでいいのか?」

「それは貴国からすれば、そうでしょうな。もちろん、我らも同胞のチェルデ人に無駄な血は流させたくありません。ですが、そのようなことになったら、マリアドル側も無傷ではすみますまい。ギルダムとの戦に、差し支えが出る程度には」

「そうか、分かったぞ」


 ハイサルはいまや憎しみに歪んだ顔で使者を睨み付ける。紫色のローブに包まれた肩は、怒りのあまり、小刻みに震えた。


「貴様らの背後にはギルダムがいるな。我が国にそのような強硬な態度で出るには、帝国の支援がなければできぬからな。なんと小賢しい!」

「それはどうだか。そのあたりは、殿下のご想像にお任せしましょう。ともあれ、ことを杞憂で済ませたいならば、アネシュカ・パブカを、五体満足のまま、無事自治区に帰すことですな」


 使者は何食わぬ顔でハイサルに相対する。

 しかしこうとなれば、アネシュカの件を好機として、トリン自治政府を通じてギルダム帝国がマリアドルに揺さぶりをかけてきた事は明白である。

 遅まきながらことの重大さをハイサルはようやく理解し、はらわたを悔しさのあまりぐらぐらと煮立たせた。


 使者の退出後、部下を私室に招き入れたハイサルは、忌々しげにわめき立てる。


「あの女など、あのとき、俺の手が動くままに喉を掻っ切ってしまえばよかったな! ええい、忌々しい!」


 すると、ハイサルの顔色を窺うように、部下がおそるおそる、喉から語を絞り出した。


「そのアネシュカ・パブカですが……」

「なんだ、牢の中でも暴れたか?」

「いや、大人しくはしてはおりますが、ただ……絵を描きたい、と申しております」


 ハイサルはまたも思いもせぬ言葉に虚を突かれる。

 今日、自分にもたらされる知らせといえば、想定外のことばかりだ。ハイサルはそう苛つきながら、茶褐色の三つ編みを跳ねさせながら部下の顔を見返し、質す。


「絵だと?」

「はい。いかが致しましょうか」

「はっ、相も変わらず、馬鹿馬鹿しいな」


 ハイサルの表情が嘲笑に歪んだ。そして彼は数分黙りこくった後、愉快げに語を放る。


「ふん。ならば丁度良い。先日、あの女に下賜し損ねた絵具があるではないか。あれをくれてやれ」

「よろしいのですか?」

「いや……折角だったら俺から自ら与えてやる。それにあの女も、俺を見れば命乞いでもするかもしれぬ。だとしたら見物みものだな。いい憂さ晴らしだ。よし、俺は牢に行くぞ。準備せよ」


 ハイサルの気まぐれな行動に部下は顔を一瞬顰めさせた。

 だが、粗暴な主君を恐れてか、彼は何も言わず頭を垂れ、部屋を退出していく。


 こうしてハイサルとアネシュカは、一日のうち二度も顔を合わせることになったのだった。最初は後宮、次は牢のなか。あまりにもめまぐるしかったこの日一日を象徴するように、大きく場を変えて。


 すでに、王宮は夜の帳に包まれる時刻を迎えていた。

 冬の冷たい夜風が、石造りの建物に吹きすさんでいる。



「寒ぅ……」


 ふぅ、と吐き出してみれば、吐息は白く宙を過ぎる。牢の闇のなかで、アネシュカは凍える指先を擦り合わせながら、ドレスの重ねをぐっ、と手繰り寄せた。


 後宮から着の身着のままで放り込まれてしまったので、アネシュカは薄手の絹の水色のドレスのままで独房にひとり座り込んでいる。足は素足だ。十二月の冷気は容赦なくひたひたと暗闇を浸し、アネシュカの全身をぶるっ、と震えさせる。


 だが、気がまだ昂っているせいか、実際の気温ほどアネシュカの意識は凍えていない。

 しかしそれでもなお、マジーグのことを思えば、すまなさに心が満ちる。


 ――エド。あなたはいまも、戦っていてくれるのでしょうね。私とまた会える日を信じて。もしそれが叶わないと知ったら、私はあなたにどれだけ辛い思いをさせるのかしら。


 冷えた両手でさらに冷えた足を摩りながら、アネシュカは考え続ける。

 すると、牢の入り口の方向から、何やら慌ただしい声が聞こえた。どうやら衛兵、それと他の誰かの男の声音だ。


 ――もう私、処刑されちゃうのかしら……?


