第三十六話 絵師の実験

「どちら……と言われても、どちらもアネシュカではないのか?」


 数十秒の唖然を超えて、マジーグがまず放った言葉はそれだった。我ながらこの場に似合わぬ気の抜けた返事だとは思ったが、彼からすればそう答えようしかない状況であった。


 それもそのはずだ。


 二枚の紙には、それぞれ、あの見覚えのある女が描かれている。もちろん表情や筆致に多少の違いはあるが、双方の絵ともペリドット色の瞳は眩しく生き生きとしているし、風に吹かれたように踊る亜麻色の髪は、彼女がまるでそこにいるかのように鮮やかだ。薔薇色の肌は艶めかしいほどだし、ふっくらした頬から顎にかけての輪郭も、まさにアネシュカだ。


 ――この出来を見るに、これらはファニエルの絵なのだろうが……しかし、どう選べばいいのだ? 両方、俺の知るアネシュカだぞ。


 マジーグは困り果てながら、双方の絵に目をやる。

 それからややもって、おずおずと、こう助けをファニエルに乞うてみる。


「……せめて、ヒントをもらえぬか?」

「ヒントならもう、私は先ほど申してますよ」

「なに……?」

「二度とは申し上げません。あとはご自身で判断してください、閣下」


 眉間に皺を寄せてみるマジーグに対して、ファニエルの口調はなんとも素っ気ない。

 仕方なくマジーグは直近のファニエルとのやりとりを思い返してみる。しかし、どうにもそこにヒントが潜んでいるようには思い当たらない。


 マジーグはいよいよ顔を険しくして、二枚の絵を食い入るように見つめる。


 双方とも笑い顔のアネシュカだ。しかしそれとて、違いがないわけではない。それぞれ別の絵なのだから。


 右の絵のアネシュカは穏やかに微笑んでいる。その笑みにはどことなく優美ささえあり、より写実的だ。それだけにマジーグは、まるで実際に彼女に至近距離で見つめられているような気分になり、どきり、と心の臓を弾ませる。


 対して左の絵は、微笑と言うにはやや口の開け方が大きい。目尻も崩れており、どことなく幼い。子どもっぽいともいえるかもしれない。加えて右に比べれば、やや、筆致は素人じみている気がする。もっとも、絵画に疎い自分のことだから当てにはならぬ、とマジーグは思うのだが。

 だが、目を凝らしてよく見てみれば、木炭で描かれた輪郭には、僅かながら歪みが見え、それが全体の絵としての印象を損なっているようにも感ずる。


 しかしながら、十年前から自分の心に染み渡ってきた彼女の明るさ、若々しさは、左の絵からより伝わってくるようにも思える。そういえば、くしゃっとした目尻の皺は、彼女が破顔するときによく見られるものだ。


