第十三話 二十年の悔恨

「アネシュカ。今日は、これを工房に持ち帰るが良い」


 私室に入った途端、アネシュカはマジーグに、麻布に包まれたなにかを手渡され、ペリドット色の瞳をぱちくり、とさせた。


 受け取ってみれば、その包みは重ささえそれほどないものの、アネシュカの背の半分ほどもある。彼女は両腕で包みを抱えながら、不思議そうにマジーグに問うた。見れば、マジーグの顔は今までにないほどに、にこやかである。鷹のような双眼も楽しげなひかりに揺れている。


 ――なんか、大分、閣下の印象変わったな。初めてお会いした工房前でのお顔とは、なんだか別人みたい。


 アネシュカはそう思いつつ、マジーグに尋ねた。


「閣下、なんですか? この包みは」

「いいから開けてみろ」


 マジーグに急かされるまま、アネシュカはひとまずその包みを解く。中身を見るや、彼女の顔は輝きに満ちた。

 それは、木の神像だった。途端に、アネシュカの興奮した声が夜の静寂に木霊する。


「これ、工房の画神アルバの像じゃないですか! 直して下さったんですか!」

「ああ、礼にと思ってな」

「礼、ですか?」


 アネシュカは瞳を瞬かし、訝しげに首を傾げた。編みこまれた髪の亜麻色のおくれ毛が、蝋燭のひかりに、ゆらり、揺れる。

 すると、きょとん、とした顔の少女を愉快そうに見つめながら、マジーグが己の言葉の意味を説明し始めた。その口調も、顔つきも、ただただ楽しい、といった様子である。従来の冷徹さや皮肉は、そこからは窺えない。


 アネシュカはそんな彼を意外に思ったが、果たして投げかけられた言もまた、想定外のものだった。


「俺はこの間の話から、お前の故郷、レバ湖に興味を持ってな。それで広場にある壁画を見に行ったんだ」

「ファニエル先生の、創世神話の絵をですか!?」


 アネシュカは腕に抱えた神像を目にしたとき以上の驚きをもって叫ぶ。


 ――まさか、総督閣下が自ら絵を見に行くなんて。あれほど、芸術など信じない、と口にしていたのに……!


 対するマジーグはそんなアネシュカを面白そうに見ている。そして彼は、その視線を動かさぬまま、語を継いだ。


「ああ、その光景が実に良く描けている絵だ。湖の光景が生き生きと描かれ、神々しくさえあるな。あれは、いいものだ」

「そりゃ、先生の絵ですもの!」


 アネシュカの心にじーん、と幸福が満ちる。

 先日のファニエルの態度がどうあれ、彼女にとりファニエルは、自慢の師であること、それは寸分も変わらない。その師の絵を褒められれば、彼女自身が賞賛されたように嬉しくなるのは当然であった。


「そういうわけで、神像はそれへの礼というわけだ。ファニエルとやらによろしく伝えてくれ」

「ありがとうございます!」


 アネシュカは喜びを満面の笑顔に湛えて、叫んだ。その笑みの眩しさに照らされ、マジーグの心はさらに凪ぐ。

 だが、アネシュカが声を弾ませて放った次の言葉に、彼の表情は虚を突かれたように固まった。


「お優しいんですね、閣下」

「俺が、優しいだと?」


 数瞬の硬直の後、マジーグの黒い瞳が揺らぐ。

 同時に、彼の彫りの深い顔は急激に陰に満ちた。仄暗い部屋のなか、マジーグは長い三つ編みを揺らしながら、どさり、と椅子に座す。それから、彼は呻くような声音で、喉奥から語を絞り出した。


「……お前は、祖国で俺がなんと呼ばれているか、知りようもないものな……」

「えっ」

「血濡れのエド・マジーグ。目的のためには手段を選ばぬ悪鬼。出世のために身内を殺した狂犬。そのほか、マリアドルでの俺の悪名は数え切れないくらいある」


 陰鬱極まりないマジーグの悪名の数々に、思わずアネシュカは言葉を失った。神像を抱きかかえ、突っ立ったまま、マジーグの顔を見返す。


 彼の顔は先ほどの穏やかさから一転し、冷たい色に染まっていた。


 しかし、アネシュカの瞳には、マジーグの双眼は冷たさよりも苦渋に満ちているように映る。なので彼女は、部屋が沈黙に完全に沈む寸前、こう小声を繰り出さずにはいられなかったのだ。


