第三十話 思いがけずのあの花
――なーんか、妙なことになってきちゃったなぁ……。
その夜、アネシュカは後宮の一室で布団に包まりながら、仄暗い天井に視線を投げた。
頭上に揺れるレースの豪奢な天蓋は、ゆらゆらと秋の冷気に揺れている。アネシュカに用意された後宮の一室は客人の泊まる部屋であるらしく、こんな豪華な部屋で睡眠を摂るなど生まれて初めての彼女は、落ち着かぬ気持ちで寝台に身を横たえていた。
それにしても、いろんなことがあり過ぎた一日であった。
馬車から引きずり降ろされてみれば、そこはマリアドルの王都シュタラで、驚いている間もなくハイサルの元に連れて行かれれば、自分が攫われたのはマジーグを祖国に呼び戻すための謀略と知る。烈火の如く怒りを爆ぜさせハイサルに噛みついてみれば、後宮送りを命じられ、そして恐怖に怯えながらここに来てみれば、後宮一の寵姫ワイダに客人としてもてなされる。
あまりにも想定外の展開が続き、アネシュカの頭は混乱するばかりだ。
なにより意外だったのは、ワイダの依頼だ。
――後宮の寵姫たちに絵を教える……か。なにかここでの務めに関係あるのかしら。でも、どうやって?
アネシュカは暗闇のなかで瞳をぱちくりさせながら考え込む。アネシュカは、亡き両親や工房の先輩から絵を教わったことはあるが、教えたことはとんとない。しかも寵姫たちは、とくに芸術の素養はない人間だろう。
――そんな人たちに絵を教えるなんて……ワイダ様はなにをお考えなんだろう。
アネシュカにはワイダの、見るものを圧倒させる美しさ、そして、それとは対照的なもの憂げな瞳が気に掛かる。そして、自分に要望を口にしたとき、その青い瞳がこれ以上なく真摯に輝いていたことを。
それまでと一転した力強い煌めきだった。その光を思い起こすほどに、アネシュカはなんだか落ち着かない気持ちになる。
結局まんじりともせずまま朝を迎え、下女が運んできたこれまた豪華な朝食を終えてみれば、さっそくワイダがやってきた。
ワイダは今日は薄緑色のドレス姿だ。あいも変わらずその姿は優美で、間に合わせのように下女に薄桃色のマリアドル風ドレスを着せられたアネシュカは、己とのあまりの違いに、あらためて感嘆してしまう。
それから、アネシュカがワイダに案内されたのは後宮の別練にある部屋だ。
部屋に向かう最中、ワイダはアネシュカを先導しながらこう述べた。
「私はここの女たちに、教養を授けたいのです」
「教養、ですか」
「昨日申したように、ここの女たちは攫われて来た者も多い。それもさまざまな階層からです。学があるものがいれば、ないものもおりますが、一様にみな、心が荒んでいます。それはそうでしょう。無理矢理ここに連れてこられて、やらされることといえば、見知らぬ男との睦みあい。それも愛はどこにもありません。その上、女同士、この後宮内での競争に晒される。これが荒まぬわけはない」
アネシュカの前を歩くワイダの金の髪は、今日も秋の朝のひかりを美しく跳ねさせる。結われた髪に飾られた真珠と瑠璃石もまた煌びやかだ。
アネシュカからは、ワイダの表情は見ることはできない。だが、その沈んだ声音から、きっとあの陰のある眼差しをいまの彼女はしているのだろう、と察することはできる。
そこでアネシュカは、ふと胸に迫り上がった疑問をワイダの背に投げかけた。
「ワイダ様は、どうしてここに来られたのですか?」
するとワイダは足を止め、アネシュカの顔をゆっくりと振り返り、見据える。
そこには、思った以上に翳りを帯びた青い目があった。
「私のことは聞かないでおいてもらえますか」
弱々しいその声は、掠れてさえいた。
アネシュカは胸が縮こまる思いがして、慌ててワイダに詫びの言葉を放った。
「はっ、はい。すみません」
「謝ることはないです。気を悪くしないでね、話さないことで守れるものも、あるものだから」
ワイダは穏やかにそう言葉を紡ぐ。
アネシュカは、彼女のほうこそ気を悪くしたのではないかと案じたが、どうやらその様子はないようだ。
それにしても、寂しげな口ぶりだった。なので、話題を元に戻さねばとアネシュカは慌てて口を開く。
「でも……なぜ教養、とはいえ、絵を寵姫たちに? なにか絵は、お務めに関係あるのですか?」
「アネシュカ、教養はこの世を生きる希望ですよ。特に、残酷な運命に翻弄される者どもにとっては」
再び廊下を歩み出しワイダは、アネシュカの疑問にそう答えた。両側の窓からは、後宮を囲む庭の木々が風とひかりに揺れているのが見える。
重々しくさえあるワイダの言葉に、なんと返せばよいかわからなくなってしまったアネシュカは、所在なげに瞳を窓の向こうに投げた。
するとワイダがまた振り返る。
