第二十五話 嗤う元副官
その日の夜は、十月にしては冷えた。
マジーグはチェルデに来てはじめて、暖炉に火を焚べることとする。
そして薪がぱちぱちと炎を爆ぜ始めたのを見計らい、火の前から離れると、寝台に寝かせておいたトルトに近づく。
彼の上着を捲れば、腹部に複数穿たれた青黒い痣が目に飛び込んでくる。痛々しい有様だった。
マジーグは棚から薬箱を持ち出し、なかの茶色い瓶を手に取った。そして瓶から液体を布に注ぎ、トルトの腹に触れる。
「内出血してるな。ちょっと我慢しろ」
「いった! いって! もうちょっと丁寧にやってくれよ、おっさん」
「騒ぐな。それにしても、よくこの傷を負いながら、馬で駆けつけてくれたな。礼を言う」
彼がそう言うや否や、トルトは顰めた顔はそのままにぷいっ、と横を向き、マジーグから視線を外す。
「……お前に礼を言われる義理なんか、ねぇよ……」
その口調はなんとも恨めしげで、そのときマジーグは、前から感じていたトルトへの疑念を頭に思い浮かべる。
そして、彼がアネシュカを想っていることをはっきりと思い知り、何を口にすればよいかわからない気持ちを胸に過らせた。
そんなマジーグに声を掛けてきた者がいる。
それまで部屋の隅の椅子に座して、彼とトルトの様子を黙って見守っていたタラムだ。
「すみませんね。サグはちょっと血の気の多い子でしてね」
「サグ?」
「ええ、私の今の一番弟子です。聞き分けのいい良い子ですよ」
「若い男か。お前の好きそうな部下だな」
マジーグは皮肉に口を歪める。
だが、その程度の害意に顔を顰めるタラムではなかった。彼はすっかり白くなった髪を揺らすと、楽しげな笑みを皺だらけの唇に示し、ゆっくりとこう語を放った。
じっとり、ねっとりと、マジーグの心をかき乱すかのように。
彼に、己の過去をも思い出せ、と言わんばかりに。
「よくお分かりで。仕込み甲斐がありますよ。……そうそう、任務以外のことも、いろいろとね。閣下、あなたと同じく」
「……」
タラムの含みある言葉に、マジーグの頬は僅かに震えた。
いまは結んでいない黒く長い髪がふわ、と揺れ、暖炉の炎が醸し出す陰影を蠢かす。一方のタラムといえば、沈黙の帷が落ちた部屋のなか、うっすらと微笑んで、かつての上官を見つめるのみだ。
いまや齢六十をとうに過ぎ、髪は白く、皺は前以上に深く顔に刻まれているというのに、彼の不気味な笑みと鋭い眼光は、いまだマジーグを怯えさせるに十二分だった。
しかしいつまでも、黙りこくっているわけにもいかない。やがてマジーグは意を決したように喉から声を絞り出し、タラムを睨みつけ、質す。
「お前の狙いは、なんなんだ」
するとタラムが、ほう、と息を深くつく。それから彼が明かした情報は、マジーグにとって意外極まるものでしかなかった。
「マリアドルでは政変が起きております」
「……なんだと?」
暖炉の火は赤々と燃え続けているというのに、その瞬間、部屋の空気がすぅーっ、と冷えたような気がしたのは、果たして気のせいだったかどうか。マジーグはタラムの思わぬ言葉に思わず震える。その悪寒は続くタラムの言葉を聞くにあたり、体内の臓腑を覆い尽くしていく。
「まだ内外には明らかにしておりませんが、ハイサル殿下が軍を率いて、クーデターを起こしました。昨日の朝のことです」
「ハイサル殿下が? ……まさか」
「ハイサル殿下は王位継承順位は第三位でしかありませんが、軍部には他の殿下を差し置いて人気がありますからな。それに、軍部ではチェルデをせっかく占領しつつも、帝国に攻め込まれ、トリンをロウシャルに明け渡さざるを得なかった皇帝陛下の弱腰に批判的な者も多い」
タラムは皺の寄った顎に皮肉めいた笑みを宿したまま、淡々と語を継ぐ。
そして、彼がこう続けたとき、マジーグの胸は深く穿たれた。
「そのことは、十年前、占領下だったトリンを、みすみす手離す要因をお作りになった閣下が、一番よくお分かりではないですか?」
マジーグにはあまりにも痛い一言だった。
しかしながら、タラムの言葉に偽りないことも、彼はこの十年の経験で深く思い知っている。
ともあれ、心の臓をこれ以上なくかき乱されながらも、マジーグはかつての君主の安否を確かめずにはいられなかった。
「……陛下はご無事なのか?」
それを耳にして、タラムは静かに口の端を歪めた。そして、ゆっくりと椅子の上で膝を組み直してから、どこか呆れたように口を開く。
「閣下、ほんとうに、あなたはお人がいいですな。御身を三十年の長きにわたって縛り付けた人間の安否を案ずるとはね。お変わりになられたものです。アネシュカはそこまで、あなたをお変えになったのですね。羨ましいことですな」
「お前も変わればいい。お前だっていつまでも、生まれと育ちに囚われて生きるのは虚しかろう」
「なにを仰います」
目前のタラムが、今度ははっきりと笑みを頬に閃めかせたのがマジーグの双眼に映る。そして、自分をまっすぐ見据え、ゆっくりと己の信条を語るその姿も。
