第十五話 残酷な命が下る

 それは、朝もまだ早い時間だった。


 ファニエルの絵画工房をマリアドルの兵士が訪れ、これから総督閣下が訪れ、重要な話をするから全員作業を止めるように命令を発したのは。

 工房にいた全ての人間が怪訝な顔をして、おのおのの手を休める。板絵へと彩色に施していたファニエルも同じだった。彼は眉を顰めながら、何事なのか、という表情をしている。


 しかし、アネシュカただひとりは違った。彼女は下地を作るにかわの入っている麻袋を棚に戻しながら、心をときめかせた。


 ――マジーグ総督閣下、もうマリアドルからお帰りになられていたんだ。


 そう驚きながら、工房の入口に再び鎮座している画神アルバの木像に目を向ける。マジーグが修繕し、アネシュカに持ち帰らせたあの神像だ。その数日、彼女はそれが目に入るたび、マジーグの存在を思い出していた。そのたびに彼女のペリドット色の瞳は躍り、心中では、彼が早く帰ってくればいいのに、と思わずにはいられなかった。


 だから、彼女がその理由はどうあれ、マジーグの帰国、及び工房への訪問が嬉しかったのは当然のことだった。アネシュカはこうとさえ考え、心を逸らせたのだ。


 ――総督閣下、私たちの絵画工房について、なんらかの約束を皇帝陛下に取り付けてくださったのかな? だとしたら、やっぱり閣下はお優しい。それも、帰国してすぐにそれを知らせに来てくれるなんて。


 だから、程なく、タラムを従え、漆黒の軍装にて工房に入ってきたマジーグの彫りの深い顔が険しく、双眼は苛烈なひかりに彩られているのを見て、あれ、と思ったのだ。

 彼女は知るよしもなかった。彼の工房訪問の真相など。

 静まりかえった工房で、マジーグの口から、その直後、開口一番こう言葉が放たれるまでは。 


「王宮前広場に置かれている、創世神話のを、我が皇帝陛下は望んでいる」


 ファニエルを始めとした工房の全ての人間の顔は、呆然とした色に揺れた。

 むろん、アネシュカも同様だったことは、言うまでもない。彼女は瞳を瞬かせ、思わずマジーグの顔を凝視する。

 そこには彼女が親しんできた彼ではない表情があった。

 初めて、この工房前で邂逅したときの、あの、絶対零度の冷たさを湛えた顔つきであった。



「……絵画の、描き替えですか」


 息をのみ、その直前以上の静寂、さらには戸惑いが漂う工房のなかで、まず口を開いたのは、他でもない工房の主、ファニエルだった。

 彼は手にしていた絵筆をその場に置くと、目の前で屹立しているマジーグに歩み寄った。ファニエルの顔はいつもの柔和な笑みが溢れていたが、その琥珀色の瞳は強いひかりに満ちている。

 対して、ファニエルを前にしたマジーグの口調に揺るぎはない。彼はファニエルと対峙しつつ、さらに冷ややかに語を継ぐ。


「そうだ。絵画の撤去ではなく、描き替えだ。あの絵を、我らがマリアドルの望むかたちに描き替えよ」

「ほほう……して、それはどのようなかたちなのですか」


 ファニエルが問い返す。その声は柔らかな顔つきに似合わない、挑戦的な口調であった。こんな訳の分からない状況下であるのに、些か面白げであるようにも、ふたりを見守るアネシュカには聞こえた。

 すると、マジーグがアネシュカを始めとした工房の弟子たちの視線など、全く気に留める様子もなしに、ファニエルに答える。


 その命令の真髄に値する決定的な一言を、極めて淡々と。


「創世神話の初めの場面、レバ湖から女神バルシが産まれ出たあの絵に、我がマリアドルの国神ガランを描き加えよ。ただ描き加えるだけではない。ガランがバルシを組み伏せ、服従を誓わせている姿に描き直せ」


 工房の誰もが、そのマジーグの命に息をのんだ。

 なんだと、というざわめきがさざ波のように工房内に伝播する。アネシュカに至っては、声すら出なかった。あまりのことに。マジーグの無茶な命令を、真っ向から受け止められたのは、ファニエルくらいのものであった。


「……それは、創世神話の内容を覆す絵になりますね」

「そうだ。チェルデ人が誇りにしてきた女神バルシを貶める絵を描け。お前たちチェルデ人の手で。そして仕上がりは、今後数千年の世に遺る出来栄えとせよ。今後、チェルデで語り継がれる創世神話の内容が、その絵の通りに覆るに足りるほどに、だ」

「なるほど」


 騒然とした工房のなか、ファニエルの声が響く。

 ファニエルは琥珀色の瞳を怪しく光らせ、占領軍の最高権力者をまっすぐ見据え、ゆっくりと問い質す。


「閣下の狙いは、我が国の創世神話の改竄ですね。それを我らの手で行えと」

「そうだ。我がマリアドルの皇帝陛下は、チェルデの神話、ついでは文化、そしてその後の歴史を改竄することをお望みだ。そのために、これから俺はあらゆる手を尽くす。絵画の描き替えは、その第一歩であり、象徴だ」

