第八話 あの男のもとで絵を描く
「どうしてよ! 絵を描きに行くのに、なんで、湯浴みした上、こんなドレスを着なきゃいけないの? 木炭で汚れちゃうじゃないの!」
「あなたは総督閣下のもとへ、ひとりでお目にかかりに行くのですよ。閣下はいまや占領された我が国の最高権力者です。ならば、私だってチェルデの威光にかけて、あなたに下手な格好はさせられません。さあ、次は髪を結いますよ。おとなしく椅子に座って下さい」
「いたたっ! そんなにきつく結い上げられたら、頭が重くて、絵なんか描けないわよ!」
「つべこべ言わず、じっとなさって下さい!」
アネシュカは亜麻色の髪を高く編み上げられながらも、厳しい下女の一喝に身を縮こまらせる。そして、目前の鏡台に映る自分の姿を見ながら、心のなかで甲高い悲鳴を上げた。
――これじゃ、本当に夜伽に行くみたいじゃない!
そうアネシュカが嘆いたのも無理はない。
目の前の自分は、髪はいつものようにひとつに結んだ姿でなく、三つ編みにされて高く編み込まれたうえ、唇には軽くではあるが紅を差され、着ているものといえば、それまで祝いの日に着たことしかないような、色とりどりの花が刺繍された紅色のドレスだ。
それはチェルデの伝統衣装である。占領国の長に失われた祖国の美を見せつけてやろうとする下女の意は、痛いほど分かるが、かといって、アネシュカを巡る状況は
――マジーグ総督とやらのお人柄はよく知らないけど、なにせあのマリアドル軍の偉い人よ。そんな方と部屋でふたりきり。しかも夜の私室。どんな乱暴なことされたって逃げようもない。そうよ、殺されることだってありうるかもしれないのよ。どうすればいいの?
着々と仕上がっていく自分の身支度とは反対に、アネシュカの心は深く澱むばかりだ。そして、なにより彼女に堪えるのは、これがあの尊敬してやまない師の命令であることだ。
アネシュカの心は、朝の工房でのファニエルとのやりとりを思い出すたび、師の微笑みながらの残酷極まりない言葉に、背筋が寒くなる。
――ファニエル先生は、いったい、どういうつもりなの? あの優しい先生が、まさか、こんなこと……。
アネシュカはペリドット色の瞳を曇らせながら考える。あのときのファニエルは、まるで見知らぬ人のようだった。
そのとき、考えに耽っていたアネシュカの背後で扉を叩く音がして、彼女は背後を見る。
そこにはマリアドル軍の高官らしい軍人が立っていた。下女が頭を垂れる。その横で彼はアネシュカの姿を認めるや、静かにこう、彼女に告げる。
「私は総督の副官、タラムだ。アネシュカ・パブカとやら、準備はできたようだな。それでは、これから総督の元に案内する。くれぐれも失礼のないように」
ついにそのときが来てしまったのだ。
アネシュカは、ごくり、と唾を飲む。そして、心の中で静かに呟く。
――こうなったら、やるしかないわ。そうよ、ファニエル先生がなにをお考えなのかは分からないけど、これは絵を描くまたとない機会であること、それは、間違いないのよ。だったら、私はやり抜いてみせる。絵を描いてみせるわ。
もはや退路はない。
アネシュカは心に決意を深く刻むと、副官の男に付き従い、夜の王宮へと足を踏み入れた。
その手に、マリアドル軍から渡された真新しい帳面と、幼いころから使い慣れた、愛用の木炭を握りしめて。
十数分ほど暗い宮殿のなかを進み、アネシュカはついに、マジーグの私室の前に辿り着いた。
タラムがノックのあと、扉を押し開き、それから、アネシュカになかに入るように無言で促す。彼女は美しく結われた亜麻色の頭を下げつつ、覚悟を決めて部屋のなかに足を運ぶ。
緊張から、知らぬ間に足は小刻みに震え始めていたが、なんとかアネシュカは不様に転ぶこともなく、室内にその身を滑り込ませた。それを認めたタラムが身を翻し、部屋から出て行く気配がする。
それを待って、アネシュカは目の前に立っているであろう総督に挨拶の口上を述べながら、ゆっくり、姿勢を正した。
「マジーグ総督閣下。初めてお目にかかります、私はチェルデ王宮の工房で働くアネシュカ・パブカと申します。このたびは……」
そこまで言葉を継いだとき、ようやく視界に入ったマジーグの姿に、アネシュカの息は一瞬止まった。そして些か間の抜けた叫びが唇から漏れる。
「えっ、あれ、あなたは……あのときの……? ええっ!」
寝台と机、それに数脚の椅子が置かれただけの、思った以上に簡素な部屋のなかには、見覚えのある顔があった。
そう、そこに屹立していたのは、工房の前で襲われていたアネシュカを助けたあの男だったのだ。忘れもしない、彫りの深い精悍な顔立ち。そこに宿る獰猛な鷹のような黒い目、背に流した三つ編みの黒髪。夜ということもあって、服装こそ漆黒の軍服ではなく、ゆったりとした白い綿のシャツに紺のズボンではある。
だが、間違いない。
なにより、あのときアネシュカの意識を釘付けにした、冷ややかな色の瞳。