 その瞬間、恐怖に背筋が強張ったアネシュカの瞳を、仄かな光が射る。


 見れば、目の前にはカンテラの明かりがひとつ、ゆらゆらと揺れていた。

 そして頼りない橙色の光のなかに揺らぐは――紫色のローブだ。


「ハイサル殿下……」


 驚くアネシュカの前には、先ほど後宮で彼女に死罪を言い渡したばかりの男が立っていた。その顔といえば先ほどと変わりなく険しい。


 しかし、いまはそれに加えて不貞腐れているような表情も見て取れる。それはトリン自治区の横やりで、アネシュカを思い通り殺すわけにいかなくなったゆえの不機嫌だったが、無論アネシュカはそれを知るはずもない。


 口を開いたのはアネシュカからだ。

 彼女は牢の格子に手を伸ばし、まずはなんとしても確かめたいことをハイサルに尋ねる。


「ワイダ様はどうなられましたか……?」

「この後に及んで他人のことを気にかけるのか。はっ、本当に面白い女だな、お前は」


 ハイサルは嘲りとも呆れともつかぬ口調で語を放る。それから忌々しげに、早口でこう吐き捨てる。


「一命は取り留めたと聞いた。だが、それ以上は知らぬわ。あんな冷たい女のことなど」

「それは違います」


 ハイサルの言葉にアネシュカは反射的に異論を口にする。その率直さが己の命取りであるとの自覚はあれど、彼女はこのような時に、黙っていることができない。


「ワイダ様は、慈愛溢れる方です。私は後宮でお側にいさせてもらった間、しみじみとそう感じました。あの方が寵姫たちに注ぐ愛情は、なによりも真摯なものでした」

「ふん、そうか。だがな、俺には愛情の一欠片も見せぬ女であったよ」

「それはその……殿下に、ご理由があるのでは、ないですか?」


 アネシュカの遠慮ない言葉に、ハイサルは思わず眉を顰めた。


「相変わらず生意気を言う女だな。この期に及んで、命乞いすらせぬのか」

「……」


 アネシュカは困ったような顔でハイサルを見つめる。そのまっすぐなペリドット色の瞳が、ハイサルにはなんとも疎ましかった。


 なので彼は、さっさとここに来た目的を果たしてしまおうと懐に手を差し伸べ、木箱を取り出す。いつかアネシュカに与えた、絵具一式が入ったあの箱だ。


 そして、それを格子の隙間に乱暴に差し入れた。


「ほら、これをくれてやる。ありがたく思え」

「これ、あの、絵具の! ……ありがとうございます!」


 アネシュカの声は一転して弾んだ。

 そして彼女は格子越しにハイサルから木箱を受け取る。相変わらずの壮麗な装飾が目立つ箱だった。ランテラの明かりに金糸と瑠璃石がきらり、煌めく。


 ハイサルの冷ややかな視線をものともせず、アネシュカは寸分の時間も惜しいとばかりに、木箱を開け、帳面と木炭を取り出した。そして、さっそく何を描こうかと考え込んだところで、ハイサルの翡翠色の双眼と目があった。