 それは今、こうしてアネシュカと別離を余儀なくされているマジーグからすれば、なんとも愛おしい。


 そこまで考えを巡らせ、マジーグは、ええいままよ、とばかりに、左の絵を指さした。


「こちらであろうか……?」


 ところが、恐る恐る左の絵に指先を翳したマジーグは、次の瞬間肝を冷やすこととなる。トルトが顔色を分かりやすいほどに青ざめて、大声を爆ぜさせたからだ。


「あーっ! おっさん、よりによって、そっちかよ! あーもう! 頼むよおっさん!」

「なに? 違うのか? やはり、外れなのか?」


 マジーグはトルトの声に慌てる。

 しかしながら、ファニエルの顔に視線を移してみれば、そこにはなにかに納得したと言わんばかりの顔をして、微笑んでいるファニエルがいた。


 数瞬の後、戸惑うマジーグに投げかけられた元宮廷絵師の言葉はこうであった。


「……いいでしょう」


 笑みに緩んだままのファニエルの唇が動く。

 マジーグはごくり、と唾を飲み込みながら、彼の次の言葉を待つしかない。

 それから、ゆっくりと、ファニエルはマジーグにこう告げたのだった。琥珀色の瞳を光らせながら。


「正解です。閣下。あなたの勝ちですね」

「えっ? 先生?」


 トルトが途端に呆気に取られた顔で声を漏らす。

 一方、マジーグと言えば、安堵のあまりそのまま牢の床に崩れるように座り込みながら、緊張のあまり、額に貼り付いた黒髪を掻き上げる。


「なんだか分からぬが、当たっていたのならよかった……。なら、お前は俺に味方してくれるのだな?」

「ええ、約束は守ります。閣下、私は皇女にあなたへの加勢を進言しましょう。今から早速ライル様に拝謁して参ります」


 ファニエルは二枚の紙を懐にしまいながら、こともなげにそう答えた。そして早速とばかりに、その場を去ろうと踵を返す。

 牢の中から、その背中を打ったのはマジーグだ。


「ちょっと待て、ファニエル」


 格子越しに響いてきた男の声にファニエルが銀髪をふわり揺らし、振り返る。その顔はなおも謎めいた柔らかな笑いに満ちている。


「ひとつ聞いておきたいことがあるのだが。近頃トリンに流れた謎の絵は、やはり、お前が描いたものなのか?」


 マジーグが叩きつけるように放った疑問に、ファニエルはふっ、と目を細める。そして彼は、あっさりと答えを寄こした。


「ああ、私がギルダム宮廷に頼まれて描いたあの絵、上手く目論見通り、ロウシャル将軍の目に留まったようですね、何よりです。描いた甲斐がありましたよ」

「なぜギルダムはお前にそんな絵を描かせて、トリンに流させたんだ?」

「あの絵はですね、私の生存を知らせると共に、ギルダム帝国からトリン自治政府へと、マリアドルへの共闘を呼びかけるためのメッセージなんですよ」

「ギルダムから、ロウシャルへの? あの絵が?」

「絵の女が手にしている花束は、カゾの花です。そうです、あの猛毒のカゾの実の花です。でも実を描いてはメッセージとして直接すぎると思いまして。ですが、ロウシャル将軍らはわからなかったようですね。少し捻りすぎました。カゾの花言葉はですね、ギルダムでは『固い愛情』、『約束』もしくは『あなたを決して離さない』なんです」


 ファニエルが明かしてみた思わぬ絵の真実に、マジーグは唖然とした。


「なぜ、ギルダムはロウシャルと再び組んで、マリアドルを倒したいのだ?」

「説明しないとお分かりになりませんかね、閣下」


 マジーグの厳しい問いに、ファニエルはわざとらしく肩をすくめて笑う。

 そうしてから、彼はギルダム側から見た現在の国際状況を、滔々とマジーグに説明して見せた。 


「いいですか。マリアドルに今も支配されている元チェルデ領では、いま、住民の反マリアドル感情がこれ以上なく高まっています。私とトルトの件でもお分かりでしょう。なにしろトリン自治区以外では、創世神話もいまだ正しく描くことができない。これに対する住民の鬱積は相当なものです。だとしたら、マリアドルと戦が続いているギルダムにとっては、チェルデ人を引き込んで、ともに打倒マリアドルに回る好機なわけですよ」

「……」

「閣下、あなたに言うのは酷ですが、マリアドルは占領政策を誤りましたね。国の神話を歪めることなど、その国の人間にとっては、簡単に受けいられるものではないですよ。……まあ、それに手を貸した私も、偉そうなことを申せませんが。さらに言うならば、マリアドルでハイサル殿下がクーデターを起こすのを、ギルダムは見越してました。それでその不安定な国情につけ込んで一気にマリアドルを攻めようと考えたわけです。この機にトリン自治区と改めて手を結ぼうとしたのには、そういう意味もあります」


 ファニエルの言の前に、マジーグは言葉を失う。まさか、祖国を巡るギルダムの動きが、そんなに用意周到なものだったとは、思いもしないことだったのだ。


 黙りこくってしまったマジーグの前で、ファニエルはなおも語り続ける。


「ともあれ閣下、あなたがギルダムへと降ったことで、アネシュカの拉致はマリアドルの仕業だと、帝国を通じてトリン自治政府にも伝わることになるでしょう。これはロウシャルをマリアドル攻撃に動かしやすくなりますよ。内政干渉ほかなりませんからね。しかも、アネシュカは一市民にすぎないと言えども、王宮に侵入してロウシャル出席の審議会中に攫ったとなれば、なおのことです。つまり、ライル皇女に信じられようが信じられまいが、あなたの行動には意味があったのですよ」

