第三十二話 刹那、触れ合う熱と熱
「ワイダ様はギルダム人だ。あの方は位の高いギルダムの神官であったのだよ」
アネシュカによる絵の授業を終えたあと、彼女を部屋まで送り届ける廊下の途中で、そう語り出したのはソウファだった。
あの謎の花の絵を描いた後も、ワイダはアネシュカに自分の身の上を明かそうとはせず、ただいつものように美しく寂しげな微笑を漏らすだけだった。それで耐えかねたアネシュカは、帰り道を共にしたソウファに彼女について尋ねたのだ。
その問いに対するソウファの返答は、アネシュカを客室に送り届けるまでに終わらぬほどの、長い語りであった。
「じゃあ、あの花はギルダムの……」
「そうだ、あれはカゾの花だ」
ソウファの言葉にアネシュカは驚いた。
彼が口にした花の名は、あまりにもチェルデでも有名だったからだ。
「カゾ! あの猛毒の実が取れる、ギルダムの植物ですか? まさか、その花があんなに美しい花だなんて。意外でした」
するとソウファはもとより細い目をさらに窄めて微笑んだ。
「だろうな。だが我が国ギルダムでは、カゾの花は、その可憐さから大変愛されておる。『約束』『固い愛情』などの花言葉で表されるくらいにな」
「そうなんですか……」
アネシュカは驚きのままに呟いた。
世界にはまだまだ知らないことがたくさん満ちている。そのことを思い知らされて、今日の彼女の胸中は激しく揺れるばかりだ。
――じゃあ、あの工房で審議された謎の絵は、ギルダム帝国に関係するものなのかしら?
すると、そんなアネシュカの疑問に重なるように、ソウファが言った。
「私もギルダム人だ。長く神殿でワイダ様にお仕えしてきた。三年前、戦場の兵士を慰問に訪れたワイダ様は、私と共にマリアドル軍に襲われ、この後宮に来られた。それからワイダ様はハイサル殿下の一番のお気に入りとなり、あの高慢な殿下もワイダ様には一目置いておる。だから、そなたの身の安全に関しては、なんとかなるだろう」
「はい……」
「だが、その代わりと言ってはなんだが、私はそなたに頼みたいことがある」
「私にですか?」
アネシュカは思わぬソウファの言葉に足を止めて、ペリドット色の瞳を瞬かせた。するとソウファは細い目を尖らせ、周囲を見渡す。
そして人気のないことを確かめたあと、アネシュカに囁くような小声でこう告げたのだった。
「アネシュカ。ワイダ様をお救い頂けないか。あの方は故郷を思いながらも、ここの女たちのために身をやつすおつもりでおる。しかし、私はワイダ様をお救いしたい。そのためになら、私はそなたに力を貸す所存だ」
途端に誰もいない後宮の廊下に緊張が漲った。アネシュカは唾を、ごくり、と飲む。
「ソウファ様……でも、私が、どうやって?」
「私に考えかある。聞いてはくれぬか」
時刻は午後になっていたが、なおも窓から眩しい秋の陽が差し込む後宮の廊下である。そのふたりきりの空間に密やかな声が響き渡る。
アネシュカはソウファの言葉を一言も聞き漏らさぬように、意識を彼のちいさな声に集中させた。
「本来、神官はどこの国でも不可侵であるが、ギルダムの文化では、周辺国のどこよりも特別な位とされておる。そんなお方を寵姫として扱っていると知れば、必ずやギルダムはハイサル殿下打倒に動くことだろう。そうとすれば……アネシュカ。そなただけでなく、そなたの想い人をも救うことにもなるのではないかな?」
「想い人……もしかして、エドのことですか!?」
すると、そのとおり、の言葉の代わりに、ソウファが深く頷いた。
アネシュカは溜まらず、興奮気味に声を上げる。
「彼のためになるのなら……私、なんでもします!」
「アネシュカ、声が大きいぞ」
ソウファが眉を顰めながら、そっと唇に一本指を差し伸べる。慌ててアネシュカは口を押さえた。
そして、それからソウファがアネシュカに伝えてきた提案とは、たしかに、アネシュカならず、マジーグの身にも大きく関わることであった。
しかもソウファは、その夜、ふたりに思わぬ逢瀬をも、もたらしたのである。
アネシュカは、夜の後宮の庭園に佇んでいた。
それより一時間ほど前、下女が置いていった夕食の盆の上には、一片の紙切れが折りたたまれて置かれていた。訝しがるアネシュカに下女はそっけなく、ソウファ様からのお言付けでございますよ、といい去って行ったのだが、ひとりになってから心を逸らせて紙を開いてみれば、そこにはこうとだけ綴られていた。
「庭の衛兵の交代時間を細工しておく。食事が終わったら、あの絵を持って庭園の噴水に来なさい。時間は一時間のみ」
