第三章 絵を交わす 想いを交わす

第十話 デュランタの花咲く庭

 ――なんで、こんなことになってしまったのか。


 アネシュカの前で「醜態」を晒してしまった次の夜、マジーグは彼女を私室で待ちながら、予想外の展開に、改めて半ば、呆然とした。


 前夜、少女は己の眼を見て告げた。自分のために絵を描くと。


 その真っ直ぐなペリドット色の眼差しは、今も脳裏に鮮やかだ。そして彼女は、今日はお疲れでしょうから、明日から絵を描きますね、と言い残し部屋を出ていったのだ。


 ――全くもって、この俺が絵師、しかも女にあんな情けないザマを晒してしまうとは。それに、子どもといってもおかしくない歳の女だぞ。


 そこまで考えを巡らせたとき、扉をノックする音がマジーグの鼓膜を打った。続いて、開いたドアの向こうに、タラム、そしてアネシュカの顔が覗く。

 亜麻色の髪の少女の顔は、いつの晩にも増して意気揚々としており、マジーグの心中はますます困惑で揺れる。

 そうこうしているうちに、扉は閉まり、気がつけばマジーグは、木炭と帳面、それになにやら木の小箱を手にしたアネシュカと夜の私室でふたりきりになっていた。


 アネシュカの瞳がマジーグを捉えた。そして彼の黒い双眼を見つめながら、こう語りかける。その声は少し憂いを秘めたものだった。


「総督閣下、今日は、お加減悪くありませんか?」

「……大丈夫だ」


 そう答えつつもマジーグは、この子どものような歳の少女に己が心配されている現状に、我ながら可笑しくなる。だが端正な顔が皮肉に歪む前に、目前のアネシュカの顔は、ぱあっ、と華やぎ、満面の笑みを浮かべていた。


「それは、よかったです! 昨日、すごくお辛そうでしたから」

「……ああ」


 アネシュカの笑顔は、どこまでも恐れを知らず、朗らかで、マジーグをまたも戸惑わせる。それは、自分にこんな真っ直ぐな感情を向けてくる人間に、そうそう会ったことがないからだとマジーグは気が付き、思わず憮然となる。

 そして、憮然としつつ、思い返す。


 ――いや、いないわけではなかったが。しかし、それはもう遥か遠い日の話だ。


「では、閣下。話をお聞かせ願えますか? 私が絵を描くヒントを得られるように」


 物思いに耽りかけていたマジーグは、屈託ないアネシュカの声に我に返る。見れば彼女は室内に進み、部屋にひとつしかないテーブルの上に、手にした木箱の中身を広げている。それは見たところ、どうやらさまざまな絵具のようだ。

 マジーグは慌てて叫んだ。


「ちょっと待て、待て。俺はまだ、お前に絵を描かせると決めたわけではないぞ」

「まだ、お嫌なのですか?」

「だから、言っただろう。俺は芸術の力など、信じていないと」

「じゃあ、私、昨夜の閣下のご様子をタラムさんにお伝えしますけれど」

「うっ……」


 アネシュカの放った言葉に、マジーグは絶句する。彼にとって、それだけはなんとしても避けたい事案であった。すると、言葉を詰まらせて無言になったマジーグを見て、アネシュカが白い歯を見せて、にこり、と悪戯っぽく笑った。そして、彼女は邪気というものが全く感じられない声で彼に話しかける。


「さあ、このままでは、夜が更けるばかりです。どうぞ、椅子にお掛けください、閣下」

「……」


 数秒後、マジーグは不承不承といった表情のまま、長い三つ編みを揺らしながら、椅子に腰掛ける。

 この場の主導権をアネシュカに握られてしまったいま、マジーグの心中には、こうなったらなるようになれ、という些かにも近い心情が満ちつつあった。


 夜は、まだ始まったばかりだった。

 


 ――どうにかうまくいったわ。脅しちゃったみたいで、閣下には悪いけれど。


 アネシュカは心のなかで、どうやら自分のがうまくいったことに安堵した。

 昨夜のマジーグの狼狽を見てしまい、そのうえ自分が絵を描くことを宣言した以上、また今日も追い出されてしまったら、彼女としては立つ瀬がない。

 一晩明けても、マジーグを助けるという自分の仕事をやり遂げるアネシュカの決意は変わらなかった。たしかに彼は自国を占領した憎き敵国の軍人ではある。そんな人間は苦しみのままに放っておくのが正しいのかも知れない。


 しかし、アネシュカが思い出したのは、絵で周囲の人間に喜びを与えていた、在りし日の両親の姿である。


 ――私は、父さんや母さんの生き方が好きだったもん。絵でみんなを喜ばせていた、あの生き方が。だからこそ、私は絵を描きたいと思ったんだし。ならば、この人のために絵を描くことは、なんら間違いじゃないはずよ。


