第十四話 その手で文化を破壊させよ
久しぶりのマリアドルの王都、シュタラの空は青かった。
しかしながら、チェルデの王都トリンの空とはまた異なる色だ。シュタラはトリンより標高が高いので、青はより濃く、透き通って見える。そしてそよぐ風も初秋だというのに、もう、肌を刺す冷たさだ。
マジーグが久々の祖国に戻り二日。
今日は王宮に参上し、マリアドル皇帝ガロシュ二世に奏上する日である。宮中で自分とすれ違う人間の瞳の冷ややかさを浴びるたび、マジーグは己がいまマリアドルにいることをしみじみと思い知る。いつものことではあったが。
灰色の石造りの王宮は、壮麗なチェルデの宮殿に慣れたマジーグには、これまで以上に素朴に思える。床を敷き詰めるモザイク状の青い石だけが唯一華やかさを醸し出す色彩であり、それはマリアドルの特産品である
反対に言えば、マリアドルで産み出されるものはそのくらいしかない。
――チェルデ人に荒野と揶揄される、我が国の王宮ならではでな。
マジーグは床に広がる青い石を軍靴で踏みしめながら、ひとり、そう思う。
今日はタラムは彼に付き従ってはいない。皇帝の要望により、王宮にはマジーグただひとりが呼び出されていた。それも、公に使われる謁見の間ではなく、皇帝の私室に。
しかし、皇帝とマジーグの間柄では、この二十年来珍しいことではなかったので、気になることはない。廻廊を抜け、彼はいつしか皇帝の居室に辿り着く。
衛兵が扉を開ければ、ガロシュ二世は褐色のローブを纏った姿で、部屋に面した中庭で小鳥に餌をやっていた。
マジーグはそれを認めると、黒い三つ編み、同色のマントを揺らしながら部屋を横切り、マリアドルの統治者に歩み寄る。
壮年の皇帝は見知った気配を感じ取り、僅かにマジーグの方へ顔を傾ける。そして穏やかな微笑みを唇に浮かべた。
秋の午後のひかりが、ちいさな庭の緑に跳ね、籠のなかを飛び回る小鳥の囀りをも包み込む。
「なにやら顔が晴れ晴れとしているな。顔色も心なしか良いではないか。チェルデの空気は、そんなに性にあったのか? マジーグ」
「滅相もございません。陛下」
「まあ、よい。だいたいのことは、タラムから聞いておる」
皇帝は静かに、中庭の石畳へと跪いた腹心に告げる。
マジーグの黒い眉が僅かに動いた。だが下げたままの頭は微動だにさせなかった。彼は、変わらず自分が皇帝の前で、今日もそのような挙動を保てることに、人知れず息をつく。そして思う。
――ということは、陛下は俺の不眠や、アネシュカのことも聞き及んでいるのだろう。
すると、早速本題だとばかりに、ガロシュ二世が声を放った。小鳥のぴぃ、ぴぃという鳴き声がその言葉に重なる。
「彼女は、苦しまずに逝ったか?」
予想していた問いだった。
だから、マジーグは動じることもなく答えることが出来た。だが、言葉の末尾に、感じていた疑問を付け加える衝動には抗えなかった。
「はい、御意のままに致しました。……ですが、よろしかったのですか?」
ガロシュ二世の瞼がぴくり、と動く。しかしながら口元に浮かべた微笑はそのままに、問い返す。
「なにがだ」
「エリカ六世陛下は最期まで、皇帝陛下のことを案じておられたように、私は、感じました」
すると、皇帝は黒い頭を深く下げたままの腹心を、意外そうな眼差しで見つめる。
「……マジーグ。お前が人間に興味を持つとは、珍しいことだな」
今度、相手の顔を見据えたのは、マジーグの方だった。
「そういうわけでは、ありませんが」
「そうだな。人間に興味など持ってしまったら、誰彼構わず殺めることなど、できなくなるからな。それを余はよく知っている」
マジーグの皇帝を見上げる黒い瞳が、微かに揺れた。
ガロシュ二世がそれに気付いたのか、気付かなかったのかは、その穏やかな表情からは分からない。しかし、続いて投げかけられた言葉に、マジーグの心の疼きはさらにはっきりと輪郭を増していく。
「お前のその血色の良さは、人間に興味を持ってしまったゆえか?」
「いえ……」
言葉を濁したマジーグを見る皇帝の顔からは、悪意は窺えない。しかしマジーグは知っていた。ガロシュ二世とは黒い感情を内心に押し込めることで、生き長らえてきた人間であると。そのマジーグの思いをなぞるように、皇帝の声は続く。
その言葉の柔らかさが却って、マジーグには恐ろしかった。
「余は、彼女のことはもう、忘れたのだ。あれは美しい思い出だ。しかし、帰国してからこの数十年、それを消し去ることだけに意識を留めてきた。チェルデに留学していた際の思い出は、野蛮人と罵られたときの憤怒、それだけのみを胸に縫い止めてな。そうでなければ、この十数年にわたってチェルデを征する策謀など練ることは出来ぬよ。そして、その任に、マジーグ、お前を選抜し、当てることも」
