第三十七話 ハイサル、激する

 マジーグ逃亡の責を問われ、五日間の拘禁から帰ってきたタラムを一目見て、サグは途端に怒りの形相に顔を震わせた。


 無理もない。師の皺が深く刻まれた頬には、この数日間に穿たれたと見られる青痣がくっきりと浮かんでいる。


「なんで、お師匠があの男のことで、こんな目に遭わないといけないですか!? しかも拘禁までされるなんて!」

「まあ、そのおかげで、こうしてお前とゆっくりする時間ができたのですから、よいではないですか、サグ」


 激するサグに対し、当のタラムは悠然としたものだ。痛めつけられた頬をさすりながらも、それを気にする風でもない。部屋の木棚から酒瓶を取り出しながらこともなげに、そう若い弟子に言ってのける。


「それはそうですが……!」

「まあ、機嫌を直してこれでも飲みなさい。お前は肌馴染みがいい上に、酒が強くてうれしいですよ。エドはあまり強くなくてね、相手としては不足でしたから」


 タラムは柔らかく笑いながら、続いて、棚から二個グラスを取り出し、琥珀色の液体を注ぎ入れる。しかしながら師からグラスを受け取りながらも、サグは不満そうだ。


 顰めっ面で寝台に腰掛け、蝋燭の明かりにも鮮やかな紫の一房と、瑠璃石と金の耳飾りをしゃらん、と揺らしてグラスを傾ける。そして一気に半分ほど酒を喉に流し込んでから、不貞腐れたように声を放る。


「……タラム様はなぜ、そんなにあの男を気に掛けるのです」

「拗ねるお前も可愛いですね、サグ」

「誤魔化さないでください。タラム様が私を傍に置くのは、私があの男に似ているからですか?」

「なかなか勘がいいですね、サグ。私は頭が良い子は好きですよ。……まあ、それはそうとしても」


 自らも酒を口に運びながら、タラムは意味深に笑いサグの問いに答える。そして、一旦語を区切ると、心なしか目を細めて、視線を床に向けた。


 眼下の赤い絨毯にタラムの影が揺れる。タラムはそれを見つめながら言葉を継いだ。


「エドが……彼が真に救われるためには、その手で何かを倒さねばならないのですよ。……そう、あの苦渋の三十年間に決着を付けられるような、何者かをね」


 その声はどことなく自嘲のようだと、サグには感じられる。サグは意外な心持ちで師の顔を見返すが、タラムの顔は柔らかい微笑みに満たされたままだ。

 そのままの表情を崩さず、タラムはちいさく呟く。


「まあ、彼の理解者になることが終生叶わないなら……私にできるのは、最後まで憎まれ役を引き受けることだけですよ」


 その言葉からは、自分が窺い知ることの叶わぬ、タラムのマジーグへの想いが籠っているようで、サグはいよいよ顔を顰める。

 だから師への言葉は、己もうまく言い表せぬ、抗議の意を含めたような口調になった。


「あの男を気にかけすぎるお師匠は、あまり好きではないです」


 対してタラムは、目尻を緩め、可愛い現在の一番弟子に、愛おしげな眼差しで見つめた。

 それから、皺の寄った指を彼の口元に差し伸べ、爪先でサグの唇をやさしくなぞる。


「まあ、そう言わずに傍にいなさい。私はお前のことも好きですよ」


 やがて、タラムの爪先はサグの顎まで至る。タラムは手のひらを広げ、彼の首元をくっ、と引き寄せると、今度は舌でサグの唇をねっとりなぞった。


 己の輪郭を確かめ、味わうような舌使いに、いよいよサグの胸中はタラムへの思慕が燃えさかる。同時に、どうにもやり過ごすことのできない痛みで心がどうしようもなく、疼く。


 そのときのサグには朧気ながら予感があった。この心の疼きは、いつか自らを思わぬ行動に動かしてしまうのではないか、という予感が。

 だがそれが具体的にどのようなかたちを成すかは、まだこのとき、サグはわからないままでいる。



 一方、ハイサルは怒り心頭であった。

 

