第二十九話 もの憂げな寵姫
その日、マリアドル王宮の後宮を訪れた男たちは色めきたっていた。
目の前の廊下を、新しく後宮に連れてこられたばかりらしい女が歩いてくるのだ。
ふたりの兵士に囲まれた女の表情といえば、これ以上なくむっつりとしていて、不承不承連れてこられたのは一目で分かる。
これを見た男たちが興奮しないわけがなかった。
「おい、あれ、新しい女だよな」
「綺麗な亜麻色の髪をしてやがる。見たところ異国の女みたいだな。チェルデ人か?」
「見ろよあの緑の目。らんらんと燃えてやがる。なにやら滅茶苦茶怒ってる様子と見える。なんとも気の強そうな女だよ」
「それはいいな。そういう女こそ、侍らせ甲斐があるってもんだ」
――もう……もう! もう! なんで私がこんなことに? なんで私はこんな場所に? 嫌、絶対嫌よ。チェルデから攫われたうえ、エドからも引き離されて、こんなところで一生を過ごすなんて、冗談じゃないわよ!
ハイサルの私室から連れ出されたあとも、アネシュカの心はなおも怒りの炎にごうごうと燃えるばかりだ。
しかしながら兵士ふたりに腕をむんずと掴まれて、その足で連れてこられたのは、まさにマリアドル王宮の後宮と思しき建物で、流石の彼女も背筋に悪寒が走らざるを得なかった。
そして今、アネシュカは後宮のなかへと足を踏み入れることを余儀なくされている。隙を見て逃げ出したくとも、ここは異国の王宮、そして兵士になおも囲まれているとなっては、それもままならない。
後宮の壁と床の至るところには、王宮の他の場所と同じく、瑠璃石らしき青い石のモザイク模様が広がっている。天窓から注ぐ陽のひかりに反射して、深い青はいよいよ煌びやかに華やぐ。
しかし、その美しさもこの空間に限っては、歪んだ男の情欲を煽り立てるような禍々しさをも醸し出しており、アネシュカの胸中もいよいよ暗く澱む。
こんなことすら、心を過ぎった。
――いっそのこと、舌でも噛んで死んでやろうかしら。そうすれば、あのハイサル殿下とやらも悔しがるだろうし。
しかし、一瞬ののち、アネシュカは亜麻色の頭を、ぶんぶんと振ってその思いを諌める。
――いいえ。そんなことしたら、エドが苦しむ。残酷な運命に巻き込まれたあの人を悲しませるようなことだけは、避けなくちゃ。私はどんな目に遭っても、この場を生き抜いてみせるわ。
アネシュカはぐっと両手の拳を握り締める。
あまりにも思わぬ展開に心は挫けそうであったが、マジーグのことを思えばこそ、どんな苦境でも乗り切ってみせる、そして愛しい人に再び巡り会える日まで耐えてみせる、そんな決意が胸にじわじわと熱く湧くのだ。
そのとき、そんなアネシュカに兵士が声を放った。
「さぁ、どの男を相手にする?」
「はぁ?」
思わぬ言葉にアネシュカは怪訝な顔で足を止める。すると兵士ふたりの顔が下品な笑いに歪んだ。
「知らないのか。マリアドル王宮の後宮ではな、最初の相手は女の側から選ばせてやる決まりだ」
「これから慰み者になるお前への、せめてもの心遣いだ、さあ選ぶが良い」
見れば、目の前の廊下には、アネシュカへとぎらぎらと光る興味の視線を湛えた男たちが待ち構えている。
途端に、アネシュカの肩は恐ろしさでぶるり、と震えた。兵士ふたりは面白そうにそんな彼女を見やると、両側から腕を掴んで男たちの前に引きずり出さんとする。
無遠慮なたくさんの視線が顔に刺さり、アネシュカは喉元に吐き気を覚えたが、こうとなってはどうすることもできない。
そのときだった。
「待たれよ」
男たちを割って、黄色の衣を纏ったひょろりとした長身の文官が声を放ちながら現れた。どうやら客ではないらしく、兵士たちの表情は一様に戸惑う。だがひょろりとした文官はアネシュカに向かって言う。
「新しく入った寵姫とはそなたか? こちらに来たれよ」
兵士ふたりは途端に文官に噛み付く。
「ソウファ殿、なにか問題が?」
「ハイサル殿下からの特別な通達で、この女は即日、務めに出してしまうよう言われております」
するとソウファと呼ばれた男は、苦笑いを細長い顔に閃かせながらこう言った。
「ハイサル殿下にも困り申しましたな。殿下がなんと仰っても、それは許せません。ここは後宮、女の園。ここにはここの流儀がありますゆえに。それにこんな見窄らしい格好で務めに出しては、後宮の威厳も保てませぬ」