そして、あの目がまたアネシュカの顔を射抜く。
あの、どこまでも真摯なひかりに満ちた、青い瞳だった。
「アネシュカ」
「は、はいっ!」
「お前にとって、絵とはなんですか?」
「えっ……と」
またも答えにくいことをワイダは尋ねてくる。虚を突かれて息を飲んでしまったアネシュカを見て、ワイダは僅かに笑う。
それから、彼女は諭すように、こうアネシュカに告げた。
「そのことを考えながら女たちに絵を教えるといいわ。お前もなにかそこから得るものが、あるでしょうから」
それから、目指す部屋に着くまで、ワイダが再び口を開くことはなかった。
アネシュカは彼女の優美な後ろ姿を見つめながら、ぼんやり考える。
――私にとって、絵ってなんなんだろうなあ……。ただただ生まれたときからそばにあって、好きでたまらないもの。生きるに不可欠なもの。仕事であるもの。そして、私とエドをつなげてくれたかけがえのないもの。
そこまで考えてアネシュカは、その思いは、あくまで「自分にとって」でしかないことに気が付く。
――でもそれらは、私にとっての絵の価値でしかないわね。それを他人に教えるとしたら? 私は絵を描くことを通じて、なにを寵姫たちに教えられるんだろう。
新たな疑問が胸に疼いて、アネシュカはそのことをワイダに質してみたくなる。
しかし、前を歩くワイダのしゃんとした背中に声をかけることはなんとはなしに憚られて、結局アネシュカは無言のまま、薄桃色のドレスの裾を翻し、歩を進めざるを得なかった。
「ワイダ様、絵具の準備は全て済んでおります」
「ソウファ、ご苦労さまです」
ワイダが扉を押し開いた後宮の一室には、すでにソウファがいた。
広い部屋だった。どうやらこの後宮に所属するあらゆる位の寵姫が集められているようだ。どの女もみな美しく、アネシュカはまるで匂い立つ花畑に迷いこんだかのような印象を受ける。
しかしながら、なかにはアネシュカより十は歳下と見られる娘もおり、胸はちくり、と痛む。
――後宮だというのに、こんな小さな子もいるのね。
それまで賑やかにお喋りに花を咲かせていた彼女らの表情は、入室してきたワイダの姿を見るや、一様にさらに華やいだ。
「ワイダ様! 今日はなにを教えていただけるんですか?」
「この間ワイダ様が教えて下さった詩、とってもよかったです! 私、あの後、紙にしたためていつも持ってるんですよ!」
「見て下さい! 私、文字こんなに書けるようになったんですよ!」
それまでお互いお喋りに夢中になっていた寵姫たちが一斉に立ち上がり、わいわいとワイダに声を投げかける。それらの声も、そして女たちの顔も、一気に年相応の明るさを帯びた光景に、アネシュカは息をのんだ。
そして、前に立って優雅に微笑みそれぞれの言葉を受け止めるワイダへの、寵姫からの絶対的な信頼をひしひしと感じ取る。
――ワイダ様、ほんとうに皆に慕われているんだわ……。
すると、ワイダがただ彼女に見惚れているばかりのアネシュカの方を振り返り、腕をとる。そして寵姫たちの前にそっ、とその身を押し出した。
「今日は、みなさんに絵を描いてもらいます。それを教えてくれる人を連れて参りました」
「絵ですか! 素敵!」
「何の絵を描くのですか?」
「絵の題材はこちらです。ソウファ、花瓶を」
すると脇に退いていたソウファが、部屋の隅に置かれていた乳白色の花瓶を抱えてくる。彼が部屋の中心にあるサイドテーブルへそれを置く。
花瓶からは、アネシュカが見るところ、どうやらダリアらしい大ぶりの赤い花弁が二輪、こぼれ落ちんばかりに咲き誇っている。
「こちらの花瓶の花を、みなさんに描いてもらいます」
今を盛りと咲いた華やかな花を前に、寵姫の表情は一段と色めき立った。まるで彼女たち自体が花のようだ、とアネシュカは思う。
やがてすでに配られていた画材と紙を前に、女たちはうんうん唸りながら花を描き出す。皆が皆、真剣な面持ちだ。いつしか夢中になって絵に取り組みだした一同を前に、アネシュカは一転して静まりかえった空気に飲まれるようになって、その場に立ち尽くしていた。
ややもって、年若い寵姫のひとりが顔を上げる。
まだあどけなさすら感じるその顔に、アネシュカがどぎまぎしていると、彼女は他ならぬ自分に向かって声を放ってきた。
「先生! 質問なんですけど」
「え? 先生?」
「お前のことですよ、アネシュカ。ここでの先生がお前でなくて、誰が他にいるのだというのですか」
「あ……はい」
ワイダの柔らかな声に押されるように、アネシュカは質問をしてきた寵姫の前の歩を進める。
手元の紙を見てみれば、拙いながらもなんとか懸命に花の姿を捉えようとしてる木炭の線が、目を掠めた。アネシュカは思わず、ほぅ、と感嘆の息をつく。