「……それは、本当なのでしょうか」


 アネシュカの囁きに、ぴく、とマジーグの眉間に皺が寄る。


「なぜだ。お前になにが分かるというのだ」

「だって……夢に見る、ということは、それほどお心に深く残っているということでしょう? もし、閣下が単なる悪人だとしたら、殺した人間が心に残ることすらないのではないですか?」


 今度はマジーグの肩がよりはっきりと、びくり、と動いた。そのとき確かに、亜麻色の髪の少女の問いかけは、彼の心を深く抉ったのだった。

 なぜかといえば、それは、マジーグがここ二十年、考えたことのない思考だったから。

 しかしながら彼は動揺を隠すように、黒い瞳をぎらり、光らせながら、語を吐き出す。


「だとしても、俺が弟を殺したのは、本当のことだ。……そうだな、お前には話してやろうか。アネシュカ、俺はな、マリアドルの下級貴族の庶子なんだ。たしか、弟は腹違いだとお前に言っただろう」

「……ええ」


 アネシュカは頷いた。それには覚えがあった。弟の顔を描けと自分に命じた夜、マジーグはたしかにそう語っていた。


「つまりは、弟はマジーグ家の嫡子だったんだ。だから俺は、十五の時、家督を奪うために弟を殺した。当然、ことが発覚するや、俺は罪に問われたよ。身内殺し、しかもそれが嫡子だとしたら大罪だ。俺は絞首台の露となっていてもおかしくなかったんだ、本来は。それでも俺が生きているのは、陛下の温情あってのことだ」


 マジーグは滔々と己の生い立ちを語り出す。

 しかし、途中から彼の声音は、冷静さを失ったかのようにアネシュカには感じられた。マジーグの言葉は、自分の半生を言語化することで、なんとか己にその軌跡を納得させようと試みているかのように、彼女には思えたのだ。なんとも言い得ぬ複雑な感情がアネシュカの胸を覆う。そんな少女の前で、マジーグの低い声は途絶えることなく続いていた。


「皇帝陛下は弟を殺した俺に興味を持たれて、俺を都に差し出させた。そして、俺は、幸か不幸かんだな。陛下は減刑する条件として、軍にて国に尽くし、陛下直属の部隊で高みを目指せ、と俺に命じた。三十年の期限付でな。それを全うすれば、自由の身にしてやると。俺はそれに従った。死にたくはなかったからな。そして、それから二十年が経った。つまりは、俺は、あと十年はどんな軍務であっても逃れることは出来ない」


 アネシュカは瞳を見開く。マジーグの思いもしなかった素性に、彼女はただただ驚いた。そして、震えた。


「それでは、まるで閣下は罪人のようではないですか……」

「よう、ではなくて、そうなんだよ。まさに。だが、それは仕方ない。俺が望んだことだからな」


 吐き捨てるように言うと、マジーグは顔を歪めて笑う。彼の右手は、いつのまにか、背に流した三つ編みを弄んでいる。双眼は猛々しく光りつつも、どこか虚ろだ。アネシュカはどう声を掛ければいいか分からず、その場に立ちすくんだ。

 神像を持つ手はいつの間にか、震えている。


 するとマジーグは虚ろな瞳をふと、遠くに投げた。いつかも見たことのある、あの遠いどこかを窺う視線だ。そして彼は再び語り出す。

 だが、その一句一句は独白のようで、アネシュカはマジーグの言葉を聞き漏らさぬように、耳に全神経を傾けねばならなかった。


「……あの事件がなければ、今の俺がこうなることもなかった。しかし、あのときの俺には、どうすることもできなかった。言い訳でしかないとは、分かっている。だが、どうしたらよかったのか……今でも分からぬ」

「事件?」

「ある夏の日のことだ。俺は弟にせがまれて、弟の友人数人と連れだって郊外の川に出かけた。そして、魚取りの途中、弟が足を水に取られた。弟はすぐ傍に居た俺の手に縋った」