それが目の前で、いまこの瞬間、あまりのことに、ぽかん、とするアネシュカの顔を凝視していた。
「……俺は、女を呼ぶよう頼んだ覚えはないぞ」
いったい、どのくらい自分は、目を丸くしながら若き総督の顔を見つめていたのだろう。燭台の蝋燭のみが照らす部屋のなか、アネシュカはマジーグの声で、ようやく我に返った。
その声は
「それに、こんな子どもは俺の趣味じゃない」
「違います、違います! 私、まだ見習いですけど、いま述べたように、絵師です! 工房から来たんです!」
アネシュカはどうやらマジーグがなにか誤解しているようであると気付き、慌てて叫んだ。すると、マジーグが黒い双眼を光らせながら、再度、アネシュカの顔をまじまじと見つめた。そして、視線を逸さぬまま、呟く。
「そうか、お前、どこかで見たことがあると思ったが、あのとき工房の前にいた女か」
「そうです! あの、あのときは危ないところを、ありがとうございました」
アネシュカはやっとマジーグが、自分があのとき助けてもらった人間であると気付いたことに安堵し、礼を述べた。声はなおも震え、早口で捲し立てたかたちになってしまったが、もうこれは、いまの彼女にはどうしようもない。
しかし、対するマジーグは、冷静沈着そのものだ。彼はアネシュカの言葉に、皮肉げに唇を歪ませると、冷徹に言い放った。
「別に助けたくて、助けたわけじゃない。我が皇帝から、チェルデ王宮の絵画工房、及びそこの人間には手をつけぬよう厳命されていたからな。それだけだ」
「それだけ、って」
「だから、それだけのことだ。感謝するなら、皇帝陛下に礼を言うが良い」
マジーグはそれだけ吐き捨てるように言い、精悍な顔に冷笑を浮かべた。
その寒々しさに、アネシュカの背は、ぞくり、とする。しかし、逃げ帰るわけにもいかない。それに、マジーグが進んで自分を助けたかったわけではないのは、既に想定内のことである。
だから、彼女が口にしたのは別のことだ。そう、自分の本来の役目のことだった。
「それはそうと、総督閣下は絵画術をお望みと私は聞いております。私は、私の絵で、総督のお役に立ちたいのです。さっそくお聞かせ願えませんか? 閣下を悩ます悪夢について。いまからお休みになられても構いません、そうすれば……」
「笑止千万だな」
「えっ?」
アネシュカは笑いながら自分の言葉を遮ったマジーグに、またも目を丸くする。するとマジーグは、これは愉快だ、と言わんばかりの口調で、仄暗い室内に声を響かせる。
「たしかに、俺は絵画術が必要だと、副官のタラムに進言された。しかしながら、俺には芸術が分からぬ。そして、信じてもいない。だから、絵などで俺が救われるとは思っていない。全く持って滑稽極まりない話だ」
そう言いながら、マジーグは足を前に進めた。そして、彼は長い三つ編みをゆらゆら揺らしながら、一歩一歩、険しい顔でアネシュカににじり寄ってくる。
「まあ、ちょっと試してやっても良いとは思っていたが……よりによって、女の絵師だと? ふん、さすが軟弱な奴らばかりのチェルデだな。無能な女子どもにも仕事を与えなければ暮らせないとみえる。だが、そんな茶番に付き合わされるのは、俺はお断りだ」
気がつけば、これまた想定外の言葉に唖然とするアネシュカの目前に、マジーグの長身があった。そして、彼女がなにも反駁できぬうちに、マジーグはアネシュカの両肩に、ぐっ、と手をかける。さらには、力のままに彼女を扉の方へと押しやる。
「ちょ、ちょっと、閣下、なにするんですか!」
「俺はお前の力など借りぬ」
そう言うや、マジーグは、突然のことにじたばた身をよじるアネシュカの身体を、くるり、と反対に向け、そして扉を素早く開け放つ。
あれよあれよという間に、アネシュカの身体はマジーグの手により、部屋の外に押し出された。そして、次の瞬間、廊下に追い出されたアネシュカの顔の前で、扉が勢いよく、ばたん、と音を立てて閉じる。
彼女を拒否するマジーグの心情を示すが如く。
「ちょっと! 話が違うじゃないですか! 閣下!」
マジーグのあまりに無礼な扱いに、アネシュカの心のなかには恐れから一転して、怒りの炎が燃え上がった。
自国のこと、絵のこと、そして女の絵師であること。
マジーグの嘲りは全て、それらに深く誇りを持つ彼女の胸に深く突き刺さるものだった。だからこそ、アネシュカは彼に
――性格、悪っ! あんまり、馬鹿にしないでよね!
彼女は相手が占領軍の最高権力者であることも忘れて、固く閉ざされた木製の扉を、力任せに叩く。
そして、叩きながら、こう叫ぶことをも抑えられなかったのだ。
「私! 閣下がなんと言おうと、明日もまた伺いますからね! また追い出されたら、その次の夜も伺います!」
アネシュカの怒号が、夜の王宮の静寂に木霊する。
こうして、アネシュカとマジーグの夜の時間は、予想外の激しい攻防戦から始まることとなったのである。
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