「私は主義主張に興味はございません。ただ、運命に逆らわない生き方をしているだけです。それがたまたまあなたと相容れない、それだけのことですよ。そう……血濡れた運命に抗って故国を逃れたあなたとは、ね」
「戯言を……!」
堪らず、長髪を振り乱しながら語を荒げたマジーグを、タラムは面白いものでも見るような視線で嬲る。
「お褒めいただきなによりですな。ともあれ、あなたは、いまだ、マリアドルにとり有益な人間なのです。血濡れのマジーグ。その名から、いまさら逃れられない程度には。まあ、そんなわけで、ハイサル殿下は閣下のご帰還を所望しておいでなのです」
「……そっ、そんなことのために、お前はアネシュカをあんな目に遭わせたのかよ!」
突如、それまで黙って寝台に横たわり、マジーグらの会話に耳を傾けていたトルトが声を爆ぜさせた。
赤い髪の青年は、ぎらぎらと燃える瞳でふたりのマリアドル人を睨みつけていた。憤懣やるかたない、といった形相だ。
「なら! このおっさんだけを連れて行けば済む話じゃねーか! なんでアネシュカを巻き込んだんだよ!」
すると、大事なところで話の腰を折られたタラムが、トルトを冷めた目で見つめながら立ち上がり、寝台に近づく。
その背筋は歳をとってもなおまっすぐに伸びている。そして、懐に潜ませていた短刀を目にも止まらぬ速さで差し出し、トルトの首筋に突きつけた動作もまた、恐ろしいほどの俊敏さだった。
トルトの口から悲鳴が上がる。
「ぎゃー! なにしやがる! この人非人!」
「何とでもお言いなさい。仕方ないのですよ。私には、アネシュカを人質に取る以外に、閣下に帰還を納得していただく手段が思いつかなかったものですから。……それはそうとして、あなたはどうしましょうかね。ここに残しておくと、アネシュカ拉致がマリアドルの仕業であるとトリン自治政府にばれてしまうのですが」
「おっ、俺の傷の手当てを黙って眺めていながら……いまさら、こっ、殺そう、ってのか? あんた、めちゃくちゃ性格悪いな? 信じられねぇ!」
「おい! タラム、やめろ!」
タラムが暖炉の炎に鈍く光る刃を、喚くトルトの喉元にかざしたのを見て、マジーグは叫んだ。そして短刀を手にしたタラムの右腕を強く掴み、元副官を睨みつける。
「この男は、今回の件に関係ないだろう!」
「相変わらずあなたは甘いですな、閣下。それはそうと、閣下はどうされるのです? このまま私とマリアドルに戻っていただけるのですか? それによって、アネシュカだけでなく、この男の扱いも違ってくるんですけどね」
「……お前……」
さらり、とした口調で己を脅迫してみせるタラムにマジーグは慄然と語を零した。
そして、己の退路が絶たれたことを、知る。
彼は鷹のような黒い目を床に落として、暫し口を閉ざした。そうすることで、心の内で、残酷な己の運命を受け入れる覚悟を整えるかのように。
同時に、それにしてもあまりにも短い安寧であった、とマジーグは意識の片隅で呆れ果てる。今朝まで普通にあったアネシュカとの幸せな暮らしは、結局、己の生においては一瞬の幻であったことを深く思い知るにあたり、心の臓にぎりぎりと血の滲むような痛みが走る。
――これが、俺の人生なのか。しかも、今度は何よりも大切なアネシュカを奪われるやり方で、俺は闇のなかへと再び呼び寄せられようとしている。俺は、いったい――。
そこまでマジーグが思ったときのことだ。トルトが再び大きく叫んだ。
「な、なんなら、お、俺もマリアドルに連れて行けよ!」
「なぜ、あなたを? なんの役に立つというのです」
呆れたように寝台の上のトルトを見下ろしたタラムに、赤い髪の青年は必死に食ってかかる。
「わっかんねーけど、いまここで殺されるよりかはマシだろうが! それに!」
「それに?」
「それに! 俺は、お前らからアネシュカを取り戻してやりたいんだよ!」
トルトの絶叫に、タラムは思わず苦笑を漏らした。それから、マジーグに掴まれたままだった右腕を動かし、懐に短刀をゆっくりと戻す。
「姫を守る勇者気取りですか。……仕方ないですねぇ」
そうちいさく笑ったタラムが、今度はマジーグの目前で、また懐から何かを差し出していた。
彼が手にしていたのは、金の飾りが煌めく組紐だった。
そして、紐をマジーグのいかつい掌に載せながら、口上を述べる。
「では、ご覚悟をお見せくださいませ」
マジーグが無言のまま、タラムの手から紐を受け取る。
そして、両手で長い黒髪を纏めあげると、ゆっくりとした動作で、髪を三つ編みに結い上げる。
やがて、マジーグが髪を組紐で留め終わったのを確かめると、タラムは満足そうに息を吐いた。
「よろしい。それでこそマリアドルの武人です、マジーグ閣下」
マジーグの視線はなおも床に落ちたままだ。
暖炉の赤い火に揺らめく、長髪を結った自身の影が目に入るに及び、彼の心は掻きむしられるような激情に襲われる。
しかしながら、いまのマジーグに、再び訪れた残酷な生を逃れる術は、なにも、なかった。
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