 ひとまずマジーグを逃したタラムを痛めつけてはみたが、そのくらいで鬱憤が収まるわけもない。彼は背に流した三つ編みを激しく揺らしながら、ぎりぎりと歯を食いしばる。

 どのくらい彼が激していたかと言えば、マジーグの人質であるアネシュカの存在を数日失念していたほどであったのだ。


 ひときしりの暴力的な衝動を晴らし、タラムを拘禁から解放したところで、ようやくハイサルはアネシュカのことを思いだした。

 ハイサルは毒蛇のような顔つきで、舌なめずりしながら、独り言つ。


「だったら、あの女がいま、後宮でどんな目に遭っているか確かめて、溜飲を少しでも下げさせてもらうおうではないか」


 そんなわけで、マジーグの逃亡から七日を経て、ハイサルは嗜虐的な喜びに心を逸らせながら後宮を訪れたのであった。それもいつも己が居する、ワイダの部屋ではなく、後宮のなかでも下位の寵姫が属する居室に。


 ところが、突然の次期皇帝の訪問に宦官たちは慌てながらも、ここにはアネシュカという女はいないと答える。


 ハイサルは宦官のひとりの首を締め上げ、ことを質す。そうしてようやく彼は、ワイダの保護により、アネシュカが自分の命のまま、男に身を漁られてはないことを知ったのだった。


「ワイダ……お前も俺を裏切るのだな!」


 迸る怒りのままに、ハイサルは周囲の制止を無視して、紫のローブを揺らし、後宮の別練へと足音高く踏み入る。

 アネシュカを捕らえ、そして、己の愛しい女を問い質すために。


 その翡翠色の瞳は、いまや堪えがたい憎しみの色にごうごうと燃えていた。



「先生、この花びらの色、どう重ねていったらよろしいでしょうか?」

「まず、花の色をよく見て、濃淡を意識するといいわ。そうしたら、薄い色から筆で紙に乗せていくの」

「影が難しいんですよね。黒一色だと、線が潰れてしまうので」

「うん。でも、よく見てみて。影といっても、黒だけで成り立っているわけではないわ。よく観察すれば青や緑、茶色などでも表現できるのよ」


 後宮で絵を教えるのにも大分慣れてきた。


 アネシュカは今日も木炭と絵具を手にする寵姫たちの絵を見て回っては、質問に答えていた。幼い寵姫に至っては、アネシュカのことを姉のように慕って教えを乞うてくる。

 アネシュカにとっては、そんな彼女たちのとのやり取りが、日々、愛おしくて仕方ない。


 ――いま、エドはどうしているのかしら。無事にギルダムにワイダ様の絵を手渡せたかしら。


 そのことを思うとき、アネシュカの心は苦しくなる。ソウファの提言とはいえ、ギルダムに助けを求めるやり方はマジーグにも危険を及ぼす方法だ。そのことは彼女にもよく、分かっている。そして確実な手段でもない。どちらかといえば、賭けに近い。


 しかしそれでも、自分とマジーグがハイサルから逃れるためにはそれしか道が見出せなかった以上、アネシュカは腹を括るしがなかった。


 そして、そうとなれば、自分たちふたりの未来があまりにも不確かであるとはいえ、アネシュカはここでただ恐怖に怯え、泣いているわけにはいかなかった。マジーグとともにまた穏やかに暮らす日を信じて、アネシュカはしっかりいまと戦おうと思ったのだ。


 ――それにはまずこのときを、生き抜くこと。それが今の私の、ハイサル殿下に抗う唯一の手段なのよ。負けやしないわ、絶対。


 気持ちが折れそうになるたび、アネシュカは自分にそう言い聞かせる。そうやって彼女はマリアドルでの後宮での日常を、なんとか乗り越えようとしていた。


 その日も、アネシュカによる絵の講義の時間は、穏やかに過ぎようとしていた。


 季節はすでに初冬に差し掛かり、庭園の緑も寂しくなってはきていたが、相変わらず窓から差し込む陽光は、女たちとアネシュカ、そして微笑みながらその場を見守るワイダを、眩しく、優しく包み込む。