 机に絵具を広げ終わったアネシュカは、マジーグの正面に座る。そして、胸に秘めた思いを込めて、若き総督に改めて決意を告げる。


「それでは、閣下を苦しめる者の姿を、私は紙に描き写したいと思います」


 そのアネシュカの言葉のあとも、目前のマジーグはまだ納得のいかぬ表情をしばらく続けていた。だが、やがて、大きく息を吐いた。まるで、なにかに観念したかのように。

 そして、ぼそり、と囁く。


「……そうか、なら、いちばん夢に出てくる男の顔を描いてみよ」

「その男は、どのような顔立ちですか?」


 アネシュカはペリドット色の瞳を瞬かせて、すかさず問う。すると、マジーグが眉間に皺を寄せながら、皮肉げに呟いた。

 それは、思いもせぬ言葉だった。


「俺に似せて描けばよい。なぜならそいつは、俺の弟だから」

「閣下の弟君ですか?」

「ああ、俺が生涯で初めてこの手で葬った人間は、実の弟だ。俺が十五、弟が十二のときのことだ」


 淡々としたマジーグの陰鬱な言葉に、アネシュカの表情が翳る。それを認めて、マジーグが彫りの深い顔を歪め、薄笑いを浮かべた。


「どうだ。俺が恐ろしくなっただろう。俺はそういう人間だ。怖くなったのなら、いますぐ帰って良いのだぞ?」


 アネシュカの背筋は、ぞくり、と寒くなる。

 だが、ここで怯むわけにはいかなかった。なおも顔を翳らせつつも、アネシュカが放った答えは明快だった。


「いいえ、ならば私は、閣下の弟君をお描きします。えっと……お歳は十二歳でしたね。お顔立ちは閣下に似てらしたとして、髪型は?」

「……髪は短かかったな。肩より上だ」


 アネシュカはマジーグが渋々絞り出した声を聞きながら、愛用の木炭を真新しい帳面に滑らせ始める。それからしばらく、仄暗い室内には、彼女が紙と木炭を擦り合わせる音だけが響いた。

 風景画に比べれば、人物画を描いたことは数少ない。しかしそれでも、彼女は時折手を止めて、マジーグの顔を確かめながら、彼のなかにある面影を懸命に想像する。そして、その姿を紙に描き写すことだけに没頭する。


 やがて、紙の上には、マジーグによく似た少年の顔が描き出されていく。


 すると、思わぬことが起こった。

 絵に集中するアネシュカを、腕組みをしながら見ていたマジーグが、少しの逡巡の後、躊躇いながらも口を挟んできたのである。


「ああ……そうだな、目はこんなに険しくない。あいつの目は丸っこくて、胡桃みたいだった。もっと人懐こい感じだ。俺とは違って」

「では、閣下とはあまり似ていなかったのですか?」

「目はな。色も俺と異なり榛色だった。母が違ったからな」


 マジーグが語を継ぐ。その口ぶりは、遥か昔の愛しい思い出を語るかのような口調に聞こえ、アネシュカを、一瞬、はっ、とさせた。


 しかし、マジーグはすぐに緩みかけた顔を引き締めてしまったので、それが気のせいだったかどうか、確かめることは出来なかった。


 アネシュカは、少年の両眼を、言われたとおりの造形にすべく、木炭の線をさらに帳面に重ねていく。慎重に、思いを込めて。この人が少しでも楽になれば良い、いつしかそう真摯に願いながら。

