第三十五話 どちらの絵が彼女か

 ――いったい何をするつもりなんだ、ファニエル。十年経ってもあいつの食えなさは、変わらぬな。


 閣下を絵で試したい、というなんとも謎めいた言葉を残して、ファニエルはその夜、解せぬ様子のトルトを連れて去って行ったのだが、残されたマジーグと言えば、牢のなかでまんじりともせぬ心持ちで朝を迎えることとなった。


 泥が沈む水たまりを避けるように寝転べば、マジーグの長身は広くもない牢の面積をほぼ占めてしまう。彼は縮こまるように暗がりに身を横たえながら、ぼんやりと元宮廷絵師の思惑をあれこれ思い描く。

 だが、これという考えには行き着かない。


 ――俺を絵で試す、と言っていたな。どういうことなのだ。俺には、芸術など分からぬぞ。


 マジーグは眉間に皺を寄せながら、黒髪を掻きむしる。いつかの遠い日、アネシュカの前でギルスを描いて見せたときの、心の臓の鼓動を思い返す。


 彼は生来、芸術嫌いであった。というか、長いこと興味が持てなかった。その機会もなかった。しかしながら、アネシュカと出逢い、彼女と絵で心を通わせるうちに、理解は出来ずとも、芸術は人間の内面をも揺るがすのだ、ということを知った。なぜなら他ならぬマジーグ自身が、アネシュカの絵に出会うことで、ままならぬ生に向き合う苦しさを和らげられたのだから。


 しかしいまなお、絵画をはじめとした芸術全般に対する学は、ない。門外漢もいいところだろう。その位の自覚は彼にもある。


 ――ともあれ、アネシュカの命が掛かっているのだ。ここは、俺がなんとかしなければならぬ。しかしだ、本音を零せば、アネシュカ、俺は心細いよ。果たして俺は、お前と一緒にチェルデに帰ることができるのだろうか。


 そうして、マジーグの唇から、ぼそり、独り言が漏れ落ち、牢の夜気を揺らす。


「逢いたい……。アネシュカ。俺は、お前に、触れたい……口づけたい」


 底冷えする秋の夜だった。だが彼女を夢想するほどに、思い焦がれるほどに、マジーグの身体は火照り、黒い双眼は煌々と冴えてしまう。結局彼は、そのあとも微睡みのなかに身を委ねることができなかった。


 未来を照らすひかりもまた、マジーグにはいまだ、見えなかった。



 翌朝、とりあえずは食わしてやると言わんばかりに手荒に差し出されるギムダム風の粥を、マジーグが胃に流し込み終えた頃のことだった。


 粗末な朝食を終え、所在なげに牢のなかで空の皿を手に座り込んでいた彼に、監視兵が声をかけてきた。マジーグは、やれやれ、また尋問か、と端正な顔を顰める。

 ところが兵士は、格子越しに皿を受け取りながらこう声をかけてきたのだった。


「お前にまた面会人が来てるぞ。夜中の御仁と同じだ。手早く済ませろよ」

「……ずいぶん早いな」


 マジーグは意外そうに皿を手渡しながら、そう呟いた。

 ファニエルとトルトは、あのあと寝ることもせずに準備していたのだろうか。自分を「絵で試す」ためのあれこれを。


 果たして、そのあとほどなくやってきたふたりの様子を見るに、その推測は当たっているようであった。

 トルトはどこか目が虚ろであるし、反対にファニエルといえば、疲労は見えるものの、琥珀色の瞳はらんらんと夜以上に輝いており、心の昂りを抑えられぬ様子が見て取れる。


 先ほどと違って、廊下の高窓から陽の光が僅かにだが漏れているので、マジーグはそんなふたりの様相をしげしげと眺める。彼らは白い長衣の上に赤色の帯を腰に巻いている。それはギルダムの民族衣装そのもので、どうやらファニエルが帝国に仕えているというのは偽りではないようだった。


 いったいこれから何をされるのかと、緊張した面持ちになったマジーグを見て、ファニエルはくすりと笑い、言う。


「さて……閣下を試す前に、私は確かめておきたいことがあるのですが」

「なんだ?」

「閣下のご覚悟に関してですよ」

「俺の、覚悟だと?」


 マジーグはファニエルを睨みながら質す。


 格子越しのファニエルは、夜と同じく物腰柔らかだ。

 しかし、それだからこそ彼は怖い男なのだということは、長い付き合いであるマジーグには身に染みている。

 思えば、十年前、ロウシャルへの送金の事実を突きつけてやった時のファニエルも、こんな顔をしていた気がする。


「仮に閣下がこのに勝ったとしてです。私が皇女にあなたへの加勢を進言して、それが叶ったとしたら、ギルダムはこれを機に、一気にマリアドル崩しに動くはずです。マリアドルは、それこそ国の存亡を賭けるくらいの危機に襲われることになるでしょう。閣下、あなたの行動を発端に。それでもあなたはいいのですか?」


 ファニエルはマジーグの目前で、淡々と、だがこれ以上ない明瞭な口調で、彼の行動がいかに国情を激変しうるかを語る。マジーグは一瞬息を詰まらせる。


 しかし、次の瞬間吐き出された彼の言葉もまた、明確だった。


「そんなことは、俺がギルダムに降ったときから分かっておる」


 すると、ファニエルが琥珀色の目をすっ、と細める。それから彼はどこか面白げに、微笑むかのように唇を歪めた。


「故国の危機をそんなこと、と仰いますか」

「アネシュカには変えられぬ。俺にとって彼女は、祖国と引き換えにしていいくらいの存在なんだ」

「……なるほど、ならいいでしょう」


 腹を括ったマジーグの返答に、ファニエルは、今度はわかりやすいほどの笑顔を綻ばせた。

 そして、それまで背後に立って、おどおどとその場の様子を見守っていたトルトに振り返り、厳かに声を掛ける。


「トルト、絵を出しなさい」

「……はっ、はい!」


 師の声に弾かれたようにトルトが懐に手を差し伸べる。そして、彼がそこから取り出したのは――。


 二枚の紙片だった。


「この紙には絵が描かれております。これから、マジーグ閣下にはこのどちらかの絵を選んでいただきます」

「……選べば良いのか。てっきり俺に、絵を描かせるのかと思っていたぞ」

「まさか。いくら私とて、そんな意地悪はしませんよ。閣下」


 拍子抜けした顔のマジーグに、ファニエルは笑いかける。だが、それも些か人の悪さを感じさせる笑い顔だ。


 それからファニエルは、格子越しに、マジーグに紙を翳す。こう語を放ちながら。


「さあ、閣下。どちらの絵が、アネシュカですか?」


 突如放たれた、愛しい女の名に黒い目を見開きながら、マジーグが目の前に差し出された二枚の紙を見てみれば――。


 アネシュカが、ふたりいた。


 いや、二枚の紙には、双方、アネシュカが描かれていたのだ。

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