「……どうしてですか!」


 突如、マジーグの命令の語尾に重なるように、甲高い少女の悲鳴が爆ぜた。

 マジーグがゆっくりと、背に流した三つ編みを揺らし、その声の方向に顔を向ける。見知った亜麻色の髪の少女が、ペリドット色の瞳にらんらんと怒りの炎を宿して、己を睨み付けていた。

 しかし、マジーグの内心は今さら動じることもない。彼にとっては、アネシュカの反応など、想定内のものでしかなかったから。


 一方アネシュカは、マジーグの冷たい視線に臆することなく、ファニエルとマジーグの間に駆け込むと、迸る感情のまま、マジーグに叫んだ。


「閣下、やっと、絵画にもご興味を持ってくださって……、それもあの、ファニエル先生の壁画は素晴らしいって言ってくださっていたのに……! それなのに! どうして、よりによって、あの絵を描き替えろなんて仰るんですか!? 創世神話の女神バルシが産まれる場面は、私たちチェルデ人の誇りなんですよ?」


 アネシュカの絶叫に、マジーグが冷笑を持って応じる。返答に冷たい征服者の嘲笑を満たして。


「それはお前たちチェルデ人の事情だ。俺たちマリアドル人にとっては異なる。いつまでも創世神話を盾に優位を誇るチェルデ人の風下にいるマリアドルではない。そして、そういう国にお前たちは占領されたのだ。それをいい加減、自覚せよ」

「そんなの勝手が過ぎるわ! しかも、ファニエル先生をはじめとした、私たち絵画工房の手で自ら、なんて! 残酷すぎます! それがお分かりにならない閣下じゃないでしょう!」

「俺は所詮、お前たちの大切にする芸術に対し、それだけの理解しかない人間だった。そう思えば良かろう」


 アネシュカは見知らぬ人と化したマジーグの言に衝撃を受けながらも、必死に反論する。こんなのおかしい、こんなのは間違っている、そう胸で高まる激情のままに。


「そんなの嘘です! 閣下はそんな人間じゃないです! 約束したじゃないですか、ご自分を誤魔化さないでくださいと! 閣下は本当は、そんなことお望みじゃないんでしょう?」


 少女の言葉に、マジーグの冷たい双眼が濁った。

 それは、彼には一番言われたくないことであった。その感情を押し殺してこそ、マジーグはこの場に立てているのだから。

 だからこそ、彼は目前の少女を睨み付ける。


「これは俺の命令だ。俺の下した命令は、俺が望んだも同じだ。お前になにがわかる」

「それよ!」


 アネシュカは無我夢中で叫ぶ。もはや、彼女の憤りは、とどまるところを知らなかったのだ。


「閣下は、また、他の方からの命令に自分の手を汚すことで、ご自身を悪者にしようとしてらっしゃる! 本当は……本当は、そんなのじゃ、ないのに!」


 そこまでがマジーグの我慢の限界だった。

 彼は、腰に帯びていた長剣を勢いよく引き抜く。声を荒げることなく済んだのは、必死の制御の結果だ。

 背後に控えているタラムが、僅かに身じろぎする気配がする。


「……黙れ」


 いまや、マジーグの繰り出した刃は、朝のひかりにぎらり、と鋭く輝きながら、アネシュカの喉元に突きつけられていた。

 アネシュカの息が一瞬止まる。彼女は震えながら、己に突きつけられた刃を見返す。しかし彼女はそれでも、黙ることは出来なかった。震えながらも、引くことは出来なかった。アネシュカはマジーグの顔を見据えて叫んだ。声の限りに。


「……私を斬って、ご自分を誤魔化すことができるなら、すればいいじゃないですか! 斬りなさいよ! さあ!」

「おいおいおい、やめろよ、ほんとにお前、殺されちまうぞ! アネシュカ……!」


 工房の人垣の奥から、これはさすがにとばかりに、トルトがアネシュカに駆け寄り、その震える腕を掴む。しかし、それでもアネシュカの激情はなおも工房内に響き渡る。その声は、もう、泣き叫ばんばかりだ。


「斬れるものならやってみなさいよ! 閣下の馬鹿! この、この、分からずや!」


 公衆の目前で少女に罵られたマジーグの双眼が、激しく禍々しい輝きに揺れた。剣を握った手に力が入る。

 そのときだった。


「静かにしろ! アネシュカ!」


 張り詰めた空気を割って響いてきた大声があった。

 ファニエルだった。師のこのような大声を聞いたことないアネシュカは、はっ、と我に返り、声の方向を見る。ファニエルがこれまたいままでに見たことのないような厳しい顔つきで、自分を見つめていた。


 アネシュカの強張っていた身体から、ふっ、と力が抜けた。その隙を見計らって、傍にいたトルトが彼女の身を自分の方に引き寄せる。


 そして、工房の誰もが予期せぬことが起きた。ファニエルが険しい表情を、さっ、と解くと、恭しくマジーグの前に跪いてみせたのだ。宮廷生活で培った、その場の誰もが真似できない優雅な所作で。

