第二部 終章
ともに空を仰ぐ
トリンの石造りの街並みを春の空気が包みこむ。
季節はもうすぐ四月である。冬の寒さを脱ぎ捨てた風は、温もりと木の芽の匂いを纏い、人いきれで混み合う市場の上空をも舞う。
紺色のマントを深く頭に被ったマジーグは、その只中で、店先に並ぶ、特徴的な編み込み生地が目立つ丸いパイに、ふと目を留めた。香ばしく甘い匂いが鼻腔を擽った。
彼は少し考えこみながら、菓子屋の気のよさそうな店主に声をかける。
「親父さん、これをくれるか? えっと……なんと言ったか、この聖霊祭の菓子。ギルスではなく」
「ああ、ギムシャだね。あんた……マリアドル人か?」
「そうだ」
すると、店主が肩をすくめた。
そして、皮肉めいた眼差しをマジーグに投げかけ、ギムシャを紙にくるくる包みながら言葉を零す。
「避難民として来たのかね。あんたの国も大変なこったね。うちらを占領しといた挙句、本国が火だるまでさ。まあ、俺らはその国の民衆にゃあ、文句は言わねぇけど。……はいよ! 一切れおまけしておいた、まあ元気にやれよ」
「それはありがたい。妻が喜ぶ」
「わりぃのはあんたの国の王族と軍人だよな。まったく、お気の毒なこって!」
同情しきりといった顔の店主に、マジーグは彫りの深い顔を曖昧に緩めて笑った。
そして深々と一礼し、市場をあとにする。
クーデターの首謀者たる王子ハイサルが死し、アネシュカとマジーグがギルダム帝国とトリン自治区の後押しによりマリアドルからチェルデに帰国して、すでに三ヶ月余り。
人間の世界は動乱の色なお濃くも、季節は冬から春に移り変わり、自然はまた命の再来の時期を謳歌しようとしている。どんなに人が惑い、争い、傷ついても、それだけは変わらない。
降り注ぐ陽のひかりが眩しくて、マジーグはつい、頭上に視線を投げた。
今日も一段と空は青く、高い。
どこかで鳥が声高く鳴いているのが聞こえる。あれは、雲雀であろうか。
ここ十数年、飛ぶ鳥を落す勢いで周辺国に脅威を与え続けていたマジーグの祖国、マリアドルは、いまや危機に瀕している。
かつてチェルデを占領した力そのままに、ギルダムとの戦へとなだれ込んだマリアドルは、ここ数年、トリンを手放したことに象徴されるように勢力を衰退させてはいたが、それでもギルダムと競る程度の国力は維持してはいたのだ。
しかし、それを覆したのがハイサルのクーデターだった。
これによりマリアドルは国内が大きく分裂した。地方都市にはまだ、ハイサル派の残党に支配されている箇所もあり、年が明けてからは、避難民となってトリンに流入する民も目立つようになってきた。
加えてクーデターはギルダム帝国とトリン自治区の揺さぶりにより倒された。これは、マリアドルはギルダム帝国に大きな借りを作ったことを意味する。
よって復位したガロシュ二世も、本来は敵国であるギルダム帝国の意向を無視して統治に当たるのは困難な状況に陥っている。
さらにトリンの外の元チェルデ領では、ますます反マリアドル感情が高まっているのが現状だ。
マリアドルの苦境を思うとき、マジーグの心といえば複雑極まる。
なにせ、自分がギルダムに降ったことをきっかけに、すべてが動いたのだ。言うなれば、祖国の危機を呼び起こしたのは自分に他ならない。
むろんそれは、ハイサルからアネシュカと自分を救うための行為であったから、いまもって彼に後悔はない。しかし、運命の皮肉に心が疼くのも、また事実なのだ。
そんなマジーグは、アネシュカとともにチェルデに帰国してから、極秘にトリンの市民権を得た。
これは、彼がトリンにいることを今回の騒動を通じて知ったロウシャルの、特別な配慮によるものだ。アネシュカとの暮らしを考えれば、これはなによりも喜ばしいことであった。つまりは、これからのチェルデでの暮らしを保証されたということであったから。
だとしても、彼は周辺国の情勢を耳にするたび、ときに考えこんでしまうのだ。
それでもなによりありがたいことといえば、そんなマジーグを見てもアネシュカがなにも言わないことだ。
ふと思いを巡らせて眠れなくなりそうな夜も、アネシュカはすぐにそれを感じとり、優しくマジーグの腕を取ると静かに身を寄せて来る。そう、彼女は、ただひたすらに、自分の傍に寄り添おうと心を砕いてくれている。
マジーグは再び訪れたアネシュカとの穏やかな暮らしのなかで、そのことを感じ取るたび、彼女に感謝する。そして、自分もアネシュカを支えねば、と強く心に決意を固める。
なにしろ彼女はいま――。
そこまで考えを巡らせた彼の肩を、後ろからぐいぐいと引っ張る者がいる。
マジーグは思わず黒い双眼を光らせながら身を捩ったが、すぐに表情から険しさは消え失せた。
背後に立っていたのは、赤い髪の青年だったのだ。
