第十一話 天才は恐怖する
その夜、アネシュカはなかなか眠りにつけなかった。
寝台のなかで何度も寝返りを打ちながら、アネシュカはマジーグの求める絵が描けたのだろうか、という問いを脳裏で繰り返していたのだ。
――デュランタの花咲く庭の絵を見たときの総督、気のせいかもしれないけれど、あの険しい瞳が少し優しく感じられたのよね。お役に立てたのかもしれない。初めて会ったときには、なんて性格の悪い人だろうと思ったけど、そうでもないのかな。
アネシュカは冴えてしまったペリドット色の瞳を瞬かせながら、その瞬間のことを思い返す。しかし、すぐにこうも思い直す。
――いけない。なんせあの方は占領軍の長よ。そんなにすぐに理解できたと思っちゃいけないわ。それに、閣下が抱えている苦しみを解決するには、きっと私の絵の腕は、程遠い。総督はそれだけのなにかを背負う人生を、送ってこられたのだろうし。
彼女の胸は、黒い双眼を光らせて「弟を手にかけた」と自分に告げた時の彼を思い出していた。改めて寒気が迫り上がる。それを感じ取ると、やはりマジーグに簡単に気を許してはならないようにも思うのだ。
「……だけど」
アネシュカは暗闇のなか毛布に包まり、周りの下女を起こさない程度の声で、呟く。
「だけど、私の絵が役に立つなら、それにこしたことはないのよ……あの方が、どんな方であっても」
アネシュカはマジーグとこの先どう向き合おうか迷いながらも、そう自分の心に囁きかけた。そう口にしてみると、自分の絵が必要とされる限りは、真摯に若き総督ととことん付き合ってみよう、という覚悟が胸中に広がるのだ。
しかし、それと同時に思い起こすは、ファニエルがなぜ自分を絵画術の絵師に選んだのか、という疑問だ。
それはアネシュカの胸に棘のように刺さり、なおも意識から消えない。
「……これは、絵を極めるための、試練。だからこそ先生は、私に総督の元に通うように指示したのよ」
アネシュカはそう呟くことで、もやもやとする頭を納得させようと試みる。そこまで考えて、ようやく彼女の脳を眠気が覆ってくる。
アネシュカは毛布に再び深く潜り込み、朝が来るまでの僅かな時間、夢の世界へと意識を沈めた。
翌朝、アネシュカは簡素な朝食を下女たちと摂ると、すぐに工房へと向かった。
夜遅くまで、ファニエルの命で仕事をしているという理由で、アネシュカは朝一番に工房を訪れて掃除その他の雑用をこなす新入りの義務からは解放されていた。しかし、だからといって、のうのうと宿舎で眠りを貪ってもいられないのは彼女の性格である。
アネシュカが工房の扉を開けると、すでに作業を始めている弟子たちが一斉に視線を投げてくる。その目は、その多くが、相変わらずよそ者を見る冷めたものだ。アネシュカにとっては、いまさら気に留めるようなことではなかったが。
しかし、最近、その目線には僅かに下世話な興味の色も籠っていることに、彼女は薄々気がついていた。
それは、彼女がマジーグの私室に夜な夜な通い出してからのことだった。
今日も肌でそれを感じ取り、ペリドット色の瞳を翳らせたアネシュカに声をかけてきた者がいる。
板絵用の木に
「アネシュカ、また今夜も、あいつのところに行くのか?」
「あいつって、マジーグ総督閣下のこと? そうよ、行くわよ。仕事だもん」
すると、アネシュカの答えに、トルトは彼女を案じるような声音で語を継いできた。
「大丈夫なのか」
「え?」
「お前、あいつに変なこと、されてないだろうな?」
トルトの声からは、今日は皮肉が感じられない。アネシュカはそれを意外に思うと同時に、彼をはじめとした周囲の人々がなにを気にかけているのかを悟り、思わず大きな声を上げた。
「なに言ってるの! そんなこと、されてないわ!」
「本当かよ。奴はあの野蛮なマリアドル軍の長だろ?」
「大丈夫よ。閣下、とても紳士だわ」
「……ならいいけどな! まあ、気をつけろよ!」
そう言うと、トルトは再び鑢を振るい出す。
アネシュカはなんとも言えない居心地の悪さを感じながら、その日の仕事を始めるべく、工房の奥へ足を進めた。すると、弟子たちの間に立って、板絵に彩色を施しているファニエルと目が合った。
「先生、おはようございます」
アネシュカは師が今日は珍しく朝から工房にいることに驚き、挨拶をする。
対して、ファニエルから返答はない。彼は琥珀色の目を険しげに歪めながら、絵筆を動かしている。
――先生、絵に集中しているんだ。邪魔しないようにしなきゃ。それにしても素早い筆捌き、流石だな。あの衣服の襞の表現もすごい。まるで本当に風に翻っているようだわ! 私も早く、ああなりたいな。
アネシュカはそう胸中で独り言つ。
そして、その日自分に課せられている、下地作りの作業に没頭していく。そうとなれば、周りの視線がどうであろうと、彼女の心に雑念が入る余裕はもう、なかった。
ファニエルは、トルトとアネシュカの会話を耳にするごとに、己の胸が暗く澱んでいくのを感じざるを得なかった。顔も自然と不機嫌に歪んでいく。
「どうしましたか? 先生」
「いや、目に汗が入っただけだ。次は赤の絵具を取ってくれ」
脇にいた弟子がファニエルの表情に訝しげな目を向けたので、彼は慌てて取り繕うように、新たな指示を出した。
――まずい。動揺している場合じゃないんだ、今は。あんな女子どもの一挙一動に。絵に集中しなければ。
ファニエルは苦々しげに心のなかで呟いた。
だが、彼の意識はなおもその朝の出来事に移ろっていく。朝早く、彼の居室を総督の副官が訪れてきたのだった。
彼はファニエルにこう告げたのだ。
「アネシュカの絵が功を奏して、少しの時間だけではあるが、総督閣下が熟睡することができた」
そして、意外な言葉に身を強張らせたファニエルに、タラムはこう続ける。
「彼女を推薦してくれた君に、礼を述べねばならぬな。感謝する」
「……それは、なによりです」
「これからも彼女には、日々、絵に励んでもらいたい。よろしく頼むぞ」
上機嫌のタラムに、ファニエルは弱々しい微笑で応じる。だが、そのとき、彼の胸にはどす黒い激情が渦を巻いた。
それが、アネシュカへの嫉妬であると気づいたのは、しばらくの時を経てからだ。
――この私が、アネシュカに、嫉妬を感じているだと?