 マジーグは遠い夏の日を思い出すかのように語を零す。それから、彼は、自分に言い含めるかのように、こう呟いた。ちいさくも、はっきりと。


「だが、俺はその手を離してしまったんだ」


 アネシュカは息をのんだ。そして堪えきれず、抱えていた神像をどん、とテーブルに置き、叫ぶ。


「それなら……! それは事件ではなく、事故じゃないですか! 閣下は、弟君を殺したわけではないじゃないですか!?」

「分からん」


 アネシュカの大きな声に対し、答えたマジーグの声はなおも、ちいさい。それからの彼の言葉は、秋の夜の静寂な空気に、ひびを入れていくかのような重苦しさがあった。


「本当に分からないのだ、俺も。あの瞬間、手が離れたのか、離したのか。そして、あいつの手を離したとしたら、そのときの自分の心に、果たして殺意が籠もっていなかったかどうか。しかし、周囲にいた人間がそう証言した、ということはそうなんだろう。だから、俺は、あいつを殺したのだと、今はそう思うことにしている」

「そんな……」


 すると、マジーグの語気が急に強くなった。ついで早口になる。

 結局彼は、このときすでに、目の前で震える少女へ己の半生の全てをぶちまけてしまいたいという衝動に、抗うことが出来なかったのだ。


「だが、俺が陛下に召し抱えられてから、あらゆる手段で任務を遮る人間を殺したのは本当だぞ。そのなかには女子どもだって沢山いた。殺し方も様々だ。直接手を下したこともあれば、他者の手で殺めたこともある。毒も使ったし、謀略をもって殺し合いもさせた。罪なき者を陥れて死罪にしたことも無数にある。だから、国で轟いている俺の悪名は全くもって、真実のことだ」

