第三十一話 漆黒の悪鬼
久方ぶりに見たマリアドルの空は、やはりチェルデより青いように感じる。ふた月、そう、たったふた月離れていただけだというのに、その青はマジーグの黒い瞳にはやけに懐かしく映った。
そして、灰色の石造りの王宮の至るところを彩る、瑠璃石のモザイクの青も。
――もうこの空の下に、そしてこの王宮に、俺は立つことなどないと思っていたのに。
タラムと共にシュタラに着いたマジーグは、休みを取ることもなく王宮に向かった。
そしていまは、過去何度も歩んだ廻廊を進み、謁見の間へと歩を進める。慣れた道のりであったが、今日胸に抱えているのは、それまで感じたことのない憤怒だ。
自分の顔が怒りに歪んでいるのを見取ってか、扉の前に立つ衛兵が己を不穏げに窺う気配がする。しかしながらマジ-グは構わず扉を押し開けた。
そして鷹のように鋭い双眼で、広間の中央に座するハイサルを臆することなく睨み付ける。
「アネシュカはいま、どこにいるのですか?」
謁見の間に入ってのマジーグの開口一番は、それだった。
ハイサルは眉をつり上げて、薄く笑う。彼からすれば、想定内の言葉でしかなかった。そして、目の前に跪いたマジーグの黒い双眼が、憎しみに激しく燃えているのも予想通りだった。
「相当だな。マジーグ」
ハイサルの嘲笑が、跪いたままのマジーグの鼓膜を打つ。
「そこまで、あの女が好きか。そうだったな、お前が唯一父の命に背き、トリンを手離す遠因を作ったのもその女のためだったと、タラムから聞いておる」
「殿下、私の質問に答えて下さいませぬか!」
溜らずマジーグは声を荒げた。
アネシュカの安否を教えようともしないハイサルに、彼の怒りは頂点に達しようとしていた。だが、対するハイサルの表情は余裕綽々といった模様だ。それがまた、マジーグには忌々しい。
――ここで怒りを爆ぜさせてはならぬ。アネシュカの命は殿下の手の内なのだから、俺の一言が彼女を窮地に落としかねん、だから、なんとしても耐えねば。
彼はそう胸で唱えながら、ぎゅっ、と両手の拳を握りしめる。額を伝う脂汗が、黒髪を濡らし、大理石の床に、ぽたり、と落ちるのが視界を掠めた。
「まあ、そう、焦るな。お前が俺に忠誠を誓うことを確かめられたら……そうだな、ひとつくらいの戦の時間は必要だが……そうしたらお前の大事なアネシュカは、自由にしてやっていい」
「私への約束を反故にしておいて、私がそれを素直に信じるとでも?」
「信じようと信じまいとも、マジーグ、それはお前の自由だ。しかしだ、女の命運は俺の手にあることを忘れるなよ」
声を怒らせ、いまやはっきりと憤怒を明らかにしたマジーグを一瞥し、ハイサルはなおも笑う。その翡翠色の瞳は妖しく光り、次に彼が苦しげに漏らした一言を耳にするにあたって、より禍々しさを増していく。
「殿下、私はどうなってもいいのです。どうかアネシュカは、チェルデに戻してやってください」
「マジーグ、お前はいい道具だよ。どんな命令に従う忠実な」
マジーグの目前でゆらり、ハイサルの紫色のローブの袖が揺れる。
ハイサルは勿体ぶるような動きでゆっくりと右腕を宙に翳していた。そうして右手の指をくっ、と曲げる。
「俺は父は嫌いだが、父のそのやり方だけは好きだった。だから真似させてもらうだけだよ。だが、その前に」
ハイサルは狡猾な蛇のように、ぺろり、舌で唇を舐める。そして、彼はこう言いながら指先を弾いた。
「ちょっとお前の腕が衰えてないか、試させてもらおうか」
ぱちり!