そのことを意識したとき、ファニエルは混乱した。
己の絵の才能への絶望なら、何度も味わってきた。先日の出奔では、なにもかもが嫌になり、命を断ちたいとさえ思い詰めた。そう思ってあてもなく旅路を進み、辿り着いたのがレバ湖だったのだ。
そう、彼はあの伝説の湖に身を投げてしまうつもりだった。
あのとき、アネシュカに出会わなければ。
――彼女の絵を見て、確かに、私は思った。この子の才能があれば、私は壁画を完成させられるのではないかと。そうだ、それは本心からだ。だから私は入水を思いとどまって、彼女を連れて王都に戻ったんだ。だが。
ファニエルはいまも数多の感情が駆け巡る胸を、片手でぎゅっ、と押さえつつ、心のなかで語を放った。
知らず知らずうちに、呼吸が荒くなっていく。
――だが……! アネシュカが私の才能を凌駕していると思ったことはなかったんだ。あくまで弟子として、彼女を工房に迎える。それだけのつもりだった。なのに、私は、いつのまにか彼女が恐ろしくなっていたんだ。
ファニエルはアネシュカに、マシーグの元へと通うように告げた朝のことを思い返す。彼女への恐れをはっきりと認識してしまったのは、朝のひかりのなか、誰もいない工房で一心不乱に絵を描くその姿を見てしまったときのことだった。
――そうだ、そのとき私は思ったのだ。この子の情熱は本物だ。大概のことで崩れるものじゃない。いや、それだけではない。これほどまでに芸術を訴求する熱情は、自分でさえ、持ち得ぬものだ。だとしたら……!
ファニエルの心の臓の鼓動が激しくなる。
筆先はなおも板の上を軽やかに滑っていたが、彼はその光景をどこか他人事のように見つめていた。自分の動きであるようで、そうでないようだった。不可思議な感覚だった。
それほどまでに、そのときのファニエルは冷静さを欠いていた。
――だとしたら! 私はアネシュカに負けるかもしれない。それも遠い時の話ではない。私が絵への情熱を失ってしまう、近い未来に!
そこまで考えたときが、ファニエルの精神の限界だった。
彼はいきなり、絵筆を荒々しい仕草で床に叩きつけた。驚いた弟子たちが、びくり、と身体を震わす。工房のなかの空気も静まり返り、皆、一様にファニエルを見つめる。
そのなかには、他でもないアネシュカの顔もあった。ファニエルは彼女の方を見ないように己を諌めようとしたが、結局、彼は彼女を真っ向から見据えることをやめられなかった。
視線の先では、亜麻色の髪の少女が、きょとん、とした顔で自分を見ている。
ペリドット色の瞳を瞬かせて、己を凝視している。
――私を見るな。頼む、アネシュカ、そんな目で私を見るな。
混乱するファニエルの背を冷や汗が伝う。
――こんな感覚ははじめてなんだ。私が、私自身にではなく、他の人間に恐れを感じるのは。だからこそ私は、保身のため、お前を総督の元に送った。お前に感じ始めていた想いを無理矢理、押し殺して。お前などあの男にどうかされてしまえばいい、そうでなければ、怯え、もう絵などは嫌だと泣き喚いて戻ってくればいい、そう思って。だというのに……、アネシュカ、お前は私の想像を軽々と超えていく!
「先生……? お顔が真っ青ですよ?」
ファニエルは隣に立つ弟子から声をかけられて、我に返った。
しかし、筆を叩きつけた手が震えていることを自覚し、彼は今、これ以上工房にいるのは無理だと悟る。
「少し、外の空気を吸ってくる」
ファニエルはそう言い残すと、銀髪を揺らしながら足音高く工房の外へ出て行った。背後に刺さるような弟子たちの視線を感じたが、ファニエルからはそれに構っている余裕は既に失われていた。
荒々しい仕草で扉を開け姿を消した師を見て、トルトがアネシュカに声をかける。
「お前、先生と、なんかあったの?」
「え? ないわよ!」
「そうか? なんだか先生、すっごい怖い顔してお前のこと、睨んでいたけど」
トルトの言葉に、アネシュカは激しく戸惑う。
彼女自身も、ファニエルの憎々しげな視線が自分に向けられていたことには、気付いていた。いや、気付かないはずがないほどに、彼の目は真っ直ぐに己を睨んでいた。
しかし、アネシュカにはその理由が分からない。
分かりようがなかった。
主を失ってざわつく工房のなか、アネシュカはただ、途方に暮れて、その場に立ち尽くすのみだった。
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