 やがて、アネシュカの手が止まった。そして、そっ、と彼女は帳面を目の前の男に差し出す。


「出来ました」


 マジーグが、差し出された絵を、黒い双眼を見開いて、食い入るように見つめる。


 だが、しばしの間の後、胸をどきまぎさせながらマジーグの様子を見守っていたアネシュカの前で、彼は自嘲するように呟いた。


「駄目だな。やっぱり、絵などに俺は、救われない」

「似ていませんでしたか?」

「いや、逆だ。似ている。良く似ている。あいつはこんな風に笑う奴だった。それだけに……」


 そこでマジーグは言葉を句切ると、絵から目を背けながら、眉を顰め、こう零した。


「それだけに、俺を責め立てるようだ。どうして殺したのかと、目の前で問うてくる。悪夢よりも性質たちが悪い」


 そして、マジーグはそのまま床に瞳を落し、黙りこくった。黒髪の三つ編みが、ぶらん、と力なく揺れる。

 アネシュカは言葉を失った。


 ――だったら、どうすればいいんだろう……。私は、なにを描けば。


 視線を床に投げてしまった男の前で、アネシュカは必死に考え込む。ペリドット色の瞳を真剣なひかりで満たしながら。


 そして、しばらくの後、彼女は熟考の末、恐る恐る、こう提案してみる。


「それなら、閣下がいちばん心の休まる絵を、私は描きます」


 マジークは顔を上げて、アネシュカの顔を見返した。そして意外そうに問い返す。


「いちばん心が休まる絵?」

「えっと……例えばなんですけど、総督閣下が、いま、いちばん見たい風景はどこですか?」


 アネシュカの言葉に、マジーグは怪訝な表情を端正な顔に浮かべた。


「それは、術の主旨とは、だいぶ違ってしまうのではないか?」

「たしかに、絵画術は描き上げた悪霊の絵を焚いて祓うもの、だそうですので、そう言われればそうなんですけれど……そうじゃないものを描いた方が、今の閣下のお役に立てるのかな、と私は思いました」


 アネシュカは思ったことを訥々と述べた。

 思いつきではあったが、そのときの彼女にはその案しか浮かばなかったのだ。

 すると、マジーグが再び腕を組み、なにかを考えるような眼差しを遠くに投げた。沈黙が部屋を覆う。夏の夜の空気は、今夜もまた、寂しくふたりの肌を刺す。


「……生家の、庭だろうか」


 唐突にマジーグが語を零した。

 その黒い瞳は、なおも遠くを見つめている。それは、今では手の届かなくなってしまった、懐かしいものを見つめるような視線だと、アネシュカには感じられた。


「庭ですか?」

「ああ、俺の生家には、手入れが行き届いたちいさな庭があった。今ぐらいの時期にはデュランタが咲き誇って、それは見事だった」

「デュランタ、あの青い花ですね。私の故郷にも咲いていました。マリアドルにも咲いているのですね」

「マリアドルはチェルデとたいした気候の違いはないからな。あれはいい花だ」


 マジーグがアネシュカの問いに答える。その口調は素っ気なかったが、出会って以来、彼の言葉に宿っていた棘を感じない気安さが、僅かだが感じられた。

 アネシュカは、瞳を輝かせて声を上げる。


「分かりました!」


 それから、アネシュカはまた、懸命に帳面に向かった。風景画なら自分の得意とするところだ。胸が躍る。

 アネシュカは、故郷に咲いていたデュランタの花を心に思い浮かべ、それを紙の上に写し出した。途端に腕がリズミカルに動き出す。その感覚に、彼女は、ふと、毎朝絵を描いていたレバ湖湖畔の風景を脳裏に思い浮かべる。さらには、そこで絵を描いていたときの高揚感をも。


 ――これよ、この、何者からも自由になる感じ! ああ、やっぱり、私、絵を描くのが好き!


 木炭で一気に下絵を描き上げると、アネシュカは机の上に広げた絵具のなかから、固形絵具を手に取る。

 青は稀少な色なので、手持ちの絵具の中にあったかどろうか一瞬としたが、幸いなことに少量だが青い絵具はあった。

 彼女はマジーグに断り、部屋の隅の水差しから水をもらうと、絵具を溶く。


 夏のひかりのなかで咲き誇るデュランタの青い花と、それを囲む緑の庭が、たちまち紙の上へと、鮮やかに浮かび上がった。



 その夜、アネシュカを工房に帰した後、マジーグは彼女が描いた二枚の絵を目前に並べた。


「つい、余計な口出しをしてしまったな。だが……その甲斐あって、似ている。まるで目の前にいるかのようだ」


 そう独り言を零しながら少年の絵を見つめるうちに、自分でも思いもしない言葉が、唇から、ぽろり、漏れる。


「この庭で、お前とよく転げ回って、遊んだな。あの少女は、お前みたいな笑い方をする女だよ。皮肉なことだが」


 それからマジーグは、絵をサイドテーブルに置くと、寝台にごろりと黒髪を乱して身を横たえる。

 微かな風に揺れる天蓋を見上げ、そして軽く目を瞑れば、テーブルに並ぶ絵に描かれた遠い日の光景が、瞼の裏に浮かぶ。


「いつか、帰れるのだろうか……あの風景は、俺の未来にあるのだろうか」


 黒い三つ編みを指に絡めながら、そうちいさく囁いたマジーグの意識を、眠気がひたひたと浸していく。


 いつもなら、その後の悪夢を予感してしまい、恐怖に怯える彼であったが、そのときばかりは、なぜか、眠ることに躊躇いを感じなかった。


 それを不思議に思う間もなく、マジーグの意識は、静かに微睡みのなかに沈んでいった。

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