第十八話 絵師は微笑む

「これがロウシャルの軍から、我が軍に放たれたやじりです」


 手袋をしたタラムが、マジーグに黄土色に変色した矢をかざす。

 マジーグもまた、白い手袋をしたまま、慎重に矢を手に取り、顔の前に持ち上げると、その匂いを嗅ぐ。そして、忌々しげに呻いた。


「やはり、間違いない。この匂いはカゾの実の毒だ」


 ロウシャルの蜂起からひと月。

 またひとつ新しい年を重ねたチェルデ国内の戦況は、激しく移り変わりっていた。


 戦死していたとされていたロウシャルが率いるチェルデ軍の進撃は素早かった。年の暮れ、ロウシャルは国境地域にどこからともなく姿を現すや、その地に集結しつつあったテェルデ軍勢を纏め上げ、すかさず反撃に出たのである。そして彼の軍勢は、あっという間にマリアドル軍を押し戻した。


 勿論、油断はあったとはいえ、チェルデ各所を押さえていたマリアドル軍が劣っていたわけではない。

 しかし、残党の寄せ集めと当初思われていたロウシャル軍は、不自然なほどに軍備に隙がなかった。装備面では砦を落す大型の投石器を構え、人員面では外国人らによる傭兵により軍勢を整えていると言った充足ぶりだ。

 そして、そこに占領に甘んじていたチェルデ人たちによる、有形無形の協力が加わった。と、なれば、最初の砦が落とすのに数日の時間しか、ロウシャルは必要としなかったのだ。


 しかし、それ以上にマリアドル軍の全兵士を慄然とさせたのは、ロウシャル軍の用いたある武器であった。


 それがカゾの実の毒による、毒矢である。


 カゾは、チェルデにもマリアドルにもない植物である。

 大陸南部を支配するギルダムでのみ自生し、その実からは猛毒が採取される。それは神経を冒す毒で、少量でも体内に入れば即座に死に至る。

 そのカゾの毒で、ロウシャルは大々的に討って出たのであった。最初の戦闘で、少なからぬ数の歩兵が即死し、騎兵も馬を狙われ総崩れになると、マリアドル軍は総毛立った。なにせ致死性の毒で総攻撃をしてくるのである。

 そして、カゾの毒の解毒剤は、ギルダムでしか手に入らない。


 よって、マリアドル軍の士気の低下は著しく、本国から援軍を送ってもなお、ロウシャルの優位を覆すことが出来ずにいる。


 そして、マジーグにとって最悪だったのは、三日前、ロウシャルがマリアドルとチェルデ王都トリンの間に跨がる地域を早々に落し、昨日に至り、遂にトリンの城壁に肉薄したことだった。

 それはマジーグが率いるトリンの占領軍と、マリアドル本国の連絡路が途絶したことを意味する。


 つまり、いまや、孤立しているのはマジーグの方だったのだ。

 


「してやられたな……」


 マジーグは眉間に皺を寄せた。

 傍に控えるタラムが語を継ぐ。その声はいつも通り淡々としているものの、表情は険しい。


「どうやら、ロウシャルはギルダムに潜伏し、この数ヶ月の間、帝国を味方に引き入れるべく暗躍していたようですな」

「だが、帝国軍は動いていないぞ。カゾの実をロウシャルが大量に手中にしているのは間違いないが、帝国は我が国の抗議に対して、国としてチェルデに武器やカゾの実を提供したことは認めていない。それは全て、ロウシャルが独自に手に入れたのだろうと、シラを切るばかりだ。ロウシャルにカゾの実を買い占め、さらに軍備をあそこまで整えるほどの資金源があるとは思えんのだが」

「帝国は狡猾ですからな。先日の戦闘で捕えた将官から得た情報では、どうやらロウシャルはトリン解放の折には、トリンで商売をするギルダム商人に課す関税率の大幅な引き下げを持ちかけたようなのです。それで帝国はチェルデに加勢はせずとも、我が国とチェルデの争いに対しては中立を貫くことを承諾したとか」