その音が謁見の間に響き渡るや否や、それまで広間の柱の影に隠れていたらしい兵士が、マジーグを囲んだ。その人数は片手の指の数を優に超えている。兵士たちは一斉に抜剣し、マジーグに鈍く光る刃を振りかざした。
対するマジーグの動きは苛烈だった。
瞬時に状況を見極め、己も腰の長剣に素早く手を伸ばし、横に跳躍する。同時に、謁見の間には彼の怒りの叫びが轟き渡った。
「俺を誰だと思っている! 舐めるな!」
怒声とともに、マジーグの手元で音もなく長剣の鞘が振り払われた。次に兵士たちが見たのは、白日の下にさらされた鋭い刃の煌めきだ。それが疾風のような早さで、彼らの喉元に迫りゆく。
黒いマントが宙に躍ると同時に、ざくり、と肉を抉る音が響きわたり、謁見の間に赤い霧が舞う。マジーグの繰り出した剣は恐ろしいほどの速度で、一番近くにいた兵士をひとり、落命させていた。玉座のハイサルも思わず、ふぅ、と感嘆の吐息を吐く。それほどまでにマジーグの動きは鮮やかかつ、迷いがなかった。
次にマジーグは後ろにすかさず跳躍すると、その勢いを借りて黒衣に包まれた身を捩り、そのまま右後方に展開していた兵士ふたりに躍りかかった。彼の黒い三つ編みがマントとともに、激しく、空を鞭打つかのように跳ねる。
マジーグの黒い双眼はより険しく光り、目標物を捉えていく。しかし、そこに熱はない。あくまで獲物を間違いなく仕留めるだけのために、視力を集中させ、そのものを射抜く。その激しさと冷ややかさは、狩のために空を駆ける鷹そのものだった。
再び刃が旋回する。
ぎゃっ、という叫び声とともに二人目、そして三人目の犠牲者が血を撒き散らしながら崩れ落ち、マジーグの頬も赤く染まった。しかし彼は血濡れた顔を拭うこともせずに、さらに剣を高くかざす。結った黒髪を伝って、ぽたり、ぽたりと大理石の床へと浴びた血が流れ落ちていくが、それに彼は意識を向けることもない。
謁見の間の中心に赤い池が生まれた。その上に屹立するマジーグを、残りの兵士は慄然としながらも、なおも囲む。だが彼らの目には恐怖が満ち溢れつつあった。
血に染まりながら、彼らの前に冷ややかな瞳で立つ黒衣の男は、かつてマリアドルの人々が噂した通り、黒衣の悪魔そのものであった。
「ひぃ……っ……、ばけ、もの……」
ひとりの兵士の喉から、堪えきれぬ呻き声が漏れた。すると血まみれの黒衣の男は、氷点下の声音でこう呟く。
「雑魚が……下がれ」
鬼気迫るマジーグの様相に兵士たちの動きは凍り付き、謁見の間にはこれ以上なく重い、沈黙の帳が落ちた。
「よし、そこまでだ」
張り詰め沈殿した空気は、唐突に破られた。
ハイサルが再び指を弾き、兵士たちに声を掛けたのだ。途端に兵士たちはハイサルに頭を垂れ、そして、足早に部屋から退出していく。
血の匂いなお濃い謁見の間は、再びマジーグとハイサルのみが睨み合う場となった。もちろん、ハイサルの周辺には衛兵がいたが、マジーグの意識に彼らはいないも当然だ。
マジーグは血の池から一歩進み出て、赤く染まった刃をマントで拭って鞘に納めると、再びハイサルに拝謁する。
しかしながら、その表情はいまだ険しいままだ。それだけでなく、返り血を浴びた彼の顔から、それまで以上の憤りが漲っているように、ハイサルには思える。
ハイサルはそんな配下の様子に口の端を上げながら、声を投げかけた。
「流石だよ、血濡れのマジーグ。黒衣の悪魔の名は伊達じゃない。歳を重ねたくらいで、腕が落ちることはないな」
応じるマジーグの声は冷たく、重い。彼は足元に転がる死体に目をやりながら、低く呻く。
「……私を試すためだけに、この者たちの命を無駄にしたのですか?」
「そうだ。お前がまだ使いものになるかどうか、この目で確かめたかったのだ。お前はひとりでも剣の腕が立ち、軍を統率させても上手く指揮を取る。しかも策謀に長けているときたもんだ。実に有能だな……そんな目で俺を見るが、お前も人のことは言えぬだろう? 俺は父の下で、お前がどんな汚れ仕事に従事したか、よく知っている。それをお前のあの愛しい女が知ったら、さぞかし嘆くだろうな」
誰よりも大切な女についての話を振られ、マジーグの肩が、ぴくり、と震えた。黒い双眼がハイサルを再び睨みつける。それから、マジーグは、臓腑に疼く思いを吐き出すかのように、震える声でこう溢した。
「私は……アネシュカを取り戻すためなら、どんなこともやってみせます。それがたとえ、彼女が涙を流すような非道なことであっても……」
「なら、ちょうどいい。お前に任務をやろう」
ハイサルは愉快そうに翡翠色の双眼を吊り上げた。