 その平穏が破られたのは、講義の時間が終盤になってからだ。

 突如、扉の向こうの廊下が、激しい怒鳴り声に乱される気配がした。続いて、文官らしき人間が叫ぶ声や、それを遮る荒々しい足音などが女たちの耳を打つ。


 そして部屋の扉が乱暴に開け放たれたとき、寵姫たちは一様に目を丸くした。


「ハイサル殿下……! なぜ、このようなところに?」


 下々の場所に現れた皇位継承者に、女たちがざわめき出す。しかも、その男の顔は怒りに禍々しく歪み、息も荒い。背に流した茶褐色の三つ編みは震えてさえいる。


 ハイサルは怯えを明らかにする寵姫たちに構うことなく、紫のローブを激しく揺らして、一直線にワイダの元へ歩み寄る。


 部屋の奥に座していた当のワイダといえば、平然としたものだった。今日は乳白色のドレスに身を包み、優雅な佇まいはなんら崩れることはない。長いまつ毛に囲まれた青い瞳がハイサルをまっすぐに見据えれば、金の髪に止められた真珠と瑠璃石がしゃらしゃらと音を立て揺れた。

 そして彼女は、それらの宝石を自らに与えた男に毅然とした態度でこう言う。


「女の園に、ずかずかと無遠慮に踏み入れるあたり、流石殿下でございますわ」

「ワイダ……」


 荒ぶる自らを見ても動じることない最高位の寵姫を前に、ハイサルの表情はますます険しさを増した。そして憤る激情のまま、ワイダに怒声を浴びさせる。


「なぜ、アネシュカ・パブカを命令通り務めに出さないのだ!? 他ならぬ俺の命だぞ!」

「彼女には別の重要な役目があると、私が判断しましたゆえ」

「別の役目?」

「そうです。女たちに絵を教えてもらっております」

「絵だと……?」

「はい。私が決めたことです。殿下の命が及ぶことではございません。どうぞお引き取りくださいませ」


 ワイダの言葉に、一転していまや水を打ったように静まりかえった部屋に、ハイサルの怒声が轟きわたった。


「ワイダ……お前は寝屋でもずっとそうだな。俺がどんなに愛してやっても、けっして心を開こうとはせぬ。それどころか、俺に逆らうことさえする! なぜだ!」

「ハイサル殿下」


 ワイダの声音は静謐だ。いや、冷ややかですらある。


「貴方様はどうすれば人が心を開くかを、まったく考えようとなさらない。ですから私も心を閉じたままでおります。それだけのことでございますわ」

「知ったことか! 俺は俺のやり方で人を屈すだけだ!」


 氷点下の温度さえ感じさせるワイダの台詞に、ハイサルの表情はさらに禍々しさを増していく。

 次にハイサルはワイダに目から目を背けると、部屋の中ほどにいるアネシュカを睨みつけた。そして憤る感情のままに、腰に下げた長剣を引き抜くと、ぎらり、と鈍く光る刃をアネシュカに向け、恫喝の声を上げる。