「でも、それは、命令あってのことでしょう?」

「そうだとしても! 俺が悪鬼なのは変わらぬ! だからこそ悪霊に、俺は襲われている! それにアネシュカ、俺はお前の国の統治者も要人も、皆殺しにしたんだ!」


 迸った激情のままそう絶叫してからマジーグは、己が私室に轟き渡るような大声を出してしまったことに、慄然とした。

 感情を制御できなくなっている自分自身に、困惑した。


 こんなことも、二十年、なかったことだった。


 彼は揺れ動く心を隠そうと、目の前の少女の様子を窺うべく視線を投げる。

 ところが、マジーグの視界が捉えたのは、ぐしゃ、と崩れるアネシュカの顔だったのだ。


 じゅわっ、とアネシュカのペリドット色の瞳が涙に満たされ、唇と頬が歪む。ついで、ぽろぽろと大粒の涙が流れ出す。ひっく、ひっく、と幼さの残る曲線を描く顎が上下する。


 気が付けば、唖然とするマジーグの前で、しくしくとアネシュカは泣き出していた。泣きわめきこそしなかったが、彼女の瞳から涙は止めどなく流れ、止まらない。

 そのとき、アネシュカはただただ悲しかったのだ。目の前の男への哀惜の気持ちが、彼女をそうさせた。


 数秒の呆然の後、マジーグは焦った。彼女の反応は彼には予想外の一言に尽きた。我に返った彼は椅子から立ち上がり、涙を流す少女に向かって、慌てながら声をかける。


「わ、わ、泣くな。泣くな、アネシュカ」

「だって……だって。なんだか悲しくて。悲しくて、仕方なくて、うっ、うっ」

「そう言われてもだな、俺が困るんだ、そんなふうに泣かれると……!」


 マジーグは困り果てながら、このような場合どう対処すればいいのか、頭を回転させて正解を探そうと試みる。しかしながら、それは徒労に終わった。

 なぜなら彼は、考えてみれば、あらゆる策略の手段については習ったが、年若い少女の取り扱い方など学んだことはないのだった。


 すると、アネシュカがしゃくり上げながら、マジーグの顔を見上げる。そして、途切れ途切れの言葉で、彼にこう訴えかけた。


「じゃっ、じゃあ、閣下、約束して、下さい……っ。もう……ご自分を、誤魔化さないと」

「誤魔化す?」

「そうじゃ……ないですか。閣下は弟君のことで、自分を悪い人間だと……思い込むことで、全てを抱え込もうと、してらっしゃる、みたいで……ううっ」

「分かった! 分かった! だから、泣き止んでくれぬか!」


 マジーグが叫ぶ。

 涙でぐしゃぐしゃのアネシュカにそう言われては、彼としてはそうとかしようがなかった。すると、アネシュカが泣き腫らした顔でちいさく問うてくる。


「本当ですか?」

「あ、ああ」


 涙が溢れるペリドット色の大きな瞳を間近に認め、マジーグは、ぎょっ、としながら頷いた。心の臓が一瞬跳びはねたように感じたのは、果たして気のせいだったかどうか。

 そして、柄にもないことだと心中で呟きながら室内に身を翻し、クローゼットからハンカチを慌ただしく引っ張り出すと、アネシュカに差し出す。


 アネシュカは無言でハンカチを受け取り、顔をごしごしと拭う。そうしてようやく泣き止むと、マジーグに礼を述べた。


「ありがとうございます。……嘘泣きじゃないですよ……」

「当たり前だ。そんなのに、騙されてたまるか」


 声を枯らしながらの少女の呟きにマジーグは呆れたように言い返す。だが、彼女に半ば泣き笑うような表情でこう言われたとき、彼はまたもどぎまぎとした。


「やっぱり閣下は、優しいです」

「そんな顔のまま帰したら、俺がなにかしたかと思われるじゃないか、それだけだ」


 どう答えるべきか数秒悩んだ挙句、結局マジーグは、険しい顔を無理矢理作ると、そうぶっきらぼうに答えた。すると、アネシュカが涙の残る瞳を細め、白い歯を見せながら笑った。それはもう、心から嬉しそうな笑顔で。


「泣き止んだら、今日はもう帰れ」


 やがて、アネシュカの瞳から涙を引いた時分を見計らい、マジーグが言った。


「絵はいいのですか? 閣下、ちゃんと眠れているのですか?」

「大分眠れるようになった。そんなことより、神像を持ち帰るのを忘れるなよ」


 アネシュカがこくり、と頷く。そして、テーブルから神像の包みを持ち上げると、一礼して部屋を出て行こうとする。

 その彼女の背を、マジーグの声が打った。


「アネシュカ。俺は明日より、本国に一時帰国する。陛下へチェルデの統治のことを報告しなければいけないからな。その際、お前の工房の人間の将来は、悪いことにしないように進言しておこうと思う」

「閣下」

「陛下は工房には手を出さぬように、わざわざ俺に命じたくらいだ。聞き入れてもらえるだろう」


 足を止め振り向いたアネシュカの顔は華やいだ。そして、マジーグの次の言葉にも。


「俺がチェルデに戻ったら、また絵を描きに部屋へ来ると良い」

「……はい! どうぞお気を付けて。私も、閣下の前で再び絵を描ける日を、心待ちにしています!」


 アネシュカが破顔した。

 その顔のまま、彼女はぺこり、と勢いよく再び礼をし、部屋を出て行く。

 その姿を見送りながら、マジーグは胸中で独り言つ。


 ――おかげで少しは落ち着いた心持ちで、国に帰れそうだ。敵だらけの祖国ではあるが。


 そして、その思いを噛みしめるに及び、彼の唇から思わぬ言葉が漏れた。


「……人と嘘偽りなく、腹を探り合うこともなく、ただ語り合うというのはこんなにも、心安まるものなのか……」


 夜の静寂に零れ落ちた本音を耳にしながら、マジーグは自身に問う。

 果たして自分は、そんな安らぎを味わう資格のある人間であるのかどうかを。


 分からなかった。血濡れた自分には身分不相応な安寧なのでないか、そうも思う。

 しかし、同時に、この広い世界でひとりだけでも、そのような感情を己に与えてくれる人間がいても許されるのではないか。そんな願いに縋りたくも思う。


 ままならぬ己の身を哀しみ、涙を流してくれたあの少女、ただひとりだけでも。

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