第三十三話 暁を超えていけ

 マリアドル南部、ギルダムとの国境地帯は、湿地帯が黒々と続く不毛の土地だ。


 吹き荒ぶ風は南の土地ならではの、ぬるいあたたかさがあり、久しぶりにその地に立つマジーグの心を理由もなく落ち着かぬ気持ちにさせる。


 ――否、いまの俺の落ち着かない気持ちには、わけがあるな。


 マジーグは前方に霞む、川向こうの地表を見ながら思った。そこはもう、ギルダムの領土だ。故国でも、アネシュカのいるチェルデでもなく、己が長らく策謀の相手とし、さらにここ数年は互いの国に攻め込みあい、敵としている国の大地だ。


 ――よりによってそういう国に、俺はこの身を託そうとしているのか。


 アネシュカから預かったワイダの絵は、このいまの瞬間も、大切に軍服の懐に潜ませている。


 あのマリアドル王宮の後宮での、彼女との逢瀬から、すでに十日。マジーグの胸中では、アネシュカの言葉に賭ける心持ちが生まれていた。だがそうであっても、その道を選ぶことは、祖国に牙を剥くことでもある。


 そのことを思うとき、マジーグの心中といえば、複雑だ。


 ――ハイサル殿下のクーデターは、軍部を中心とした支持しか得ていない。いまだ国内には陛下を擁する勢力がいる。だが、彼らの力だけでは殿下打倒には不十分だろう。陛下がご無事かどうかも不明ないまなら、なおさらだ。なら、確かにギルダムの力を借りるのは正しい。しかし、だ――。


 国境の川の上を鴉であろうか、黒い一羽の鳥がぎゃあぎゃあ鳴きながら、向こう側に飛び去って行くのが目に映る。


 そこまでマジーグが思いを巡らせたとき、背後で彼に声をかける者がいた。


「よくマリアドルにお戻りくださいました。マジーグ閣下」


 かつて部下としたことがある将官ひとりが、ぬかるみを踏みしめて立っていた。

 その言葉は好意であることを知っていても、マジーグにはどう答えればいいか、咄嗟に答えが見つからない。なので彼は、軽く頷くだけして、返答とする。


 対する将官といえば、上機嫌で語を継いでいく。


「閣下が先頭に立たれますと、軍の士気が異なりますからね。戦場に我らが男神ガランが降り立った、と崇める兵も多いのですから」

「……既にあそこまで、橋をかけられてしまったのか」


 マジーグは話を逸らすように、黒い鷹のような双眼を湿原の向こうに投げた。

 視線の先には、ギルダム側から国境の川の中洲ほどまで架けられた、木製の真新しい橋が見える。すると、顔を綻ばせていた将官が、表情を厳しくして、マジーグの問いに応じた。


「はっ……、申し訳ございません。この地方からギルダムの本軍が撤退して、早くも半年が経過しています。それだけに、どうしても防御が手薄になっていたところを突かれまして。渡河用の橋は、かなりの部分がすでに完成しております」

「ふむ。基礎部分に関しては、ほぼほぼ完成しているように見えるな」


 マジーグは、水上の橋から視線を逸らさずに答えた。そのままの姿勢で、彼は将官に尋ねる。


「今夜、工兵を動かせられるか」

「今夜ですか? そうですね、今から招集をかければ、十名ほどは動けると思いますが」

「なら至急、集めてくれ。そして今日の夜、夜半に、橋に忍びこませろ。火を付けるように見せかけてな」

「見せかけ、ですか?」


 将官がマジーグに問い直した。すると漆黒の鬼神と呼ばれる男は、不敵な笑みを浮かべる。


「そうだ。火を付けるのは見せかけだ。橋の一点に獣の脂を仕込ませろ。それが真の目的だ」

「なるほど、流石、閣下ですな。ですが、朝、明るくなってから敵が点検すれば、すぐに見破られてしまいませんか?」

「だから、その隙を与えずに攻撃へ移る」

「と、言いますと……」

「そうだ。明日の朝、日の出前に少人数の兵を用いて、攻撃を仕掛ける。そのときに脂を仕込んだ部分に矢で火をかければ、少しは攻略しやすかろう。急な話だが、全ての手配を頼めるか」