「しかし、これは命令で……」
「貴殿らは、この暴挙をワイダ様が知ったらどう思うか、ご想像できぬのかな? ワイダ様は、ハイサル様のご寵愛をいまいちばん授けられている御方ですぞ」
「うっ……」
ソウファの言は兵士たちに効果覿面であったようだ。ふたりは顔を顰め、呻く。
その隙にソウファは兵士に囲まれたアネシュカの腕をぐっ、と掴んで引き寄せ、それから自分についてこいとばかりに目配せする。
後ろから男たちの舌打ちと、なんだよ、つまんねえな、と言う声が歩き始めたアネシュカの背中を叩いた。だがソウファはそれを気にする風もなく、彼女を先導してずんずんと後宮の奥へと歩を進めていく。
アネシュカはソウファの背中に声を投げかけた。
「あっ、あの、助けていただき、ありがとうございました!」
しかし、ソウファは振り向きもせず、答える。
「勘違いするな。助けたわけではない」
「え?」
「言ったであろう。ここにはここの流儀があると。新しく入った寵姫はな、まず、最初のお務めの前に、必ず、後宮を司るお偉い方に挨拶に伺う掟がある」
ソウファの淡々とした声に、アネシュカは落胆しながら答える。
「そうなんですか……」
――なんだぁ……。助かったと思ったけど、やはりそうはうまくいかないかぁ……。
そんな声が心を過ったとき、アネシュカの身体は不意に、ふらり、と後ろに揺れた。
――……あれ、れ?
「どうした」
ソウファが訝しげに後ろを振り返り、よろめいたアネシュカに声を掛ける。
「あ、ちょっと、目眩が……」
「そうか。そなたはこれからここで仕える大切な身体だからな。体調には万全を尽くせ。このあとも調子が悪いようなら、すぐに言うようにせよ」
「……はい」
ソウファの相変わらず淡々とした言葉にアネシュカはとりあえず答えたが、思わぬ身体の変調を感じ取り、その胸中はうわの空だ。
そうして、アネシュカは「あること」に思い当たる。
――あ……。これ。もしかして……?
アネシュカの心の臓がどくん、と跳ねた。
その予感は、昨今の体調や身体の奥から感じていた疼きを思い返すにあたり、じわじわと現実味を増して行く。
――きっと……そう。でも、こんなときに、わかるなんて。よりによって、こんなときに。けど……。
再びソウファの背を追って歩きながら、アネシュカの決意はさらに新しく、そして熱く、滾っていく。
――そうよ、私は、こんなところで人生を終えるわけにはいかない、ってことよ。これは……そういう思し召し。それに間違いないわ。こうとなったら、絶対、チェルデに生きて戻ってやるわ。もちろんエドもいっしょに!
「ワイダ様、新しく入った女をお連れ申しました」
ソウファが廊下の突き当たりにある大きな扉の前で、部屋のなかへと声を掛ける。
気がつけば、アネシュカは後宮の最深部らしき場所に辿り着いていた。
瑠璃石のモザイクが散りばめられた廊下はそこで途切れており、左右の窓からは中庭の緑が風にそよいでいるのが見える。
同じ後宮であるというのにそこは、先ほどのような男どもの情欲にざわつくこともなく、静謐な空気が満ちているのが、アネシュカにはなにとも不思議だった。
程なく、返答があった。澄んだ女の声だった。
そしてソウファが深く頭を垂れながら、扉を押し開ける。
ぎいっ、と重厚な木の扉が開いてみれば、部屋のなかもまた中庭からの日差しが満ちており、白と金の華麗な装飾に彩られた壁や調度品を鮮やかに浮かび上がらせている。
そしてそのなかに立つひとりの若い女に、アネシュカは、はっ、と息をのんだ。
女の大きな青い瞳のまつ毛は長く、美しく編み上げられた華やかな金髪に揺れる瑠璃石と真珠の髪飾りは、窓からの陽に麗しく映えている。細い肢体といえば、金糸の唐草模様が刺繍された優美な紺のドレスに包まれており、それもまた美しい容貌をこれ以上なく引き立てている。
――うわぁ……綺麗な女性……。
ワイダと呼ばれた女の、どこか神々しくさえある佇まいに、アネシュカは己が置かれている立場も一瞬忘れ、ほう、と見惚れた。
――後宮の寵姫というより、創世神話に出てくる女神様みたいな女性だわ。だけど。
アネシュカはふと、違和感を覚え、ワイダの顔をしげしげと見つめる。