「おっさんじゃん!」
ギルダムの砦以来の彼の顔、そして陽気な声がマジーグの耳を打った。
「トルト……! ギルダムから帰ってきていたのか!」
「ああ、先週やっと戻って来たんだ。傷が良くなってからもさ、先生に少し絵の助手を務めてほしいって言われて、思わぬ長期滞在になっちゃったよ」
磨かれた石畳が光るトリン市内の道で、トルトは楽しそうに唾を飛ばす。そこでマジーグはふと、あの、食えない絵師の顔を思い浮かべた。
「ファニエルは一緒に戻らなかったのか?」
「それがさ、俺、一生懸命誘ったけど、なんか『まだそのときではない』とか言われちゃってさ。残念だよ」
「そうなのか……」
マジーグは答えながら思う。
ファニエルの「そのとき」とはいつなのだろうか、と。彼がトリンに戻ることはあるのだろうか、と。もし師に再び会えるとなれば、アネシュカはこれ以上なく喜ぶ事だろう。
そう考えに沈んだ矢先、トルトが思いをかけぬことを言い出して、マジーグはぎょっとした。
「でもさ、ちょうどいいところで会ったな! 今からおっさんの家、行くところだったんだよ!」
「俺の家に?」
「そうだよ! あ、念のため言っておくけどさぁ、おっさんの顔見るためじゃないぜ? もちろん、アネシュカに会いたいんだよ! なあ、これから一緒に行っていいか?」
マジーグは黒い眉を顰めた。
チェルデに帰って来たからには、大好きなアネシュカに会いたいトルトの気持ちは嫌なほどわかる。家に来るのも彼女目当てだということなど、言われるまでもない。
しかしながら、マジーグはトルトのことを考えればこそ、こう語を濁さずにはいられなかったのだ。
「まあ、それは別に構わないが……」
「なんだよ? なんか問題あるの?」
今度眉を顰めたのはトルトの番だ。正直、彼には現況を察してほしい、とマジーグは思ったが、結局こういうとき、トルトも超がつく鈍感なのだ。
それはもう、アネシュカにも負けないほどに。
「いや……」
「なんだよ、つれねえなぁー! だって俺、せっかくチェルデに帰ってこれたからには、アネシュカに自慢してやりたいんだよ。俺の絵のせいでさ、お前を助けられたんだぜ、って、よ!」
「絵? お前の?」
「そうだよ、あの牢のなかで先生と見せた、おっさんが選んだアネシュカの絵! あれさ、実は俺が描いたやつなの」
「……そうだったのか……」
マジーグは唐突に明かされた事実に、ほんの一瞬、息を飲む。あれはファニエルの絵ではなく、トルトの手によるものだったとは。
しかしながら、そうとなると、マジーグにはファニエルがなにゆえあの絵を正解としたのか、その意図がますますわからない。所詮、芸術に疎い自分には、あの絵師を理解することなど、生涯無理なのかもしれない。
しかし、そんなマジーグの逡巡をよそに、横を歩くトルトといえば呑気そのものだ。
「あー! 俺さ、早くアネシュカに教えてやりてぇんだよ、あいつさ、びっくりするだろうな、俺の絵が役に立ったなんて。なんなら俺のこと、見直すかもしれないよな! あっ、おっさん、ギムシャ買ったの? そうだよな、もう春の聖霊祭の季節だもんな。アネシュカ、ギムシャに目ぇないからな。きっと喜ぶよ。いい買い物したな、おっさん」
「……」
「聖霊祭っていえばよぉ、アネシュカ、またすごい格好してないか? あいつさ、聖霊祭になるとやたら張り切って、刺繍に赤やら金糸やら入った派手な服選んだり、年によっては、胸がこんなに、ばーん! って開いたドレス着るもんだからさ、俺、毎年気が気でなかったんだよなぁ。今年は大丈夫かよ?」
「まあ……大丈夫なんじゃないだろうか」
「なんだよ、おっさん。なんか含みのある台詞だよなぁ」
そう訝しみながらも、トルトは自分の横に付いて歩くことをやめない。マジーグはトルトにわからぬよう、密かにちいさく嘆息した。
春の陽光はますます鮮やかに頭上から降り注ぐ。トリンの喧騒のなかを並んで歩く男ふたりを、柔らかく照らしている。
トルトが心配したように、アネシュカは派手で胸の開いたドレスなどは着ていなかった。マジーグが家の扉を押し開ければ、そこにいたのはゆったりとした麻のワンピースを纏い、椅子に座したアネシュカである。
そして、トルトが彼女を一目見て目を剥いたのは、もはや、言うまでもないことだ。
「トルト!」
「なに……お前、その、腹」
ドレープのよった麻の布に包まれたアネシュカの腹は、一目見ただけでわかるほどに大きくなっている。
トルトはマジーグがなぜ自分をアネシュカに会わせるのを渋ったか、その理由を瞬時に理解し、そして次の瞬間には、途端にやり場のないなんとも言えない気持ちを、横に立つ男にぶちまけた。
「なんなんなんなん、なんだよ! そういうことかよ! はー、おっさん、おっさん、あんたも大概だな!」