「帝国は我が国の約束した鉱山の採掘権よりも、チェルデでの商売を取ったわけか。せっかく長い時間をかけて、皇帝お気に入りの寵姫を瑠璃石ラピスラズリ狂いにしてやったというのにな。さぞかしの皇帝は、あの女から不服を申し立てられているだろうよ」


 マジーグが冷たく嘲笑う。

 それはギルダムの統治者に向けた冷笑だったのか、それとも己の長年の策謀が頓挫したことへの嘲りだったのか、マジーグ自身にも判別がつかない。とにかくそのときの彼は、この忌々しい状況を嗤うことでしか己を保てなかったのだ。


「ともかく、閣下。我々が、本国からの援軍がロウシャルを背後から切り崩すまで持ち堪えねば、このままトリンを失うこともあり得ます」

「分かっている。ロウシャルがトリンに攻撃を仕掛けてくるまでにはあとどのくらい、猶予がある?」

「おそらく、あと半日ほどでしょう。……ですが閣下、私には、いま、至急、それとは別に確かめたいことがあるのですが」


 そのタラムの声音は、マジーグの背をどこか、ぞわり、とさせる響きがあり、彼は副官を見返す。

 そして、次に放たれたタラムとの会話にマジーグは稲妻に打たれたような衝撃を受ける。


「この王宮に、かのロウシャル将軍の知己であった者がおります」

「……何奴だ?」


 その問いかけに対するタラムの答えを聞いたとき、黒い双眼が、苛烈なひかりを帯び、かっ、と見開かられた。


 それは、マジーグの頭のなかで、全ての糸が繋がった瞬間でもあった。



 一月の寒気が満ちる早朝の工房に、ひとり立つ、ファニエルの吐いた白い息が散る。


 ――おそらく、いま密かに描いているこの絵が世に出ることはないだろうが、そうだとしても、絵を描くのはやはり楽しいものなのだな。


 ファニエルは絵筆を動かしながら、そう胸の中で独り言つ。

 そのとき、彼の心はかつてない穏やかさに溢れているのに気付き、ファニエルはそんな己を意外に思う。

 そして、これまでの絵描きとしての自分の軌跡に思いを馳せる。


 ――この自由な感覚。思えば、そうだ、私も絵を描き始めた幼い頃には、これが確かに体内にあった。だが、それから宮廷絵師を目指して工房に弟子入りし、そこで過酷な競争に晒されるようになってからは、無縁の感覚となってしまっていたな。血を吐くような努力の挙句、筆頭宮廷絵師の位を得ても、そうだった。


 底冷えした冬の朝の空気はなおも彼の手を凍させる。しかし、ファニエルは両手を擦り合わせて指を温めながら、絵筆を走らせた。


 ――筆頭宮廷絵師になってみれば、焦りからは解放されると思っていたのだがな。だが、現実は逆だった。焦りは下から追われる焦燥感に姿を変え、より苛烈になった。他人への嫉妬に苦しむだけでなく、自分の才能への絶望に足掻くようになっていった。気がつけば、死を望むほどに。そんな数年だった。絵を描いていて楽しいなど、思えるわけなかった。しかし、いま、自分は――。


 そのとき、工房の扉が大きな音を立てて開いた。ファニエルはいつもの微笑みを顔に湛えて、その方角を見やる。


 そこには、朝のひかりに包まれて、黒ずくめの装束に身を包んだ若きチェルデ総督がこれ以上なく厳しい顔で屹立していた。

 それを見てもファニエルの柔らかい笑みは微動だにしない。

 ただ、遂にこのときが来たのか、との感慨が僅かに胸に迫り上がるくらいだ。

 だからファニエルの心は、マジーグの口から放たれた詰問にも揺るぐことすらない。


「……ファニエル。ロウシャルの不自然なほどの軍備を支える資金源は、お前だな。貴様は、密かにトリンの画材商を通じて、俺が壁画のために渡した金を奴に横流ししていたな」