見た目の華やかさに反し、彼女の眼差しはどこか寂しげな色を宿していた。アネシュカには、それが気に掛かる。
そうしている間に、ソウファは一礼の後、身を翻して部屋から退出していく。
ばたり、と扉が閉まり、部屋にはアネシュカとワイダのふたりが残された。アネシュカは落ち着かぬ気持ちを誤魔化すかのように、ソウファを真似て、ひとまずワイダへと深々お辞儀をする。
おそらく彼女はこの後宮において、もっとも高貴な人物なのだろう、そう思ってのことである。
すると、ワイダが赤く紅を差した唇を動かした。
聞こえてきたのはやはり、この場に似合わぬ澄んだ音色の声である。
「緊張せずともよいですよ。私はワイダ。マリアドル王宮の後宮で、最高位にある寵姫です。して、お前の名は?」
「アネシュカ・パブカです」
「そう。アネシュカ、お前はどこから来たの?」
「チェルデです。ですが私は、望んでここに来たわけではございません。無理矢理攫われてきたのです」
「そう」
アネシュカの返答を耳にして、ワイダは金の髪を掻き上げながら床に目を落した。その視線もまた、どこか陰のあるものに思えたのは、果たして気のせいだろうか。
「ここに居る者は、そのような境遇の女が多いのです。ですから、仲良くすると良いわ。そうすればお前も寂しくはないでしょう。そうやって務めをこなしていくうちに、慣れていくでしょうから。他にここで暮らすにあたり、なにか望みはありますか? 私が叶えられることであれば、ソウファに命じて手配します」
ワイダの言葉はもの柔らかではあったが、諦観に満ちている。
アネシュカの事情を理解はしても、ここから出る手立てはない、諦めて暮らせと諭すその言葉を噛みしめてみれば、諦めの意味合いはなお顕著だ。
アネシュカは、ワイダもまた自分をここから救い出してはくれないと思い知る。ひたひたと絶望が心を満たしていく。誰にも助けも乞えず、ここで男どもに身体を漁られるのも時間の問題となれば、いったい自分はどうすればいいのか。
彼女は無念さに唇を強く、噛んだ。
だが、ふと、口から言葉が、自然と零れ落ちる。
「……絵を描かせてはくれませんか」
「絵?」
「そうです。私は絵師なんです。ひょんなことでここに連れてこられてはしまいましたが、チェルデ王宮の絵師をしています」
ワイダは視線を床からアネシュカの顔に移した。思わぬアネシュカの言葉に、美しい顔に驚きを漲らせながら。
その目前で、アネシュカは突き動かされるように言葉を紡ぐ。
一筋の光に縋るならば、光は自分にとって絵なのだ。そのことに気付いて昂ぶる気持ちを、押し出すように。
「こんなところにいますが、私には大切な人がいます。だから、なんとしても、生きてここを出たいんです。だけど、ここで自分がこれからどんな目に遭うかと思うと、どうしようもなく怖い。でも、もし、どんな酷い目に遭っても……絵を描くことができれば、耐え切れるかもしれない。そう思うんです」
想いを吐き出していけば、いつしか相対する現実の恐ろしさにアネシュカの声は震え出す。しかし、彼女はなんとか、ワイダの前でこう言い切った。
強くて深い覚悟を心に疼かせながら。
「私は生き抜きたいんです。生き抜いて、また会いたい人がいるんです」
部屋に沈黙の帳が落ちる。
中庭からの光はなおも眩しく、アネシュカとワイダを包み込む。穏やかな秋の風が僅かに開け放たれた窓から、すうっ、と吹き込み、ふたりの間の空気を揺らす。
ややもって、ワイダがアネシュカを見据えた。
その青い瞳には先ほどの寂しさとはまた異なる、真剣な色が揺れている。
「なら、私からも頼みがあるのですが」
「……頼みですか?」
「そうです。それがうまくいくならば、お前の身柄は私が一旦預かるということで、ここでの安全を保証しても良い」
それまでと違うワイダの射貫くような視線に、アネシュカは息をのむ。
ワイダの赤い唇が蠢き、アネシュカの耳に思いもせぬ言葉を刻む。
「アネシュカ。ここにいる女たちへ、絵を教えてはくれませんか?」
ペリドット色の瞳を丸くしたアネシュカの目前で、ワイダの金の髪が、秋の陽光にきらきらと煌めいた。
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