第九話 「悪霊」の正体

 夜、その少女が来る間は、総督直属の衛兵たちは、彼の私室から離れた廊下で番をするようマジーグの副官、タラムから直々に命じられている。


 だから、彼らは最初の夜から毎夜、タラムに付き従って総督の部屋に向かうアネシュカを見送っていた。そして、彼らの耳には、彼女が私室に消えるとほどなく、僅かの間を置いて、扉を激しく叩く音と少女の金切り声が、がんがんと響いてくる。


「どうして絵を描かせてくれないんですか!? 私は絵師として来ているんですよ! これは私の仕事なんです、開けてください! 総督閣下!」


 もうそんな夜が、四日続いていた。


 タラムはアネシュカが部屋に入ったあとは、マジーグの私室の横にある控えの間に消えていくが、結局、怒号を聞いては部屋から出、怒鳴り続けるアネシュカの腕を引っ張り、また彼女を王宮から送り出しに行く。怒り狂う少女の手を引くその顔は、ほとほと困った、という色に染まっており、衛兵たちを同情させる。


「どういうことですか、タラムさん? 今夜も部屋に入った途端、追い出されましたよ。私はいつになったら閣下のために絵を描けるんです?」

「今日はそういうご気分じゃないんだろう。また明日よろしく頼む、アネシュカ」

「今日じゃないですか! 失礼極まりないですよ!」


 タラムに食ってかかるアネシュカの剣幕は、相当のものだ。

 その表情からは、十五という年若さと怖いもの知らずの性格が透けて見えて、タラムは絵画術の絵師に彼女を選んだファニエルに、どういうことかと意図を問いただしたくなる。


 しかし、絵師の選抜は好きにするよう、彼に告げたのは当のタラムだ。それに、芸術に名高いチェルデの筆頭宮廷絵師である彼のことだ。アネシュカには素質があると見込んでのことだろう。


 そう思えばこそ、彼はアネシュカをマジーグの部屋に毎夜送り届けることを、やめるわけにはいかなかった。

 なにしろ、マジーグの不眠はまだ続いているのだ。あれから再度、執務室で倒れることこそなかったが、端正な顔はなおも青白さを増しており、また若き総督が卒倒するのは時間の問題だと思わざるを得ない。


 となれば、早く「悪霊」を追い払うしか手はなかった。


 だから、五日目の夜も、タラムは頭が痛い思いをしながらも、アネシュカを連れてマジーグの私室に向かった。

 アネシュカといえば、ペリドット色の瞳をらんらんと光らせながら、タラムの後に付いてくる。彼女の頭のなかで、当初マジーグに感じていた恐れは、この数夜の攻防戦のうちに、押さえがたい怒りに変わってしまっていた。


 なんせ、二日目からはマジーグは、自分の話に耳を傾けることさえしてくれない。ただ無言でアネシュカの背を押しやり、問答無用とばかりに彼女を部屋から追い出す。

 あの、冷ややかな黒い瞳で。


 こうとなると、もはや、アネシュカを動かしているのは意地だった。


「タラムさん! 私、今日こそ、閣下から話を聞いて、絵を描きますからね!」

「……そうしてくれ」


 タラムはため息をまたも堪えて、衛兵の敬礼に返礼しながら、鼻息も荒いアネシュカとマジーグの私室に歩みゆく。

 とんでもない娘を選んでくれたものだ、とファニエルに胸中で悪態をつきながら。



「閣下! お邪魔します」


 アネシュカはいつものように、マジーグに頭を垂れながら部屋のなかに入り、今夜こそは追い出されない、という気迫を持って顔を上げる。


 ところが、その夜は、いつも部屋の中心で屹立しているマジーグの姿がなかった。姿どころか、あの険しい顔立ちから醸し出される気配すらない。


「……総督、閣下?」


 アネシュカは瞳を瞬かせて、広いとは言えない部屋を見まわした。

 占領軍の長にしては質素で、必要最低限の家具しか置かれていない室内を、改めてきょろきょろと見る。すると、寝台の上に吊るされた天蓋が、ふわ、と微かに揺れるのが目に入った。ひとまず彼女は、そろりそろりと、そちらに歩を向ける。