 対してファニエルはマジーグの言葉を否定も肯定もせず、それまで描いていた絵を画板から外し、壁際に寄せながら、ただその場で微笑むのみである。


「魂を敵国に売った芸術家、と見せかけておいて、真の姿は救国の英雄か。貴様はなかなかの策士だよ」


 マジーグが工房のなかにゆっくりと歩を進めながら、ファニエルを問い質す。その鷹のような双眼が憎々しげに燃えているのを見て、ファニエルは初めて唇を動かした。


「そんな、大げさな。買い被りです、閣下」

「……なんだと?」

「私は、私にしか描き得ない絵を描きたかっただけですよ。それまで自分たちが崇めていた神を貶める絵など、誰もが描けるわけがありませし、そんな機会も稀有ですからね。そのとして、余った金を友人に送っただけです」


 さらり、と己に掛けられた疑惑を肯定してみせたファニエルにマジーグは絶句した。

 目の前に立つ宮廷絵師の微笑みはなおも穏やかだ。しかし、そのときマジーグは、彼の琥珀色の瞳に、芸術の神に取り憑かれた者ならではの恐れを知らぬひかりを認め、手を長剣にかけながらも、思わず後ずさった。


 すると、そんな彼を背後から激しく突き飛ばした者がいる。そして、続いて響き渡った甲高い声には、嫌なほど聞き覚えがあった。


「逃げて! 先生! 逃げてください!」


 果たして、工房の入り口にうつ伏せに倒された己の身体を掴むのは、いつのまにか工房の入口にて全ての話を耳にしていたアネシュカだった。

 マジーグは彼女を跳ね除けようと踠くが、アネシュカは髪を振り乱し、マジーグの上に馬乗りになって彼を押さえつける。必死の形相で、渾身の力を持って。


 その隙に、ファニエルが身を翻して工房から飛び出していくのが、マジーグの視界を掠める。その表情はなおも微笑んだままだ。


「貴様ぁっ! 待て!」

「閣下! 先生を追わないで! お願いです!」


 数瞬後、マジーグは叫ぶアネシュカをようやく突き離して、立ち上がる。だが、そのときにはもうファニエルの姿は消えていた。


 すぐ隣には、息を弾ませながら、土の上に座り込んだアネシュカがいる。

 亜麻色の長い髪は砂に汚れ、ペリドット色の大きな瞳は自分を見据えている。


 誰よりも愛しいと思う者の、美しい瞳だった。

 あの夜以来、自分だけを見ていてほしい、自分だけのものにしてしまいたいと密かに願い続けてきた瞳だった。


 そう思うごとに、マジーグの心を激情が掻き乱す。

 そして彼は、黒い三つ編みを激しく揺らしながら、遂にこう叫ぶことを抑えられなかった。


「俺より、あいつを取るのか、アネシュカ! 俺は、こんなにも、お前に心乱されているというのに!」


 ペリドット色の瞳を見開いた少女の顔が目の前で揺れる。

 マジーグの心のなかでも、なんと俺は公私混同極まりないことを口にしているのだ、と激しく理性が叫んでは、いた。しかし、彼はさらなる怒りと嫉妬の叫びを爆ぜさせようとまた口を開く。


 だが、そのとき、大きな地響きが王都を揺るがした。マジーグには既視感のある音と振動だった。


 ほどなくマジーグを見つけ駆け寄ってきた兵士が、ロウシャル軍が城壁への投石を始めたと口早に報告する。

 マジーグが指示を出すべく、黒いマントを翻し、工房の前から去っていく。その様子をアネシュカはただ黙って見ているしか術がなかった。


 彼から自分に寄せられた、あまりにも大きい思慕に、胸を激しく高鳴らせながら。

 心の臓の鼓動が、どき、どき、どきり、と熱を持って、アネシュカのなかで脈打った。

 あの抱きしめられた夜以来、二度目の感覚だった。



 トリン市内はロウシャル軍の投石開始により、混乱と困惑に揺れていた。


「ロウシャル将軍が、助けに来てくれたなら心強い。トリンの解放も近いんじゃないか?」

「だとしても、マリアドル軍からすれば、我ら市民はいい人質だ。もしそう扱われたら、どうすればいいのだ」

「城壁に向けた石が市内に飛び込んで来ないとも、限らんからなあ。無碍には喜べねえよ」


 口々に市民が路上に集まっては、絶え間ない振動が続く王都の今後を、期待と不安が籠もった表情で語り合う。その横を、王宮から城壁に向かうマリアドル軍が駆け抜けていく。誰もが落ち着かず、トリンがいったいどうなるか、自分たちはどう動けば良いか、迷い、動揺している。