それから、玉座の上でゆっくり足を組み直すと、目前に跪く男にこれ以上ない慇懃さで言葉を放った。
「ギルダムに戦を仕掛けてこい。ちょうどよく、一旦本国に撤退していた本軍が、冬を前に成果を上げるべく、国境の川に橋を建設しはじめた報が入っておる。一戦構え、殊勲を立ててこい。それをもって、俺への忠誠の証としよう」
対して、マジーグはハイサルになにも答えなかった。
そのことにハイサルは深く満足する。無言の承諾、それを感じ取ったからに他ならない。ハイサルは立ち上がる。そして、これで話は終わりだ、とばかりに、血に塗れた謁見の間を後にすべくマジーグの脇をすり抜け、扉に向けて歩みゆく。
それでも、ハイサルは最後にこうマジーグに声をかけることを忘れなかった。
「戦果を楽しみにしてるぞ、マジーグ」
マジーグは暫く空になった玉座の前に、膝を屈したそのままの姿勢でいた。
アネシュカの愛おしい笑顔が心をよぎるほどに、彼の息は荒くなり、感情は激する。だというのに、なんらハイサルに一矢報いることもできぬ己の無力さが、マジーグには口惜しくてならない。
床に広がった黒いマントが、床を浸す血を吸ってじわじわと赤黒く染まっていく。それでも、マジーグは微動すらせず、ただその場に血濡れた己の姿を晒し続けていた。
ハイサルはそのまま執務室にも、廻廊の奥の私室にも戻らなかった。
彼が足を向けたのは、王宮の地下牢である。といってもそこは、一見では牢とわからぬ、瑠璃石のモザイクが散らされた白い壁に囲まれた貴人専用の牢である。
ハイサルは敬礼する衛兵らに返礼しながら、清潔な白い部屋のなかに歩みゆき、なかの椅子に座している老人に嘲りの声をかける。
「父上、不自由はしていませぬか」
「ハイサル……」
ガロシュ二世が顔を上げて、息子の顔を睨みつける。
流石に一国の王だけあって、このように軟禁されても、その顔はなお威厳に満ちている。だが、ハイサルの次の言葉を耳にして、ガロシュ二世は語を荒げた。
「いい道具が、マリアドルに帰ってきましたよ。父上の育ててくれたいい道具、がね」
「……マジーグに再び任を与えたのか、酷いことを……!」
しかし、ハイサルは悠然としたものだ。
「父上は甘いのですよ。律儀に約束を守って、みすみす彼を逃すなど。それに、聞くところによると、我が国がせっかく一度は占領したトリンを逃したのは、マジーグのせいだということではないですか。だとしたら、彼には、チェルデ攻めの最後まで責任を取らせるのが筋でしょうとも」
「お前はチェルデ全土の征服を、諦めてはないのだな」
ガロシュ二世が顔を顰めながら、語を零す。
そして、少しの沈黙のあと、息子に向かって覚悟を質すかのように、こう述べた。
「お前の母の国だというのにな」
「だからこそです。だからこそ、私にはチェルデをも統べる権利がある。いや、義務とさえ言っていい。そうではないですか? 父上」
「……」
黙りこくってしまった父をハイサルは、舐めまわすように視線を投げる。その目は、どこまで冷ややかなものだった。
それから彼は、声を放る。極めて忌々しげに。
「私の母が、チェルデの女王だったと知ったのは、私たちが十歳の時でした。私たちは合点したものです。なぜ、私たちがシュタラの王宮でなく、マリアドルの片田舎の砦で育てられたのか、兄たちから侮蔑の視線を浴びせられてきたのか」
「ハイサル……」
「そのときから、私の生きる望みは、いつの日かチェルデを制することになりました。私はチェルデが憎いのですよ。この出自ゆえに疎まれてきたのですから。ならば、いっそ、マリアドルもチェルデも双方手に入れて、この有り余る溜飲を下げてやろうと、そう思うようになったのですよ」
そう話すほどに、ハイサルの顔からは笑いが消えていく。代わりに彼の表情を覆うのは、積年の鬱積からくる憎しみだ。
「私はそのためには、なんでもする覚悟ですよ。父上には、ここからその様子をご覧いただきましょう。楽しみにしていてください」
最後に、ハイサルはガロシュ二世にそう言い捨てると、踵を返して足音も高く牢から出ていった。紫色のローブの上で、息子の茶褐色の三つ編みが激しく揺れる光景を、ガロシュ二世は声もなく見送る。
重々しい音を立てて扉が閉ざされた白い部屋のなかで、老王は肩を落としながら、遥か遠い日となったチェルデの美しい思い出を胸に過らせる。
「エリカ・カジュ……」
乾いた唇から漏れ出た愛しい女の名前が、牢に虚しく響き渡った。
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