 寝台から、なにか音がする。

 アネシュカは天蓋のなかを、不躾と思いつつも、そっ、と覗き込んだ。


 マジーグがそこにいた。


 彼はいつもの私服のまま、寝台のうえに三つ編みを乱して、仰向けに横たわっていた。聞こえていたのは、彼のちいさな呼吸音だ。

 唇から漏れるマジーグの息は荒く、瞼が固く閉ざされたその顔は、眉間に皺を寄せ、まるでなにかと戦っているかのように険しい。黒髪が張り付いた額には、脂汗が伝っている。

 その様子にアネシュカは目を丸くする。


 ――なんだか、すごく苦しそう。いつものあの毅然とした様子とは、大違い……。この人も、こんな顔、するんだ。

 


 至近距離で、はぁ、はぁ、と小刻みに、苦しげな息を吐くマジーグの顔を見ながら、彼女は思った。



 ――まさにいま、この瞬間、閣下は悪霊に取り憑かれているのかしら。


 ひとまず、どうしたものかと思案しながら、アネシュカは懐に忍ばせていたハンカチーフを取り出した。そして、マジーグの額の汗を拭おうと、彼の頭上に手をそろそろと差し伸べる。


 そのときだ。


 マジーグが突然、かっ、と黒い目を見開いた。虚ろな瞳が、ゆっくりと焦点を取り戻していく。

 そして、目前にアネシュカの姿を認めるや、彼女の鼓膜をつんざくような悲鳴を上げた。


「……うわぁぁぁーっ!」

「かっ、閣下……?」


 驚いて、彼の名を呼んだアネシュカの顔を見るマジーグの顔は真っ青だ。黒い瞳はいつもの冷たい色ではなく、底知れない恐怖のひかりに満ちている。

 呆然とするアネシュカの前で彼はなおも叫ぶ。両腕を宙にかざし、何者かから身を捩る仕草をしながら。まるで誰に掴みかかられているかのように。


「やめてくれ! 頼む、もうやめてくれ!」

「閣下?」

「これ以上、俺を、責めるな! 苦しめるな、消えてくれ!」

「閣下、落ち着いてください、私です! 絵師のアネシュカです!」


 マジーグの怯えた目と悲痛に満ちた声に、堪らず、アネシュカは思わず彼の両肩に手を伸ばし、その身を揺り動かした。

 失礼かもしれない、とは思った。躊躇はした。

 だがそれは数瞬のことで、そのとき彼女はまずなにより、マジーグを落ち着かせることが必要だと感じたのだ。


 それから数分間。アネシュカはいったい、何度、藻掻くマジーグの肩を必死になって揺らしただろうか。何回、彼の名を呼び続けただろうか。


「閣下、しっかりして下さい! 閣下!」


 気が付けば、いつの間にか、マジーグの強張った身体から力が抜けていた。彼は長い黒髪を乱したまま、寝台に半身を起こし、息を荒げながら、ただ、アネシュカの顔を凝視していた。

 それから、慌ててその身体から手を離したアネシュカの前で、彼は、ぼそり、呟いた。


「なんだ、お前か……」

「閣下」

「驚かせないでくれ。そして、俺はお前に用はないんだ。帰ってくれないか」

「なに言っているんですか……そんな真っ青な顔で……」


 アネシュカは呆れたように言葉を放った。それほどまでに、目の前のマジーグの顔は青白く、黒い瞳は先ほどではないものの、なおも恐怖に揺れている。


 ――いったい、あなたは、なにに、そんなに怯えているのですか……?


