第四章 それでも、私は描きたい

第十六話 天を仰ぎ、命を削って

 工房の窓を、木枯らしが、みしみし、揺らす。


 初冬の冷気が満ちる部屋のなかでは、今日も絵画工房の弟子たちが、黙々と作業している。だが、その空気は外気に劣らず、暗く、冷たく、重い。

 加えて、ファニエルが壁画の描き替えを受託したあの日以来、工房の人数はまたも激減していた。師の行動を承服しかねる、そう言って工房を辞した弟子たちもまた、多かったのである。


 そしてファニエルは、そういう弟子を一切引き止めることはしなかった。ただ浴びせられる罵声を受け流し、微笑みながら、彼らが去りゆく背中を見送るばかりだった。

 よって、みるみるうちに工房は寂しくなり、壁画の改竄が始まって三ヶ月が経過した今は、十人ほどの弟子が働くのみである。


 今日はファニエルの姿は工房内にない。

 マリアドル軍の長に、壁画改竄の進捗を報告しに行っているのか。それとも、よりこまかい絵の描き替えの指示を受けているのか。その事実は皆が思いついていたが、あえて誰も口にすることはしない。


 それでも、王宮前広場から工房内に運び込まれて大分経つ壁画を見るに及び、弟子たちは複雑な思いを隠せない。元の絵が剥がされた壁画の板には、いま、ファニエルの手により新しい下絵が木炭で描かれている。

 そこではマジーグの命令通り、女神バルシが男神ガランに服従を誓っている。着衣を乱した女神の顔は恐怖に怯え、対して男神の顔は猛々しい征服欲に満ちあふれている。

 ファニエルの筆致は前以上に冴え渡っており、下絵の時点でありながら、描かれた神々は目の前で躍りだしそうな迫力に満ちていた。


 その絵を見ながら、工房内の人間は、ぼそぼそと会話を交わしていた。


「本当に……ファニエル先生はなにをお考えなのか」

「あれじゃないか? 壁画を描き替えるのに必要な資金を、先生は総督に要求していただろう。しかも、毎週、自分の元へ直に納めるように。それだろう」

「なるほど、そういえば、もうあれから三月みつきになるが、工房の方に資金が回ってきている気配はないものな」

「とすると、先生は金のために国の文化を売ったのか?」

「そうは思いたくはないが、これでマリアドル側での先生の心証は保証されたも当然だろう。だから、機を見て、金を懐にマリアドルへお逃げになるおつもりなのかもな。あれほどの絵の技量なら、マリアドルでも重用されるだろうし」


 少し離れた場所で、素描の練習を行っていたアネシュカの耳にも、その会話はくっきりと届いていた。彼女は木炭を滑らす帳面に視線を落しながら、人知れず呟いた。


「……ファニエル先生は、そんな人じゃないわよ……」


 すると、その声を耳に留めて近づいてきた者がいる。トルトだった。


「その気持ちは分かるよ」


 アネシュカは耳元でそう囁いた赤髪の少年を、意外な面持ちで見上げる。

 その虚を突かれた少女の視線を受けながら、トルトはアネシュカの隣の椅子に腰を下ろす。眉を顰めて、小声でこう言いながら。


「まあ、そう言われても仕方ない状況であるけどな。でも、俺も先生を信じたいなぁ。芸術家としての魂を売ったわけじゃない、ってこと」


 トルトの嘆きとも取れる言葉を受けてアネシュカは手元の帳面に目を落とす。そして、ぼそり、と呟いた。


「……そういうあんたは、よく逃げ出さなかったわね」

「仕方ないだろ。父さんと母さんに王都で絵師になる、って宣言して故郷を出てきちゃった以上、そんなに簡単に帰れねえよ。それに俺の故郷も、噂だとマリアドル軍に占拠されてるっつーし」

「なんだ……あんたも地方の出身なの。私と一緒じゃない」

「うっせーな。レバ湖ほど田舎じゃねーよ。一緒にするな」


 慌ててトルトが赤髪を揺らし、アネシュカを睨みつけた。

 ふたりの視線が絡み、アネシュカとトルトはいささか落ち着かない気持ちに襲われて、合わせるようにともに窓の外に視線を投げる。


 不機嫌な十二月の曇り空には、王宮前広場の方向から、うっすら黒煙が立ち上っているのが見える。

 この三月、途絶えたことのない、創世神話及び、それに関する本の焚書の煙だった。



 焚書の煙は、宮殿内にあるマジーグの執務室の窓からもよく見えていた。


 禍々しく燻る煙に目を投げながら、マジーグは今日も占領政策の指令を各所に出している。その合間を縫い、部下が報告に訪れ、若き総督の判断を仰ぎに来ていた。


「昨日もトリンの写本工房にて、従来の創世神話の本を作っていた写字生の集団を検挙しております。この処遇はどうしますか?」

「協力者の居場所を吐くだけ吐かせたら、広場にて絞首刑に処せ。いい見せしめになるだろうよ」

「ですが、閣下。あまりに締め付けが過ぎますと、せっかくここまで穏やかだったチェルデ人の我が軍に対する反発が強まりますぞ。地方ではまだチェルデ軍の残党が、散発的といえども抵抗を続けておりますし」