「……私のことはどうあれ、その甲斐あって、このたび陛下がチェルデを手中に収めたことを、私は理解しているつもりです」
「そうか。それなら良い」
ガロシュ二世は再び、籠のなかの小鳥に目を向け、籠の扉を右手で押し開け、餌を差し入れた。
囀り続けていた小鳥が鳴くのを止めて、餌箱を夢中になって突くのがマジーグの視界に入る。
「マジーグ。まだチェルデの制圧は終わった訳ではないぞ。むしろ、これからが本番だ」
餌を貪る小鳥に愛おしげな視線を投げていた皇帝が、急に語を放ち、マジーグは我に返った。彼は小鳥から目を離して、再びガロシュ二世を見上げ、応じる。
「はい、王都トリンを抑えたとはいえ、いまだ各所でチェルデ軍は抵抗を続けております。それらの制圧に本腰を入れるべく策を練らねばと存じております。ギルダム帝国は金と密約で押さえつけているとはいえ、彼らが今後どう考えを変えるかも分かりかねますゆえ」
「ふむ、それもあるが。それだけでなく。もっと重要な任がお前にはある」
「重要といいますと?」
マジーグは皇帝の意を図りかね、思わずその瞳を凝視した。すると、ガロシュ二世の双眼には、恐ろしいほどに真摯、かつ暗いひかりが宿っているのが見える。
マジーグの背筋は人知れず震えた。この目をするときの皇帝を、彼は何度も過去に見たことがあったから。
それは、例外なく、マジーグにとって重圧となるような命を下すときの目であった。
果たして、それから放たれたガロシュ二世の言葉は、マジーグの予感を裏付けるものであった。皇帝は、ゆっくりとした口調で、彼に向かってこう命じたのだった。
「チェルデ人の手で、チェルデの文化を破壊させよ。チェルデが誇る芸術の力を用いるやり方で」
思いもよらぬ皇帝の命に、マジーグは息をのむ。そんな彼をどこか面白げに眺めながら、皇帝は流暢に語を継いでいく。遂にこの命を発するときが来たのだ、という暗い熱情を言葉に込めて。
「彼らの手で数百年と積み上げてきた歴史はな、彼ら自らの手で改竄させることに意味があるのだ。そしてその書き換えられた歴史が、数百年後には彼らにとって当たり前の文化となる。余がチェルデに課したいのは、そういう
なおも降り注ぐ陽のひかりのなか、餌を食べ終わった小鳥がまた、ぴぃ、ぴぃと籠のなかで鳴いている。その光景と物音は、どこか別世界のものであるように、そのときのマジーグには思えた。
そして、次の皇帝の言葉を耳にして、彼は遂に皇帝の意を悟るのだ。
「余はその為に、チェルデ王宮の絵画工房を保護するように命じたのだよ」
刹那、マジーグの脳裏には、亜麻色の髪の少女の笑顔が爆ぜた。
皇帝の私室から退出したマジーグの耳には、部屋を去る間際に放たれたガロシュ二世の声が木霊していた。
「酷だとは思うが、あと十年だ。あと十年耐えよ、マジーグ。それまでは余を、裏切るな」
その言葉が、がんがんと、廻廊を進むマジーグの脳内に響いている。
そして、そこに交差するのはマリアドルに戻ってからは意識して心から排していたアネシュカの屈託のない笑い声だ。
それを感じながら、マジーグは先ほど拝命したばかりの皇帝からの命令を胸で反芻する。
反芻しつつも、アネシュカのことを、なお考える。
――結局、俺は、自分を理解してくれる人間を欲していたのか。ずっと、ずっと。だからアネシュカに興味を持った。俺の周囲には存在しないあの人柄を知りたいと欲した。そんな彼女なら、俺の欲求を叶えてくれるのではないかと、そう、勝手に期待して。……だが。
そこまで考えて、マジーグの足は一旦止まる。誰もいないマリアドルの王宮奥の廊下にて、己の心の臓の鼓動が密かに乱れていくのを感じ取り、彼は眉を顰めた。気のせいだろうか、息も苦しい。
否、気のせいではない。アネシュカを思うマジーグの呼吸は、いまやはっきりと荒くなっていた。
――だが、だ。アネシュカ。俺はこれから、お前が悲しむような、許せないようなことをする。そうしてしまえば、もう、俺にお前はあのような顔で笑いかけてはくれないのだろうな。ましてや、理解など望むべきもない。
マジーグは独り言つ。端正な顔に、深い諦観と、自嘲の笑みを滲ませて。
「……仕方ない。これが俺の、定めだ」
マリアドル王宮の簡素な石の壁に、己の独白が吸い込まれていくのを感じながら、マジーグは先ほど見た籠の小鳥を思い出す。
――……あれは俺の姿そのものじゃないか……!
意識の向こう側で、そう激しく叫ぶ自分の声が虚しく響いたような気がした。
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