第十七話 それでも、あなたのために絵を描く

 やけに眩しい陽のひかりだ。

 

 ――ああ、これはあの夏の陽の日差しじゃないか。

 覚えている。

 否、忘れることなどできない。

 素足を浸す川の水の冷たさも。

 手のなかを躍る川魚の影も。

 それを捕まえて俺に笑いかける、お前の屈託のない笑顔も。

 ――そして、流されていくお前の手が、するり、俺の手から離れていく、あの感触も――。


 それから数年後。


 俺が初めて殺した人間は、とある貴族の娘だった。

「最初の任務には、ご自身より弱い人間の方がいいでしょう。それに、その方がご覚悟もつくというものです」

 そう言ったのは、そうだ、あいつだ。タラムだったな。

 火災に見せかけて命を絶つ。たしか、そういう仕事だった。

 だけど、俺はいまも忘れられない。

 ――どうして、そんなことをするのですか?

 そう恐怖に怯える娘の喉元を、ひと思いに捻ったときの、あの、あのときの気持ちを。

 その娘が、俺と同い年だったと知ったのは、全ての任務が終わった後のことだった――。



 自分の叫び声で覚醒したマジーグは、黒い双眼をかっ、と押し上げた。

 脂汗が額を伝い、首筋へと滴り落ちる気配がする。長い黒髪がじっとりと濡れ、頬にべったりと張り付いている。


 ――また……か……。


 息を弾ませながらも、寝台に転がり動けずにいたマジーグは、ゆらり、揺れる天蓋の影を虚ろな眼差しで見上げた。すると、そんな自分の上を横切るものがある。天蓋の布ではない、なにかの気配がする。

 マジーグは我に返って、横に置いてあった長剣を掴みながら、勢いよく身体を持ち上げた。


「閣下……」

「……お前か」


 マジーグは視界に映り込んだペリドット色の瞳を見て低く呻いた。アネシュカが、寝台の横に腰掛けている。

 そして、彼女が手にしているハンカチが、ぐっしょりと濡れているのは、自分の汗を拭いていたからだということを悟るに及び、この少女の前で自分は何回醜態を晒したら気が済むのだ、と内心、可笑しくなる。

 しかし、口にしたのは別のことだ。


「タラムの差し金か……」

「……」


 アネシュカがあどけない顔を曇らせる。

 あの、困ったときに彼女がする、自分が見知ってしまった表情だった。マジーグは嗤う。そして、己を嘲る口調で語を継いだ。


「なにをしに来たんだ。俺に壁画の文句をまくし立てるためか? それとも、神話の焚書に対する抗議か?」


 アネシュカはなおも困ったようにペリドット色の瞳を翳らせ、ただ、黙りこくったまま自分を見ている。


「それとも、こんなの俺を嘲りにか?」


 そこまでマジーグが冷笑したところで、少女がようやく唇を動かした。

 ちいさな、だが、はっきりとした声が、マジーグの耳に刻まれる。


「絵を、描きに来ました」

「……帰ってくれ」


 寝台に半身を起こしたままの姿勢のまま、マジーグは低く唸った。しかし、アネシュカは動かない。これ以上ない真剣な眼差しで、彼女は言う。


「私は、帰れません。総督閣下のそんなご様子を、見てしまったら」


 困り顔ながら、がんと譲らぬ様子のアネシュカを見て、マジーグはひとり思う。


 ――ああ、そうだ。この少女はそういう女だった。だからこそ、俺は彼女に興味を持ち、知りたいと思った。理解されたいと思った。裏切るのが辛いと思った。それだけでない、この地獄のような三月を経て、俺は自覚してしまったんだ。俺は――。


 そこまで考えたとき、マジーグのなかでなにかが爆ぜた。

 そうとなってしまえば、彼は気付いてしまったアネシュカへの慕情を隠すべく、こう弱々しく叫ぶしか手がなかったのだ。


「お前を見ることで、俺は却って辛くなるんだ……!」


 するとアネシュカが答える。ぐい、とマジーグの顔に幼さの残る顔を近づけながら。


「私を、見なくていいです」


 そして、亜麻色の髪の少女は、マジーグにこう言ったのだった。静かに。


「閣下は、私の絵だけを、見て下さればいいのです」


 その言葉にマジーグは、はっ、と息をのむ。刹那、黒い瞳に宿っていた険しい色が薄くなる。

 それを見てアネシュカが微笑んだ。それから、彼女はゆっくりと、こうマジーグに告げる。

 まるで、悪霊に怯え続ける男を慈しむかのように。


「さあ、夜が更けてしまいます。絵を描きましょう。閣下、今宵はなんの絵を描けば良いですか?」


 マジーグは俯く。

 ばさり、と長い三つ編みを揺らしながら。そして彼はそのままの姿勢でしばらく静かになにかを考えていたが、やがて、アネシュカの顔を見上げると、ちいさくこう呟いた。


「もう一度、あの庭の絵を描いてくれ」



 それから、仄暗い部屋のなか、アネシュカが帳面に絵筆を走らせる様子を、マジーグはただ見つめていた。

 以前と同じく、ふたりは蝋燭のひかりのなか、向かい合わせになり椅子に腰掛けていた。テーブルの上には絵具が広がり、それをアネシュカが代わり代わりに手にしては、紙に緑の庭を描いていく。