「構わん。それと、没収した本の焚書も、怠りなくな。なんならその本も刑場の隣で燃やしてやれ。刑に処す写字生たちも本望だろう」


 マジーグは冷たく唇を歪ませた。


 しかし、冷徹に残酷な命を言い放ったものの、この三月というもの、マジーグは命令を口にするたびに血反吐を吐いているような苦しみに襲われていた。心が荒れ狂う。俺はこんなことがしたいんじゃない、あの少女を悲しませるようなことはしたくない。そう叫ぶ嵐が心中で吹き荒れているのに、おかしなことに顔は冷静を保って、なおも罪深い言葉を紡いでいく。

 マジーグには、そのような己の矛盾が耐えがたくてならない。


 ――こんなに苦しいのなら、いっそ、今までのように、誰に興味を抱くこともなく、人間を誰彼構わず殺めている方が楽なのではないか。


 マジーグはそうとさえ思ってしまう。

 そして、アネシュカという人間を知りたいと求め、あまつさえ彼女に理解さえ望んでしまった自分の迂闊さを、心の内で嗤い、呪う。


 再び絵を描きに来るように、と帰国前に告げていたものの、あの後、アネシュカが、夜、マジーグの私室を訪れることはなかった。


 当然のことである、と彼はひとり頷く。

 同時に、マジーグが孤独な夜の時間を持て余し、その手が酒に伸びるようになってから久しい。数多の判断力が鈍るから、と酒に手を出すことは、それまで任務の遂行時にささやかな祝杯を上げるときのみに留めていたマジーグだったが、今の彼は酒に救いを求めるしか手がなかった。

 それに、医師から再び処方されるようになった薬湯と酒をともに喉に流し込めば、無理矢理にではあるが、なんとか眠りに就くことが出来る。


 それでも夢のなかでは、なおも、悪霊に悩まされる。しかしながら、寝ても起きても苦悶に足掻くいまの彼には、それもどうでも良くなりつつあっていた。現実と夢の境目すら分からなくなりそうだった。

 つまりは、今現在、常に彼は悪霊に囲まれているような精神状態なのだ。


「それはそれとしてですが。閣下。各地のチェルデ軍の残党なのですが、少し妙な動きをしております」

「……妙?」


 マジーグは我に返り、気に掛かる報告を述べた部下へと向き直った。同時に鷹のような双眼がぎらり、と獰猛に光る。

 しかし、そのひかりは次の言葉を耳にすることで、少し和らいだ。


「はい、抵抗を続けながらも、各部隊がチェルデ西南部の国境付近に集結しつつあるのです」

「ほう。チェルデ西南部というと、ギルダム帝国との境か」

「左様です」

「馬鹿な奴らだ。帝国はなお、我が国についている。ならば、示し合わせて挟み撃ちするだけの話だ。放っておけ。それより、文化政策の方が今の我らには急務だ」


 そう言い捨てるとマジーグは再び窓に向き合った。暫しの後、部下が一礼し、執務室を退出ていく気配を彼の背は感じ取る。


 それから長い間、マジーグは窓の前から動けずにいた。ガラスに映る自分の顔は、青白さをまたも増している。

 まるで幽鬼のようだ、と彼は他人事のように思う。

 そして、いまも視界に映る黒い煙は、まるで己の心の臓を炙る炎の残像のように、マジーグには思えてならなかった。

 


 だから、彼はその夜も、ひとり部屋で酒を飲んでいた。


 蝋燭の炎が初冬の冷気にゆらゆら、と揺れ、マジーグの彫りの深い顔に陰を作る。すると、追い詰められた獣のような顔つきで杯を傾ける彼の背後から、唐突に低い声が響いてきた。


「閣下、そのご様子は流石に、看過できませんな。上官としても、私のとしましても」

「……俺は、お前を、いま、ここには呼んでいないぞ、タラム」


 朦朧とする意識のなか、マジーグは振り向きもせず、副官に悪態をつく。すると、タラムが大きく嘆息した。そして、ゆっくりと椅子にもたれかかる上官の元に歩み寄ってくる。こう、語を零しながら。


「いくら眠れないとはいえ、薬湯と酒を併用されたら、また、お倒れになりますよ。それどころか、御身に関わります。その薬はかなり強力な鎮静剤だと、医師にも言われているでしょう」


 だが、マジーグは、そんなこと知ったことか、と言わんばかりに、目前の杯にまたも、腕を伸ばす。

 その瞬間、ぴしっ、と皮膚を弾く音が響き、ついで指先に痛みが走った。

 タラムがマジーグの手を鋭く打ったのだった。続いてタラムは、怯えたような瞳で己を睨み付けるマジーグの腕を掴みながら、淡々と語を紡ぐ。


「閣下。それ以上はだめです。私が許しません」

「だったら、どうすれば良いのだ!」


 副官に腕を捻り上げられた姿勢で、マジーグは激情を青ざめた唇から爆ぜさせる。その日も背に流している三つ編みが激しく宙に跳ねる。その光景を見つめながら、なおも平静に、タラムはマジーグに語りかけた。