そういうわけで、アネシュカはなにがなんだかわからず、ひとまず「それ」を懐に携えて、夕食後庭園の噴水にやって来たのだった。暗闇が多う底辺に灯りはなく、ただ噴水の水音だけが響き渡っている。
それでも、アネシュカにはすぐわかったのだ。程なく、辺りを窺うようにしながら現われた人影が、誰であるかと言うことに。
「……エド!」
叫んでみれば、懐かしい愛しい野太い声がした。間違いはなかった。あの声だった。
「アネシュカ……!」
黒い影が自分の名前を呼んでいた。黒髪を纏めた三つ編みを跳ねさせて。
己を認めて、影はすぐに傍に駆け寄ってきた。そして腕が差し伸べられる。勢いよく抱き寄せられる。狂おしいまでに帰りたいと求めていた逞しい胸の元に、抱きしめられる。
気がつけば、アネシュカはマジーグの腕のなかにいた。
腕は小刻みに震えている。見上げてみれば、暗い庭園でもわかる鋭い黒の双眼は、間違いなくマジーグのものだった。
アネシュカの瞳は、安堵の涙に濡れた。
「エド、会いたかった。すごく会いたかった。私、怖くて、怖くて仕方なかった。だけどあなたに会えたから、もう怖く、ない。会いたかったわ……」
「俺も、俺も、お前に会いたくてたまらなかったよ。アネシュカ、大丈夫か、酷い目に遭ってはないか?」
マジーグの声もまた、震えていた。注ぎ込む懐かしい肌の熱とともに、アネシュカにはそれがとても愛おしい。彼が自分のことをずっと案じていたのだと思いを噛み締めれば、なおさらだ。彼女は昂る甘い喜びのままに、濡れた目を拭い、自分からも、ぎゅっ、とマジーグを抱きしめる。
そして、彼を安心させるべく、愛しい男の耳元で、囁いた。
「エド、私、大丈夫よ。ワイダ様の保護下にいさせてもらっているから、私、なにも酷い目に遭っていない」
「ワイダ?」
「うん」
アネシュカは微笑む。
そうして彼女はマジーグに、己のいまの境遇について、逐一語ったのであった。
「そういうことであったか……ハイサル殿下も酷なことを……」
噴水の縁石に腰を下ろしたアネシュカとマジーグは、宵闇のなかで寄り添うように隣り合っていた。
やがて、ワイダの素性を知らされたマジーグが低く、呻く。
「後宮の宦官が俺に用があると言って、密かに通じてきたときは、肝が冷えたよ。まさかお前がそんなところにいたとはな」
マジーグはアネシュカの肩に腕を回す。
アネシュカはマジーグの仕草に泣きたいほどの幸せを思い、軽く目を瞑る。そして男の身体にもたれかかる。こうしていられるのが僅かな時間しかないと知っていても、否、知っているからこそ、このかけがえのないぬくもりをいまは味わい尽くしたかった。
「ソウファから、ハイサル殿下がお前を後宮に送ったと聞いたときは、気が狂うかと思ったよ。殿下の前で知らされないで、よかった。仮にそうされていたら、俺は殿下をなにがあっても瞬時に殺していただろうよ……」
マジーグが息を大きく吐きながらアネシュカに零す。それから彼は、本当によかった、の言葉代わりにアネシュカの亜麻色の髪を優しく漉いたので、アネシュカもマジーグの手を握って、彼の気持ちに応じた。
「でも私、大丈夫よ。よくしてもらってる。ご飯もちゃんといただけているわ。マリアドル風の料理ってちょっと塩辛いけど、美味しいのね。今日の夕食ね、羊肉をハーブと塩で煮出したスープだったんだけど、すごく美味しかったのよ!」
「ああ、それはハイダンという料理だな。俺も好きなやつだ」
マジーグが横で優しく笑みを刻む気配がした。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。アネシュカは表情を引き締めると、胸元に差し込んでいた「それ」をマジーグの目の高さに差し伸べた。
「エド。この絵を見て」
「これは……」
「これはワイダ様が描かれたカゾの花の絵よ。署名も入っている。正真正銘、ギルダムの神官であられるワイダ様が描かれた絵。だから、エド、これをなんとかギルダムの誰かに渡して、ワイダ様が故郷に帰る術を作って差し上げて。あの方、他の寵姫のためにと、この後宮に身を埋めるおつもりでいるけど、本当は誰よりも祖国に帰りたいと願っている」
アネシュカの瞳が真剣な光を帯びた。それは暗くてもマジーグには分かったようで、彼も真摯な面持ちでアネシュカに向かい合う。
「この絵は、ワイダ様がマリアドルに囚われている確固たる証拠になるわ。これをなんとかして、ギルダムに伝えてほしいの」
アネシュカは一気にそこまで語を吐いた。
すると、暫しの沈黙のあと、マジーグが苦笑混じりに零す。