 マジーグが鋭く下した命に、将官は慌てて頭を垂れた。そしてすぐに、上官の命令を遂行すべく、背面の陣地へと身を翻していく。


 上空のどこかでまた、鴉が鳴いているのが聞こえる。

 黒い三つ編みが、ぬるい風に揺れる。


 それから暫く、マジーグは鳥の声に鼓膜を打たれながら、彼方に広がるギルダムの大地を、ただ、眺めていた。


 身体の奥にじわじわと広がっていく己の覚悟を、脳裏で反芻しながら。



 その日の夜半、泥地を避けて作られた丘の上の天幕のなかで、マジーグは将官から報告を受けていた。


「予測通り敵兵に見つかり、小競り合いにはなりましたが、陽動で放った火の方に引きつけることができ、脂の仕込みには成功しました」

「そうか、ご苦労だった。あとは日の出前に強襲するだけだな」


 マジーグは満足気に頷く。

 すると、夜も遅いというのに軍装に漆黒の軍装に身を整えている彼を訝しく思った様子で、将官が尋ねてくる。


「閣下も出るのですか?」

「ああ。俺がいるといないのでは、兵の士気が違うのだろう?」

「それはそうですが、わざわざお出になるとは……では、後方から指揮をお取りになるのですか?」

「いや、俺は最前に出る」


 マジーグは間髪入れず断言した。その言葉から、己の企みが透けて見えなかったかどうか気に掛かったが、感情を抑制することは三十年の軍務を経て慣れている。

 それができなかった数少ない事例があるとしたら、先日のハイサルとの対峙、そのくらいだ。


 だからマジーグは悠然と将官の前で笑う。黒衣の悪魔、または男神ガラン、どう言われても良い。いまはただそれを演じ切るのみだった。


 そんなマジーグに気押されたのだろうか、将官はそれ以上彼に抗することなく、一礼し天幕を退出していく。


 冷ややかな夜気が、ゆらり、揺らぎ、マジーグの彫りの深い顔を密やかに撫でる。

 夜は早くも、白み出していた。

 


 ほどなく、日の出が迫る時刻となった。

 天幕を出たマジーグは五十名にも足りぬ少数精鋭の兵を前に、彼は屹立する。


 すると、背後から嗄れた声が聞こえた。


「閣下、ご武運を」


 攻撃には参加しない元副官だった。

 マジーグは振り向かず、ただ軽く頷く。タラムにだけは震える内心を見透かされてしまいそうで、マジーグは、彼の顔を直視することができない。

 そのまま前に歩を進めれば、タラムが薄く笑う気配が背中を掠める。


「まずは強襲し、敵軍を誘い出させよ! そして軍勢が中洲まで完成している橋を渡ってきたところで、一気に仕込んだ脂を狙って火を放て! そうすれば、橋も兵も一気に崩れるだろう、諸君の戦いに期待する!」


 マジーグは野太い声で集まった兵に訓示を述べた。ひさびさに兵士らから浴びた視線は、ことのほか熱く感じる。


 やがて漆黒の軍装を纏ったマジーグを乗せた馬を先頭に、軍勢は進んでいく。

 泥地を渡り、枯れかけた草が茂る沼を抜ければ、そこはもう、ギルダムとの国境の川だ。

 中洲まで完成した橋が、暗がりに白く浮かび上がっているのが、マジーグの双眼に映る。その橋を目指して、先発の歩兵が渡河を始める。


 ほどなく、マリアドル軍を察知したギルダム兵も動き、戦の火蓋は切って落とされた。



 配下の将官から声が爆ぜたのは、戦闘が始まって三十分ほど経過した頃だった。


「マジーグ閣下! なにを!」


 それまで川の手前に一歩引いて、戦いを見守っていた漆黒の鬼神が、馬をいきなり前方に向けて走らせたのだった。

 刻はちょうど夜明けを迎えていた。山向こうから昇った陽の一閃が、マジーグの黒いマントが川面に躍る様子を照らし出す。


「血迷られたか! 閣下!」


 背後から戸惑いの声が放たれ、水を割って馬を走らせるマジーグの鼓膜を打つ。

 だが、彼は心でこう叫びながらも、振り向くことはしなかった。


 ――すまん!


 冷たい飛沫が激しく跳ね、馬の腹を、マジーグのマントを、軍装を濡らす。それでもマジーグはただまっすぐに、川向こうのギルダムの大地に向かって馬を走らせた。


 橋にはすでにマリアドル兵によって火がかけられていた。脂を仕込ませた箇所は激しく燃えており、橋は落ちんばかりだ。しかしそれに構わず、川の中洲まで馬を進めたマジーグは、水中を疾走する馬を捨て、いきなり馬上から炎に包まれた橋へ身を躍らせた。


 冷たい感触から一転して、今度は肌を、熱が焦がす。

 だがそれに耐え、マジーグは黒い三つ編みを跳ねさせながら橋にしがみつき、やがて身を反転させて橋の上に立つ。

 そして、呆然としている橋の上のマリアドル兵とギルダム兵を蹴散らしながら、ギルダム領に向かって崩れかけた橋を駆け出した。


 ――俺は、アネシュカを、この手で取り戻してみせるんだ! どんな手を使っても!


 朝の陽のもと、燃える橋の上を駆けるマジーグの胸で、瑠璃石が激しく揺れる。彼はそれにいかつい手のひらを重ねた。


 ――マリアドルの後宮の掟は厳格だ。だとしたらアネシュカの保護は、ワイダ様に賭けるしかない。ならば、俺はいま、マリアドル人としての全ての過去を捨てる。だが、捨てるばかりではない、代わりに手に入れるのは、未来だ。止まるな、臆するな、諦めるな。これは俺の、いや、俺たちの未来のための、疾走だ。


 動悸が乱れ、心の臓の鼓動は軋むように弾む。

 しかしそれでも、マジーグは止まらなかった。止まれなかった。


 ――俺はあの愛しい瞳を、再び俺のものにしてみせる。そして、彼女と生きるのだ。俺は、アネシュカとともに、生きたい――。


 暁の下、マジーグはただそれだけを念じて走った。躊躇わず、前へ前へと足を動かした。

 自分の明日はそこにあるのだ、と強く信じて。



 朝陽が空に高く昇った頃、タラムはマジーグ逃亡の報を耳にして、人知れず微笑んだ。


「ほう……飛び立ちましたか、閣下……それでいいのですよ」


 タラムの呟きは朝の空気に静かに溶けていく。

 混乱する陣地のなかで、それを耳にした者は、誰もいなかった。

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