「そんなにお辛いのですか。彼女を裏切ったことが」


 マジーグの瞼が、びくり、と蠢く。

 彼は途端に苦しくなる動悸を堪えながら、タラムから顔を背け、忌々しげに呟いた。


「……なぜそう思う」

「いままでの閣下には、ないことですから。理由とすれば、私にはそれしか思い当たりませんので」

「お前は、どうせそのことも、陛下に報告するんだろう!」


 突如、仄暗い室内にマジーグの絶叫が炸裂した。

 叫んだ当の本人の脳髄に、その声は、ぐわんぐわんと激しく木霊する。酒と薬を嗜んだばかりの脳であったから、その残響はことさらに響き、こめかみに鈍痛を走らせる。

 その痛みに思わず顔を顰めたマジーグの黒い瞳に、タラムがゆっくりとした仕草で酒瓶と薬湯の入った器を掴み、自分の手から取り上げる様子が映った。

 そして、鼓膜を打つのは、彼の動揺を知らぬ声である。


「いずれにしろ、閣下にはまだ人生を断っていただくわけにはまいりません。それを防ぐのも、私の仰せつかった役目でありますから」


 タラムはそうとだけ口にして、一礼すると、酒瓶と器を手にしたまま上官の元を去って行く。


 部屋を出る寸前、取り残された男の口から、言葉にならぬ獣のような、荒れ狂う咆吼が弾けるのが聞こえた。

 しかし、タラムはそれをも丁重に無視して廊下へと歩み去って行った。

 


 そして、タラムが、アネシュカの寝床のある下女の宿舎に姿を現したのも、同じ夜のことであった。


 下女たちは、突如、夜半にもかかわらず、このような下々の詰め所に姿を現したマリアドル軍の高官に恐れを成し、彼の口からアネシュカ・パブカに面会に来た旨を聞くに及び、転がるようにアネシュカのもとにやってきた。


 仰天したのは、もう寝るばかりと支度を調えていたアネシュカも同様である。

 彼女は、慌てて再び、床に脱ぎ捨てていたワンピースへ袖を通すと、急いで亜麻色の髪をひとつに纏め、宿舎の外に走り出た。

 すると、闇のなか、その場にそぐわぬ軍服姿のタラムの長身が、彼が手にしたランタンのひかりに浮かび上げる。


 そして、アネシュカの姿を認めるや、彼は静かに言葉を放った。


「アネシュカ。総督閣下のためにまた、絵を描いてくれ」


 アネシュカは、ペリドット色の瞳を瞬かせ、もう二度と顔を交わすことはないだろうと思っていた男を凝視する。

 そして、彼が開口一番紡いできた言葉に対しては、憤怒を吐き出す以外に気持ちのやり場がなかった。


「……あなた方が、いま、私にそんなことを頼めるようなことをしているとでも!? 自分たちのいいように壁画を描き替えろ、だけど、それを命じた閣下のためにも絵を描けなんて! 言っていることが滅茶苦茶じゃないですか!」


 アネシュカは息を弾ませて、夜の帳の下、タラムに抗弁する。

 しかし、ランタンの明かりに照らされたタラムの顔は、なんら揺らぐことはない。そんなことは承知の上だ、そう無言でアネシュカに語りかけるかのように。

 そして、タラムもまた、アネシュカの瞳をまっすぐ見据えると、こう淡々と、語を継いだ。


「医師の見立てでは、閣下の不眠が一時的に緩和したのは、長年蓄積されてきた心の緊張状態が緩んだからだろう、とのことなのだ。それをもたらしたのは、アネシュカ、他でもないお前の絵なのだ。だとしたら、閣下にはお前の絵がまだ、必要だ」

「総督閣下は……また、お眠りになれず、苦しんでいるのですか?」


 アネシュカは息をのむ。

 それから、震えながら発した声に、タラムはそうだ、とばかりに重々しく頷いた。


 それから、タラムは少女の目前で、ふっ、と夜空に目を向ける。アネシュカも釣られるように空を仰げば、十二月の星座が、煌めき、零れんばかりに輝く天がそこにはあった。


「私は閣下の理解者にはなれないのだ。そうありたくても、私は、そうできないだけの業をすでに背負ってしまっている」


 闇のなか、眩く光る星の下、タラムの声が、アネシュカの鼓膜を静かに叩く。


「閣下を救ってくれ。アネシュカ。あの方が、ご自分のいのちを削り尽くしてしまう前に」


 そのとき、アネシュカはタラムの瞳に、マジーグと同じものを見た。自分を哀惜に駆り立て、涙を流させた、あの色だ。

 それは、天を仰ぎながらも、ままならぬ生に足掻く人間が放つ、底知れぬ苦悩のひかりだった。

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