もはや意味不明のトルトの言葉を耳にして、次に爆ぜたのはアネシュカの声だ。
彼女は、思いもせぬトルトの反応にペリドット色の瞳を吊り上げた。
「なによトルト、エドに対してその言い方! おめでとう、って言ってくれてもいいじゃない! 私たち、夏にはお父さんとお母さんになるんだから!」
だがしかし、頬を膨らましたアネシュカを見るトルトの瞳には、涙さえ滲んでいる。男としての意地でトルトはなんとか泣き叫ぶことは耐えたが、あまりの事態に声はすでに掠れている。
それでもトルトは黙っていられなかった。
彼は喚く。自分でなにを言っているかもすでに良くわからなかったが、そのとき彼は、口を開けてなければ、いまにもその場に崩れ落ちて号泣してしまいそうだったのだ。
「あーっもう! お前ら、仲良いだけのことはあるよな! あーっもう!」
対してアネシュカにはトルトの態度は理解不可能でしかない。
なので、彼女はなんの戸惑いもなく、トルトの前でこう言ってのける。
「そうよ、私とエド、すっごく、すっごく、仲良いわよ。それがなにか?」
「……!」
トルトの精神が持ったのはそこまでだ。
彼は赤い髪を激しく揺らしながら、マジーグを押し退け、外に飛び出して行った。
そんな彼を見て、アネシュカは、ぽかんとしたまま、ちいさく呟く。
「トルト……変なの……」
雲雀の声がまた聞こえる。
遠く近く、春の空気を割って響いてくる。
「もうすっかり春ね」
アネシュカは窓の外に視線を投げた。
それから、手を伸ばし、窓にかかるカーテンをそろそろと開ける。
マジーグにはその動きがどことなくぎごちなく見えて、思わずアネシュカに声をかけた。
「手がまだ痛むか?」
「ううん、大丈夫。すっかり良くなったわ」
それからアネシュカは、窓から空を見上げた。
「エド、見て。もう夕焼けの時間。綺麗」
「本当だな」
マジーグも背に流した黒髪を掻き上げながら、窓に近寄る。
そして、アネシュカの横に立つと、こう語を零した。
「不思議だな……俺は、お前と出会うまで、毎日、生きるのが辛かった。なのに、こんな穏やかな気持ちで日々を過ごせるときが来るなんてな」
「それを言うなら、エド。私はあなたと会うまで、人をこんなにも好きになることができるなんて、思わなかったわよ」
「それは俺も同じだ」
ふたりは穏やかな気持ちで瞳を交わした。
まるで、秋から冬の出来事が嘘のように、和やかな空気がふたりの間に流れていた。ふたりにはそれがなにより、愛おしい。
その幸せをなぞるように、マジーグはそっとアネシュカの細い肩に逞しい腕を回した。
そして、亜麻色の髪を優しく撫でる。
「俺は、亡くなったハイサル殿下とタラムが、お前と俺にしたことは生涯許さぬ。だからこそ、アネシュカ、お前と今こうしてふたりいられることが幸せだし、祖国に呼び戻されたおかげで、お前の大切さが、より、心に沁みたよ」
感無量と言ったマジーグの言葉を耳にして、アネシュカはちいさく頷く。にこにこと微笑みながら。
「私もよ、エド」
「生きていれば、こんな日も来るのだな……。俺は……本当に幸せ者だ、本当に、本当に……」
マジーグはそこで一旦、言葉を区切る。
そして誰よりも大切な女の顔を覗き込むと、こう言いながら、唇を塞いだ。
「好きだよ、アネシュカ」
「んっ……」
口付けを繰り返しながら、ふたりはお互いの感触に心を蕩けさせる。いまここにある幸せを、存分に味わい尽くすかのように、唇を何度も重ねる。
やがてふたりは顔を離すと、包み隠さず本音を伝え合った。
愛しい者同士だけに通じ合う想いを、交わし合った。
「ありがとう、アネシュカ。俺の傍にいてくれて」
「こちらこそ、エド。あなたこそ、ずっと私の傍にいてよね」
カーテンが音もなく揺れる。
それからふたりは暫し、肩を寄せ合って、窓いっぱいに広がっていく夕暮れを見つめていた。
天はいまだ、人間が届くことを許されぬ遥か彼方にて、世界を見下ろしている。
【第二部 完】
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ここまでお読みいただきありがとうございました!
次話は第二部の幕間エピソードとなります。(今話と同時に公開しています)
そして、これにて第二部は完結。残るは最終部の第三部となります。
第三部は2025年後半に連載予定です。第二部の五年後の話となります。アネシュカは三十歳、マジーグは五十歳になっています。
ふたりにまつわる絵画動乱記、どうぞ最後までお見届頂ければ嬉しいです。
2025/01/13 つるよしの
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