「斬られたくなければ、この部屋を出て務めに出よ! それとも無理矢理にでも連れ出されたいか!?」


 思わず身を強張らせたアネシュカに、ハイサルは刃の切っ先をちらつかせながら、じりじり迫りゆく。


 ところがそのとき、思わぬことが起こった。


「お願いです、先生を連れていかないでください!」


 アネシュカに絵の教えを乞うていた年若い寵姫が、震えながらも、ハイサルの前に立ちはだかったのであった。


 思いもせぬ抵抗に、ハイサルの怒りは頂点に達した。ハイサルは目前の幼い女に勢いよく手を伸ばすと、胸元に掴みかかる。そして彼女の喉元に、激情のまま刃を振り翳す。


 次の瞬間、部屋に肉を抉る音が響き、赤い霧が舞った。


 一瞬の出来事に、部屋の誰もが、息を飲んで惨劇を見守ることしかできなかった。

 ハイサルの目前に立っていたアネシュカでさえも。


 そして、誰もが目を疑ったのは、ハイサルの前で床に伏していたのは、寵姫ではなく――彼女の前にさらに立ちはだかったワイダだったのだ。


 部屋の全ての人間が、呆然として、華やかな金髪と乳白色のドレスを赤く染めて崩れたワイダを見つめる。

 血に染まった長剣を手にした、当のハイサルでさえも。



 数瞬の自失呆然から人びとが我に返り、部屋はたちまち騒然となった。


「早く医者を呼べ!」


 ソウファが扉を開け放ち、鋭く声を放る。女たちは震え、泣き叫ぶ者さえいる。


 その最中で一番我を失っていたのは、ハイサルだ。

 彼は慌てて床に膝を突き、ワイダの肢体を抱きかかえる。途端に肩の傷口から流れ出した血潮が彼のローブを汚したが、それに構う余裕すらもうない。

 側に立つアネシュカから見えるハイサルの顔色は、今や血の気を失っていた。彼は必死の形相でワイダを揺さぶり、声を掛ける。


「ワイダ! ワイダ!」

「ハイサル……殿下」


 ワイダの顔もハイサル以上に蒼白である。

 だが、長い睫毛を持ち上げた青い眼差しと、紅を差した唇から漏れ出た声は、しっかりとしたものだった。


「お可哀想に……ほんとうに……あなたは力で人をねじ伏せることしか、知らぬ御方なのですね……」

「お喋りなさいますな、ワイダ様!」


 ようやく飛んできた後宮付きの医師を伴ったソウファが傍らに駆けつけ、横たわったワイダを介抱する。やがて部屋には騒ぎを聞きつけた衛兵らもなだれ込み、彼らは止血の施しを終えたワイダを部屋から担ぎ出す。


 後に残されたのは、赤黒く汚れた床と、その周囲で震える女たちとアネシュカ、そして跪いたままのハイサルのみだった。


 ハイサルはしばし息を荒げ、そのままの姿勢で固まっていた。

 赤く染まった紫色のローブを慄然と眺めながらも、動けずにいた。彼は助けを求めるように翡翠色の双眼で周囲に見回す。しかしそこに、すでに愛しい女の姿はない。代わりに視界へと飛び込んできたのは、ワイダが庇った年若い寵姫だ。


 次の瞬間、ハイサルの手は寵姫の腕を荒々しく掴み、こう叫んでいた。


「お前! 来い! ワイダの代わりに、俺の相手を務めさせてやる! 俺に逆らったことを、後悔するような目に遭わせてやる!」

「い、いやっ、いやっ……」


 寵姫があどけない顔を恐怖に歪ませる。


 それを見た瞬間、今度は、それまでただ呆然と立ち尽くすしかなかったアネシュカの口から、声が爆ぜた。


「待ちなさいよ!」


 響き渡った怒声に、部屋には再び緊張が走った。

 だが、アネシュカは臆せず、ハイサルの前に歩を進め、立つ。

 そして張り詰めた空気を切裂くように、目前の男をを睨み付けたまま、告げる。


 ペリドット色の瞳をらんらんと燃やし、覚悟を示すかのように、これ以上なくきっぱりと。


「ワイダ様の代わりなら、私が務めます!」


 アネシュカの重々しい言葉を耳にして、ハイサルの双眼はつり上がった。

 寵姫から乱暴に手を離すと、自分を睨み付けるアネシュカの顔を、彼もまた、憎悪の焔が燃えさかる瞳で射貫く。


 やがてハイサルの唇から漏れ出た言葉は、どこまでも呪詛の響きに満ちていた。


「……ふざけるな、アネシュカ・パブカ。俺にワイダを斬らせたお前など、相手にするまでもないわ。お前など、死罪にしてやる! これ以上なく惨たらしく殺してやる!」


 そして、ハイサルの次の言葉を耳にしたとき、アネシュカは自分の運命が閉ざされたことを知るのだ。


「マジーグがここに駆けつける頃には、冷たい骸になっているがよいわ! それが俺を裏切ったあいつへの復讐に相応しかろうよ!」


 残酷な宣告を下されてもなお、アネシュカはハイサルから視線を逸らすことはなかった。

 ただ、胸の奥は切なさに激しく震えた。


 ――ごめんなさい、エド。私、あなたにもう、逢えないかも、しれない。


 こうなったことに、後悔は一切無かった。

 ただ、自分を案じ、いまも奮闘しているであろう男のことを思うと、ひたすらに心が翳った。


 生き抜くと心に誓ったのに、それを叶えられないことを、申し訳なく思った。

 もはや、自分ひとりの命ではないというのに。

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