 そう問い質したかったが、とりあえず、アネシュカは扉の方向に身を翻す。


「ひとまず、タラムさんを呼んできますから」

「やめろ、奴を呼ぶな!」


 マジーグはそう叫ぶと、アネシュカの腕を強く掴んだ。その感触に、アネシュカは息をのむ。

 力こそ強い男のそれであったが、彼の手は激しく震えていた。


 アネシュカは足を止めて、マジーグに再び向き直り、彼の顔を見る。そして、ゆっくりと、彼に尋ねる。黒い瞳を覗き込みながら、ゆっくりと。


「じゃあ、私がここにいて、いいですか?」

「……」

「あの、絵がどうの、っていうわけじゃなくて……その、いま、おひとりにするのは、心配なので……」


 アネシュカが絞り出すように告げた声に、険しいマジーグの表情が僅かに緩む。

 それからたっぷり、数十秒の間を持って、マジーグは語を継いだ。彼もまた、喉から絞り出すような声で。


「……いいだろう。そこの椅子にでも座ってくれ」



 それから、アネシュカとマジーグは、蝋燭の灯が揺れる仄暗い部屋のなか、テーブルを挟み、向かい合わせになって座していた。


 よろよろと寝台から立ち上がった後、マジーグがまずやったことといえば、部屋の隅に置いてある水差しを手にすることだ。その足取りがあまりに危なっかしかったもので、アネシュカが水を取りに行こうとしたのだが、彼はなにも言わぬまま、目つきでそれを制した。その瞳は、大分先ほどよりかは穏やかなもので、ひとまずアネシュカは、ほっ、と胸を撫で下ろす。


 喉を潤すと、マジーグは少し落ち着きを取り戻したようで、今度はしっかりとした足取りでテーブルの前に足を運び、アネシュカの正面の椅子に腰を下ろした。


 それから、長い沈黙が続いている。


 夏の終わりの夜だった。

 部屋の空気はすでに秋の寂しさを孕んでいて、ひやり、とアネシュカの肌を刺す。その感触に密かに震えながら、彼女は、おそるおそる若き総督の顔を見つめる。

 彼の表情からは、もう、あの恐怖の色は消えていた。だが、そのかわりに、なんの感情を感じさせない顔つきで、マジーグは仄暗い空間に佇んでいる。真っ正面に座りながらも、その黒い目にアネシュカの姿は映っていないようだった。

 彼は、長い三つ編みを片手で弄りながら、遠いどこかを見つめていた。アネシュカには窺いようのない、遠い、どこかを。


「すまなかった。無様なところを見せた」


 不意にマジーグが語を放った。彼の視線に目を奪われていたアネシュカは、我に返り、慌てて返事をする。


「いっ、いえ……」


 そう答えてから、少しの躊躇いの後、アネシュカは意を決したように、ちいさく、マジーグに尋ねる。


「あの……、閣下を悩ましている悪霊とは、いったい、どんなものなのですか?」


 すると、マジーグが、ふっ、と唇を歪めた。途端に、どこか皮肉そうな陰が、彼の彫りの深い顔に揺れる。

 それから、彼は吐き捨てるように言い放った。


「俺が、いままで殺してきた奴らだ」

「え……っ」

「そいつらが、俺を襲いに来る。眠りにつくと、そのたびに」


 忌々しい、と言わんばかりの陰鬱なその口調に、アネシュカの胸中にも、急速に暗い陰が落ちた。

 だが、彼女は、数瞬の沈黙の後、大きく深呼吸をし、マジーグの顔をペリドット色の瞳で見据えると、言葉を継ぐ。


「……そういうことならば」


 そして、アネシュカは固い決意を胸に秘めて、彼に告げた。


「私はやはり、絵を描きます。総督閣下のために」


 マジーグが、はっ、とした顔で彼女を見返す。

 その黒い双眼のなかでは、仄暗い部屋に座す少女の瞳が、どこまでも真摯なひかりに揺れていた。

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