 なのでつい、アネシュカは畏れも忘れて、彼にこう問いかける。


「殿下を描いてもいいですか?」

「はぁ? 俺を?」

「はい」


 ハイサルは思わぬアネシュカの願いに虚をつかれ、目を瞬かせた。

 そして、ハイサルがなんと答えようか迷っているうちに、アネシュカはその沈黙を是と受け取ってしまったらしく、早々に帳面に木炭を滑らせ始めた。


 時々、ハイサルの顔を見上げながら、彼女はカンテラの仄かな明かりのもと、牢に座して絵を描き続ける。


 やがて帳面に自分の顔が浮かび上がり始めたのを見て、ハイサルが耐えきれぬ、とばかりに言葉を吐いた。


「……下手くそめ。それでも、チェルデ王室の絵師か。俺ならもっと上手く描けるわ。ほら、貸してみろ」

「え?」


 今度困惑したのはアネシュカだ。

 彼女は亜麻色の髪を揺らして、ハイサルを見つめる。


「俺に絵具を貸してみろ、と言っているのだ」


 その語気は思った以上に強い。

 そして、彼の顔を見る限り、自分を揶揄っているわけでもなさそうだ。

 なのでアネシュカは恐る恐る、ハイサルに帳面と木炭を格子越しに手渡す。


 すると、ハイサルはアネシュカが驚くほど慣れた手つきで、木炭を動かし始めたのだった。


 唖然とするアネシュカの頭上で、ハイサルは黙々と腕を動かし続ける。

 沈黙の帷が落ちた牢の中には、さらさらとハイサルが木炭を滑らす音だけが、暫し響き渡っていた。


 ――筆捌きに、迷いが、ない……。


 アネシュカはいつしか固唾を飲んで、ハイサルの一挙一動を凝視していた。

 底冷えする冬の寒さはとうに、意識から消え失せていた。


 そして、ハイサルは手を止めると、牢の中のアネシュカにまるで見せつけるように描きあげた絵を翳す。どこかで見覚えのある顔が、アネシュカの視界に入った。


 ハイサルによく似た女の顔だった。

 それも、素人ではないとはっきりとアネシュカにわかる筆致の。


「殿下……これは、どなたのお顔ですか?」

「俺の親族だ。俺は、こいつと一緒に、絵を習った」

「誰に、絵を習われたのですか?」


 アネシュカは震える声で、どこか落ち着かない表情のハイサルに問うた。するとその顔のまま、ハイサルはぶっきらぼうに答える。


「幼い頃、母に習った」

「殿下のお母さまですか?」

「一時、俺は母の元で育てられたことがあったのでな。遥か昔のことだ。もう記憶にも、朧気だが」

「それでも、こんなに描けるものなんですね……すごい!」


 アネシュカは満面の笑顔を弾けさせて、ハイサルの絵を讃えた。だがハイサルからすれば、胃がくすぐったいことこの上ない。しかも、アネシュカが次にこんなことを言い出したものだから、なおさらだ。


「殿下の、この絵の方へのお気持ちが、この絵からは溢れているように感じます」

「なにをわかったようなことを……。そのような世辞を言っても、俺はワイダを俺に斬らせたお前を許さんぞ。俺の寵姫には違いなかったのだからな。たとえ、冷淡極まりない女であっても」


 ハイサルはやや早口になってアネシュカに言い返す。しかしながらアネシュカには、その口調はどこか言い訳じみて聞こえる。

 なので、彼女は躊躇いつつも、こう、彼に声をかけた。


「殿下」

「なんだ」

「人は……力だけで簡単に屈せられるようなものではないのではないですか? エドがそうでした。ワイダ様だって、そんなやり方でなければ、殿下のことをお好きになられたかもしれないのに……」


 ハイサルの心の臓は変な方向に曲がった。次の瞬間、彼は限界とばかりに声を激しく爆ぜさせた。


「本当に生意気が過ぎるな! お前は!」


 ハイサルは顔を上気させてアネシュカを怒鳴りつけた。

 そして、動揺が表に現れる前にと、アネシュカに木炭と帳面を押し付けると、さっさとカンテラを手に身を翻す。


 アネシュカの視界で、ふわ、と紫色のローブが暗闇に揺れる。


 そしてハイサルはそのままの勢いで、足音高くアネシュカの前から去っていった。



 牢から戻ってきたハイサルが、またも怒り心頭といった顔つきと足取りでいるのを見て衛兵は慌てた。

 狼狽しながら、ハイサルに怖々声をかける。


「殿下、あの女がなにか不躾なことをなさいましたか?」


 だがハイサルはなにも答えない。

 黙りこくったまま背を向け、その場から姿を消そうとする。衛兵は仕方なくもう一度、彼を呼ぶ。


「どうします、殿下! もうなにか理由をつけて、斬り捨ててしまいましょうか?」


 すると、思わぬ答えが返ってきた。


「楯突いたら斬ってもかまわん。ただ……」

「ただ?」

「絵は邪魔せず、描かせてやれ」


 ぽかん、となった衛兵が言葉を失う。


 そうしているうちに、ハイサルの後ろ姿は牢から消え失せていた。



 結果として、アネシュカは運がよかった。


 なぜなら、ハイサルが牢にいるうちに、その日最後の凶報が飛び込んできたら、激した彼にアネシュカはどうされるかわからなかっただろうから。


 ギルダム国境方面からの早馬がもたらした一報が、すでに就寝していたハイサルを叩き起こしたのは、日が変わろうとする時分であった。


「ギルダムの騎馬隊が渡河に成功、そのままイルバ城を目指して進軍を始めたとのことです」

「イルバ城だと!」


 ハイサルは懐かしい城の名を耳にして、寝台から跳ね起きた。

 そして、最大の衝撃が彼を襲う。


「騎馬隊を率いているのは、ギルダムに逃亡したエド・マジーグ将軍です。相対した国境の兵によりますと……彼は……」


 それから告げられた言葉は、マリアドルの武人にとって、これ以上なく重いものだった。


「彼は、漆黒の悪鬼は……髪を解いていたとか」

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天を描けど、光なお遠く ~チェルデ国絵画動乱記~ つるよしの @tsuru_yoshino

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