 防衛に当たるマリアドル軍も同様であった。投石器による攻撃は予測していたものの、思った以上にその破壊力は強烈で、また攻撃の精度もかなり上だ。


ロウシャル軍あいつらは、なんでこんな武器を手に入れられたんだ?」

「しかも近づけばカゾの実の毒矢で襲ってくるっていうじゃないか。手の出しようがないとはこのことだ」


 兵士の間からそのような悲鳴が漏れ、なかには怯えて持ち場を放棄する者も出る有り様だ。上官の怒号が飛び、その頭上からまた、城壁の破片と巨大な石が落ちてくる。


 そのとき、王都の誰もが、ちょっとした恐慌状態に陥っていたのだ。そして、その隙間を縫って城外へ向けて駆ける者がいる。

 ファニエルだった。


「おい、あんた、どこに向かってるんだ? 下手すると石に当たって死んじまうよ!」


 市街を城門に向かって駆け抜ける彼に、そう声を掛ける市民もいる。だが彼の足は止まらない。

 そして息を弾ませながらも、顔にはいつもの微笑を湛えたままだ。


 ――こうして、逃げても、私が助かる道があるとは限らないのだがな。だが、考えたとおりの結末になっても、あそこでマジーグに捕えられるよりは意味のある死に方が出来るだろう。


 そう考えている間に、彼の足は城壁にいくつかある城門のひとつに辿り着いていた。

 そこの城壁は激しく投石を受けた後らしく、城壁が無残に半壊しているのが見える。そしてマリアドル軍兵士も、その場を放棄してしまったようだった。

 そして、城壁から身をせり出せば、すぐ下の平原まで展開しているロウシャル軍の軍勢が見えた。


 ――ならば、行くしかないな。


 そう覚悟を決めるや、ファニエルは城壁から飛び降りた。

 途端に彼の身体は、すぐ下にある崩れた石へと落下していく。だが、ファニエルはどうにか均衡を保ち、横倒しになった石の上に着地することができた。それが出来れば、後はそれを繰り返すのみだった。

 ファニエルは慎重に石を選んで飛び、そして、ついには、城壁下の地表に着地することに成功する。


 そして、トリン市内から脱出してきた彼に目を留めたロウシャル軍の兵士数名が、慌てて駆け寄ってくる。

 彼らはファニエルの素性を確かめるべく剣をかざし、鋭く彼に誰何の問いを投げてきた。

 ファニエルの唇が楽しげに歪んだ。


 ――さあ、ここで名乗って、私はと判断されるのか。


 その賭けを楽しむようにファニエルは厳かに、自分の身分を名乗った。こう心のなかで思いながら。


 ――まあ所詮、どちらであろうと、私の勝ちでしかないのだがな。


「私はチェルデ王宮筆頭宮廷絵師の、ラーツ・ファニエルだ」


 途端に兵士らの顔が険しくなる。

 そして、彼らが上げた声から、ファニエルは自分の命運を知るのだ。


「ラーツ・ファニエルって……あっ、あの! あいつか?」

「あの、王宮前広場の壁画の改竄に、進んで手を貸したとかいう?」


 ファニエルはそれを聞いて思わず微笑んだ。

 であったか、とひとり心のなかで頷く。そのうえで、そのことを特に悔しく感じることのない自分に、納得する。

 だから、彼は不遜なまでに力強く、こう語を継いだ。


「ああ、そうだ。私が創世神話の壁画を改竄した、張本人だ」


 兵士たちの顔が強張っていく有り様を、戦場を渡る冬の風のなか、ファニエルはただ、楽しげに眺めていた。



 ロウシャル軍に捕えられたファニエルが、壁画改竄に進んで手を貸したという罪状で、国家反逆罪で裁かれる、という凶報が、アネシュカの耳にまで届いたのは、その翌日のことだった。


 柔らかく微笑む師の顔が、アネシュカの脳裏を過ぎった。

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