 そして、ファニエルはこう口上を述べて見せたのだ。微笑みながら。


「マジーグ総督閣下。ご命令、確かに拝命いたしました」


 工房の誰も呆然とするなか、彼は銀髪を揺らしながら語を継ぐ。


「皇帝陛下のご命令とあらば、私はそれに従いましょう」

「え……? 先生?」


 アネシュカが驚愕の目を師に向ける。

 驚いたのは、マジーグも同様だった。彼はアネシュカの喉から剣を離すと、跪いて己を見上げる筆頭宮廷絵師に目を剥いた。


「……分かっているのか。ラーツ・ファニエル。皇帝陛下の命令に従うということは、貴殿の描いた絵を、自らの手で描き替えるということだぞ?」


 しかし、ファニエルは悠然としたものだ。彼はさらり、とマジーグに答える。


「承知しております」

「……お前は、それでいいのか?」

「ご命令とあらば。ただし、ひとつ、条件がございますが」

「条件?」


 マジーグの眉が、ぴく、と跳ね上がる。

 すると、ファニエルはにこやかな顔を崩さず、流れるような自然さで言葉を紡いだ。


「創世神話の肝心要な舞台を描き替えるとするならば、相当の技量、そして絵具の元となる金や銀などの鉱石が大量に必要になります。技量は、この私にお任せになるからには大丈夫として……問題は、資金です。それを惜しみなく私に提供することを、総督閣下には今ここで、お約束いただきたいのです」


 そのファニエルの言に、マジーグは困惑した。

 宮廷絵師の要求は至極真っ当なもので、マジーグからしてみれば言うまでもないようなことだった。彼はファニエルが、絵を描いた曉にはマリアドルへの亡命を保証しろ、と求めてくるとばかり思っていたのだ。

 だから、マジーグは大きく息を吐きながら、ファニエルにこう答えた。


「……よかろう。金は惜しまぬよう、陛下から仰せつかっているからな」

「ご理解いただけて感謝いたします。では、絵画改竄の資金は、毎週滞りなく、私めに直接お納めいただきますが、それもよろしいですか?」

「指示通りの絵を描くというなら、別にそのくらいかまわぬ」

「ありがとうございます。閣下。それでは、壁画の描き替え、確かにこのラーツ・ファニエル、承りました」


 マジーグの黒い瞳と、ファニエルの琥珀色の瞳が、至近で交差する。

 静まりかえった工房のなか、マジーグが見る限り、ファニエルに嘘を付いている様子はなかった。

 暫しの沈黙の後、マジーグは頷きながら、ファニエルに声を掛ける。


「頼りにしているぞ、ファニエル。貴殿には、皇帝陛下のご期待に沿えるような歴史に遺る絵を、俺は期待する。それでは詳しい打ち合わせをしたいので、今から俺と一緒に来てもらえるか」

「勿論ですとも」


 相も変わらずの麗しい仕草に銀髪が揺れ、ファニエルが立ち上がる。

 それを認めると、マジーグは黒いマントを翻し、タラムとともに大股で工房を出て行く。そして、ファニエルもその後に続く。


「閣下! それに、先生……! どういうことですか!」


 マジーグとファニエルの背中を、アネシュカの大声が打った。

 だが、彼らはともに、唖然としたままの工房の人間に目を向けることはなく、また振り返ることもしなかった。


 トルトの宥める声を遮り、亜麻色の髪を振り乱すアネシュカの唇から、怒号が炸裂する。自分は悪夢の只中にいるのではないか、そう疑いながら彼女は叫んだ。


「なんなの? いったいなんなのよ! ……ふたりとも、馬鹿じゃないの! 大馬鹿者よ!」



 しかし、アネシュカがその残酷な現実が、夢などではないと知るのはその三日後のことだ。


 突如、マリアドル軍兵士が王都トリン中の市民という市民を追い立てるように屋外に引っ張り出した。人々は訳も分からず、兵士に命じられるがままに王宮前広場に集められる。


 そして、その場で彼ら彼女らが目にしたのは、あまりにも衝撃的な光景だった。


 王宮前広場に飾られた壮麗な創世神話の前には、ファニエルを始めとした絵画工房の全員が整列させられていた。むろん、アネシュカもそのなかのひとりだ。

 そして、その傍にはマリアドル軍の兵士に囲まれて立つ、若きチェルデ総督の姿があった。市民の目には、その黒ずくめの装束がいつにも増して禍々しく映る。


 やがて、マジーグが鋭く言葉を放った。


「壁画を描き替えよ! チェルデの神話を、チェルデ人の手で塗り変えるのだ!」


 どよめく市民の前に歩み出たのは、ファニエルだ。

 そして彼は自らの手で描き上げた創世神話の前に立つと、なんの躊躇いも感じさせない所作で、手にした短刀を女神バルシの顔の前にかざす。


 ファニエルはそのまま、なんら臆することなく、女神の顔を刃で抉った。

 みるみるうちに、女神バルシの麗しい姿は、ぼろぼろと絵具の滓となって剥がれ落ちていく。


 その光景を、チェルデ国民は、身を浸す屈辱とともに、見守るしか術がなかった。

 涙を堪え、唇を噛みしめながら師の背中を見つめる、アネシュカを含めて。

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