「ならば、俺が万が一、お前の絵を外しても、結局、状況は変わらぬといったところか……。お前は本当に、食えぬ奴だな……」

「まあ、そう怖い顔をしないでください。とにかく、ワイダ様の件はギルダムの、アネシュカの件はトリン自治政府の、マリアドル攻めのいい口実になるわけです。つまり、ハイサル殿下は墓穴を掘ったのですよ」


 

 眉を顰めて、最後には牢の中で不貞腐れたように顔を背けてしまったマジーグの前で、ファニエルはそう、長い話を終えた。

 それを見計らって、そのまま傍らでじっと黙っていたトルトが、師に声を掛ける。


「それはそうと、先生。皇女様にお会いするなら、急がねえと!」


 トルトの言葉にファニエルが頷いた。そして彼は再び身を翻して、今度こそと牢の外へと去って行く。

 すると、ファニエルの後ろ姿をただ見送るしかないマジーグに向かって、トルトが檄を飛ばした。


「なあ、おっさん! あとは俺らがなんとかするから、あんたはアネシュカを絶対助けろよ! それが出来なかったらぶん殴るくらいじゃすまねぇからな!」

「わかっている」


 マジーグの短くも決意を秘めた返答が牢に響きわたった。それを確かめると、トルトも慌ただしく赤い髪を揺らして師の後を追う。


 牢のなかの男の視線の向こうに、銀と赤のふたつの頭が揺れて、消えていく。



 仄かな光しか届かぬ牢を出ると、ことさらに窓から差し込む陽光が眩しい。

 トルトは目を細めながら、ようやく追いついたファニエルの背中に、ずっとマジーグの前では口に出すのを堪えていた疑問を放った。


「……先生、どうして、先生が描いた絵でなく、俺の描いた絵を正解としたのですか?」


 対してファニエルは振り返ることもせず、足も止めることすらしない。

 ただ静かな声で、トルトに背を向けたまま答える。


「お前はきっと、私よりもアネシュカのことを愛している。それは、マジーグ閣下ならなおのことでしょう。だとしたら、お前が描き、彼が選んだ絵こそ、真のアネシュカなのではないですか」


 師の淡々とした答えにトルトは声を詰らせた。しかしそれでもなんとか、頭に疼く問いを投げかける。


「ですが……そもそも、絵に正解など、あるんでしょうか?」

「絵の対象をより愛する者が描き、そして、それ以上に愛している人間が選んだ。その絵が本物でないわけは、ないじゃないですか。違いますか? トルト」

「でも、俺の絵なんか、先生に比べたらまだまだですよ?」

「もちろん、絵の技量はお前より私の方が上です。ですが、絵は技量の優劣で決まるほど、単純なものではないと私は最近、思うようになりましてね。そのことを実証してみたかったんです。それで、閣下を使わせていただいただけですよ」


 トルトの先を行くファニエルの顔は見えない。

 だから、師がどんな顔をしてそう答えたかを彼には確かめることが出来ない。しかしながらトルトには、そのファニエルの声音は、自分の知る師にしては楽しそうに聞こえた。


 そのことが意外で、なんと語を継ぐべきかわからなくなってしまったトルトの前で、ファニエルは独り言とも付かぬ言葉を、呟く。


「どうやら芸術とは、ときに技量より、もっと奥深いものが意味を持つようですね。今回のことでそれがよくわかりました。ふむ……だから絵は、奥深く、面白い」


 それから彼は、銀髪を掻き上げながら、己に問うような声音でこう、ちいさく、漏らしたのだった。


「それにしても、私はなぜ、いまだに絵を描いているのでしょうね……なぜ、やめられないのでしょうね……こんな気持ちを味わいながらも、私が絵筆を握ることをやめられないのは、いったい、なぜなのか……」

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