 アネシュカは祈るような気持ちで、手を動かしていた。


 ――どうか、どうか、閣下のお心が休まるように。


 胸にはこの三月の出来事が走馬灯のように広がる。あの、壁画の改竄を指示しに彼が工房を訪れたときの光景が胸に満ちる。

 そのときのマジーグの冷たい声も、嘲笑に満ちた顔も。


 ――だけど。


 アネシュカは絵筆を滑らせながら、心のなかで囁いた。


 ――この方がなにを望み、私の国にどんな酷いことをしているかは、私は今、考えない。大事なのは、今、目の前にいるこの人が、楽になること。私の絵で、少しでも救われること。だって、閣下は、私と同じ人間なんだもの。だとしたら、たとえ立場が違うとしても、人が同じ人を救うことは、おかしいことじゃ、ないわ。だから、私は閣下のために絵を描くのよ。


 絵は仕上げの段階に入っていた。

 アネシュカはデュランタの花を緑に添えるべく、青の絵具を探す。ところが、そのとき手持ちの絵具のなかに、青はなかった。なので、アネシュカは、申し訳なさそうにマジーグにそのことを告げる。

 すると、マジーグが思わぬことを言った。


「なら、花の代わりに、俺の姿を庭のなかに描き加えてはくれぬか」

「……はい」


 頷いたアネシュカは、顔を上げ、マジーグの姿をまじまじと見つめる。

 そして頭のなかで彼の印象を整えると、一気に手を動かし、緑の庭に立つ男の姿を描いた。


 出来上がった絵を見ながら、マジーグがぽつり、と語を零す。


「俺は、この絵の通り、ここへと帰れるのだろうか……?」


 対して、アネシュカはにこり、と笑い、マジーグに語りかける。


「閣下が帰りたいと望んでいれば、帰れますよ」

「俺が望めば?」

「そうです。強く望んでいれば」


 その言葉に、マジーグの瞳が揺れる。ふっ、と、穏やかなひかりに。

 そして、しばしの沈黙の後、彼は、少し恥ずかしそうに、こう、アネシュカに新たな注文をしたのだ。


「その……この俺の隣に、アネシュカ、お前の姿も描き込んでくれぬか」


 マジーグの想定外の言葉に、アネシュカのペリドット色の瞳が見開かれる。

 そんな少女を見ながら、彼はなおも語を継ぐ。その頬は、見間違いでなければ、いささか、赤い。


「できることなら、ギルス……いや、ギムシャを美味そうに食べているお前の姿がいい」


 アネシュカはまたも思わぬマジーグの言葉に驚き、顔をぽかん、とさせる。だが、目の前の男の表情が、それまでになく凪いでいるのに気が付き、彼女は心を躍らせた。


「分かりました!」


 アネシュカはまたも帳面に向き合う。

 マジーグの隣に、他でもない自分の姿を描き入れるのは、正直、くすぐったい。なぜマジーグがそのようなことを望んだかを察する頭脳も、まだ、年若い彼女には、ない。

 だけど、アネシュカは嬉しかった。

 そして、絵を描くのが、楽しかった。楽しくてたまらなかった。


「出来ました!」


 アネシュカは勢いよくマジーグに帳面を差し伸べる。

 そのとき、マジーグのいかつい手がふと、彼女の肌に触れた。


 そして、そのぬくもりを反芻する間もなく、次の瞬間、気が付けばアネシュカはマジーグの逞しい肩に抱き寄せられていた。


「……か、かっ、閣下!?」


 アネシュカは慌てた。

 ペリドット色の瞳を瞬かせながら、自分の亜麻色の髪のなかに顔を埋めたマジーグに困惑する。だが、彼の肌から注ぎ込まれる熱、それに、こう耳元で囁かれた言葉が、じたばた、とさせかけた手足を止めさせた。


「いいのだ、俺は、俺は……お前にだけ分かってもらえれば……それでいい」


 なおも呆然とするアネシュカの耳に、マジーグのちいさな声が響く。


「俺は、アネシュカ、お前が」


 ところが、次の瞬間、重々しい音を立てて、扉がノックされた。

 アネシュカの髪に沈んでいたマジーグの黒い頭が、びくり、と跳ねる。そして、アネシュカから慌てて身体を離し、扉に駆け寄る。よりによって、こんなときに、と思いながら。


 果たして、予想通り、扉の向こうで頭を下げていたのはタラムであった。

 マジーグはアネシュカの視線を背に感じながら、廊下に身を滑り出させ、扉を閉める。

 そしていま、自分の髪が乱れてはいないか、顔は平静を保っているか気にしながら、語を放つ。


「……何用だ」

「申し訳ありません。閣下。ことは急を要しまして」


 そのタラムの声はいつにも増して厳しいものだった。

 マジーグは思わず黒い眉を顰める。そして、副官からの次の報告に、息をのんだ。


「死んだと思われていた、チェルデのロウシャル将軍が生存しておりました。彼はチェルデ西南部に集まりつつあった軍の残党を纏め上げ、トリンに向かって進撃を開始した報がもたらされております」

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