対する寵姫の声と瞳といえば、これ以上なく真摯で、真剣だ。
「葉っぱって、どう描いたらいいんですか? 花はなんとなく描けるんですけど、葉はよくわからなくて」
――さて、どう教えるべきかしら。
迷いながらもアネシュカは、寵姫の前にかがみこんで、ひとまず思ったことを述べる。これで分かってもらえるのかしら、と内心おどおどしながら。
「ああ、葉っぱはね、全体のかたちをまず描こうとするよりも、葉脈をよく観察して、細部から描き込んでいくと描きやすいかな……」
「ようみゃく?」
「ええ。葉っぱには、幾多の細かい筋が這っているでしょう? これが葉脈。これを通じて葉っぱは養分や水を吸い込むの」
「そうなんですね! 知らなかった!」
幼い顔から楽しげな声が弾けたので、アネシュカはひとまず、ほっ、と胸をなで下ろす。
堰を切ったかのように、あちこちからアネシュカに声が飛んでくる。
いつしかアネシュカは部屋中を駆け巡って、彼女らの絵と相対しては、疑問に答えていた。
そうしているうちに、最初感じていた戸惑いは姿を消し、ただ絵を通じて彼女たちと会話していることが楽しくなってくる。
そうとなると、もう、アネシュカは無我夢中だった。一枚一枚、ひとりひとりの絵を見ては、思ったことを述べ、ときには木炭を握る手に自分の手も添える。懸命に彼女らに伝わりやすい言葉を考え、それを唇で紡ぐ。そしてまた描きだされる絵に心を寄せる。
そのやりとりが、途切れることなく続く。
それはアネシュカにとって、思わぬ僥倖を手にした時間だった。
いつしか、こんな思いさえ胸に湧き上がる。
――私、近ごろは工房でいかによく先輩に認められるための絵が描けるか、ってことだけ考えてしまいがちだったんだけど、なんか……こうやって絵を通じて語り合うことが出来て、幼い頃に戻れた気がするわ。そうよ、絵ってもっと心をときめかせながら描いていいものなのよ。そしてその感動が、いろんな人間の感情を動かしていくんだわ。
溢れ出す思いを噛みしめるに及び、アネシュカの心の中には喜びの光が満ちていく。
それはなんと表現したら良いのだろう。身近になりすぎて、いままで気付かなかった絵への新しい視点。それを得たことでアネシュカの視界には今まで見えなかった世界が現われた、それゆえの煌めきであった。
――絵って、芸術って、夢中になったり、心をときめかせることで、その人の命を輝かせるものなんだわ。そして、その輝きに触れた別の人の心が、また、輝く。なんて素敵な連鎖なんだろう。そこに技術のあるなしは、なにも、関係ないんだ……! 上手い下手なんて、些細なことだわ!
そして、先ほどの廊下でのワイダの言葉を思いだし、力強く、頷く。
――たしかに教わるのは私だった! 絵にはまだまだ、私の知らなかった可能性がある! ああ、絵を描くのって、なんて楽しいの!
心浮き立つ思いでアネシュカは、傍に立つワイダを見る。アネシュカの喜びが伝播したかのように、ワイダの顔も明るい微笑に満ちていた。そこには昨日から感じていた、あのもの憂げな陰は綺麗に消え失せていて、それがまたアネシュカには嬉しかった。
なので、つい、軽い気持ちでアネシュカはこう、彼女に言ってしまったのだ。
「ワイダ様もお描きになりませんか?」
するとワイダがちいさく微笑みながら答える。
「私は……いいのです」
しかし、アネシュカ以上に興奮した声を上げたのは、周囲の女たちだ。
「えっでも、私、ワイダ様の絵を見たいです!」
「あっ、私も! ワイダ様、描いてみて!」
途端にワイダは色めき立った寵姫たちに囲まれた。自分の紙と絵具を押しつけんばかりにワイダに差し出す者もいるくらいだ。
ワイダは困ったような色を優美な顔に閃かしたが、ここはこうでもしないとこの場が納まらないと観念したのか、ややもって苦笑しながらこう語を零した。
「なら……私は写生に自信がないので、自分が一番好きな花を描くのでも……いいかしら?」
「もちろんです!」
寵姫のひとりが破顔しながら絵具をワイダに手渡す。
それからワイダは、脇の空いていた椅子に腰を下ろすと、少し考え込むような素振りをした後、木炭を紙にゆっくりと滑らした。
見たことのない花が、ワイダの手元の紙に描かれていく。やがてワイダは、自分の名前を花の脇に添え、見知らぬ花の絵を完成させた。
いや、アネシュカは、その花を見たことがあった。自然のものではなく、絵ではあったが。
――えっ、この花……!
アネシュカの息が止まる。それは忘れもしない花だった。
数日前に審議された、ファニエルのものと疑われた絵の女が手にしていた、あの花だった。
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