「アネシュカ、お前は、こんな境遇にありながらも、他人をここから逃がせというのだな」
「……私、変かしら?」
「いや……」
マジーグが頬に皺を寄せて微笑する。
それから彼はいかつい大きな手で、アネシュカの頭を優しく撫でた。
「お前らしいよ。俺は、そんなお前の優しい心が大好きだ。どれだけいままで、その心持ちに救われてきたか、言葉では言い表せぬ」
その穏やかな声と、自分の頭を弄るマジーグの手の感触が嬉しくて、アネシュカの鼻の奥は思わず、つん、とする。攫われて以来ずっと堪えていた涙の濁流が、一気に溢れて出しまいそうだった。
だが、アネシュカはそれをなんとか堪えて、マジーグの目をまっすぐ見据えると、これが大事なのよ、と言わんばかりに彼に言った。
「だけどね、エド。これは私とあなたのためでもあるの。ソウファ様はこう仰ったわ。この絵は、ギルダム帝国がハイサル殿下打倒に動く大きな一手になると。そうすれば、あなたも私も、自由になれる。そうじゃない?」
マジーグが息を飲む。
闇のなかを夜風がそよぐ音と、噴水の水音が、ふたりの周りでさざめいた。
「……わかった」
やがて、マジーグがそう言った。
「この絵のことは、俺がなんとかしよう。だが、その前に、お前だけでもここから逃げろ、アネシュカ。俺が衛兵を引きつけてなんとかする」
「エド」
アネシュカは驚いてマジーグの顔を見返した。
すると至近距離で黒い双眼が、切羽詰まった光に瞬いているのが目に映る。
なので、アネシュカはこう言わずにはいられなかった。
「でも……この建物を出られたとしても、王宮の守りは厳重でしょう? それは無理よ」
「そうだ。でも、万が一、俺がどうかなろうと、それは仕方ない」
今度息を飲むのはアネシュカだった。
そんな彼女の前でマジーグはアネシュカの両手に手を差し伸べ、固く握り締めると、こう、ちいさく叫んだ。
「……俺はそれでもいいんだ! アネシュカ、お前さえ無事にチェルデに戻れれば!」
「だめよ、エド」
対して、アネシュカの答えは静かな響きだった。
しかし、その言葉にはどこまでも迷いはなく、同時に確固たる口調だった。
「そういうことなら、私は、逃げない」
「……アネシュカ!」
「だって、エド」
声を荒げたマジーグの手を、アネシュカは今度は自分から握る。
そして、それから、穏やかな声でこう告げる。
「私たち、いっしょにチェルデに戻りたいじゃない。そうしていっしょに、また、穏やかに暮らす。私はそうしたいの。私は、他でもないあなたといっしょに、そうしたい。……それにね」
言葉を失ったマジーグに、なおもアネシュカは優しく語りかける。
「私、エドに伝えなきゃいけない、大事な話があるのよ。でもそれは、私がここを出られたときに、話すわ。だから、それを楽しみにしていて」
「なんだ……? それは」
「今は秘密。だけどね、あなたと私に関わる、とびっきりの素敵な話」
そこまでアネシュカが言葉を継いだとき、遠くで笛の鳴る音が聞こえた。マジーグには、それが衛兵の交代時の合図だとわかる。
なので彼は急いでアネシュカの肩を抱くと、ペリドット色の瞳を射るように見つめる。
「アネシュカ、俺は必ず、お前を助けるからな。待っていてくれ」
「もちろんよ、エド」
ふたりの瞳が交差した。吐息が触れ合う。熱が絡み合う。
次の瞬間、マジーグは荒々しく、アネシュカの唇を奪った。
そして、熱く激しい思慕をアネシュカの唇に刻み込むと、素早く身を翻し、庭園の闇に再び消えていく。
愛しく親しい熱がまた、遠くに離れていった。どこともしれぬ、遠くに。次にいつ会えるかもわからぬ、時の彼方に。
本当は、行かないで、と言いたかった。
もっと私を抱きしめていて、と縋りたかった。
アネシュカは途端に心を襲う切なさに、ぐっ、と唇を噛み締めた。そうでもしないと今度こそ、心のままに泣いてしまいそうだった。
しかし、彼女は耐える。必死の思いで堪える。
なぜなら、きっと暗がりに姿を消していったマジーグもいま、同じ思いでいるであろうことを確信していたから。ならば、自分だけが泣くわけにはいかない、そうアネシュカは思ったのだ。
だから、両手の拳を握りしめて、庭園にまたひとり、佇む。
それでもなお、瞳はマジーグの消えていった茂みの暗がりを見つめてしまう。彼の熱の軌跡を追うかのように。
アネシュカは暫くそのまま、夜の闇濃い庭園にて動くことも出来ずにいた。
吹き付ける秋の夜風に、亜麻色の髪を乱されながら。
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