第五章 祖国からの昏い呼び声
第二十二話 忘れはしない師の筆致
「アネシュカ、お前さぁ、今日もあいつに朝メシ作らせたわけぇ?」
トリンの城門に向かう荷馬車の手綱を握りながら、トルトが荷台のアネシュカに声をかける。その声音はなんとも納得がいかないという口調だ。
アネシュカはマジーグが戻ってきてからというもの、トルトの様子が妙に不機嫌そうなのが不思議で仕方ないのだが、そのことは口にせず、ひとまず前を向いてトルトの疑念に答えることにする。
「うん。ここのところ工房からの帰りが遅くて疲れてるだろうから、って寝かせてもらっちゃった」
秋の朝の空気はひやっとしていて、冬の訪れも間近なことをアネシュカの頬に教えてくれる。青い空の遥か上空を鳥が鳴きながら地上に影を落し、飛んで行く。風は亜麻色の長い髪をふわっ、と宙に舞いあげ、トルトの赤髪をも揺らす。
すると、トルトは振り返りもせずに、さっきの口ぶりのまま、アネシュカにこう言い放つ。
「……お前、まだ二十五歳だろ? これから、あんなもう四十五歳の老けたおっさんとどう暮らすつもりなんだよ。そりゃあ、マリアドルから退役金はたんまりふんだくってきたんだろうけどよぉ、お前が一生懸命働いて、あいつにヒモみたいな生活させるわけぇ? なーんか納得いかねぇなあ」
「別にいいじゃない。エドは何十年もの軍務をこなした末に退役してきたんだから。私といっしょに暮らすようになったからには、ひたすらにのんびりしてほしいの。そのうえで私は私の仕事をやるだけよ。おかしい?」
アネシュカは肩をすくめながらトルトに答えた。
トルトはマジーグの話題になると途端に手厳しくなる。今日もそうだ。そのことに、どうにもおかしいわ、と彼女は彼の様子に首を傾げる。
果たして、次のトルトの台詞もどこかふてくされた響き、他ならなかった。
「……そりゃようござんしたね」
アネシュカは流石に、むっ、として、トルトの大きな背中に向かって声を掛ける。
「なによ、トルト。なんか文句ある?」
対してトルトはあいかわらず荷台のアネシュカを見ることもない。そしてこう声を荒げながら、馬に鞭を振るった。
「いまさら……文句なんか、ねぇよ! あー、お熱くてよろしいことで!」
トルトの絶叫に重なるように、上空で再びなにかの鳥が声高く鳴いた。
そのおかげで、その声が僅かながら涙声であることに、そのときも、アネシュカは気付けなかったのだ。
きらきら降り注ぐ朝の光のもと走る荷馬車は、トリンの城門に近づいていた。
アネシュカの勤める絵画工房は、変わらずチェルデ王宮のなかにある。
王宮はトリンの最奥部にあるので、馬車でそこに辿り着くには、城下の細かい路地をいくつも越えていかねばならない。
今日もトリンの路上は多くの市民、それに商人らしき外国人で溢れており、トルトとアネシュカの乗る荷馬車はいつものことながら、何度も停車を繰り返さなければいけなかった。
――ほんと、だいぶ賑わいが戻ってきたわね。私がトリンに来た十年前にはまだまだ及ばないけれど、自治を取り戻してからの人の戻り方はすごいわ。やっぱり、チェルデは交易の要所なだけあるのね。
何度目かの立ち往生を余儀なくされた荷馬車にて、アネシュカは道を埋める人混みを見ながら、そう物思いに耽る。彼女の頭の中では、なおもファニエルに連れられてトリンに来たときの感動は鮮やかだ。
マリアドルの侵攻を経て十年、そして一旦マジーグによって占領されたトリンが自治を取り戻して八年。
その長い時間のもと、自分がここに来たときには思いもしなかった人生を送っていることに驚きながら、アネシュカは日々を生きている。
ましてや、二十五歳になったいま、己がチェルデ総督であったマジーグと暮らしているのは不思議な運命としか言い表しようがない。考えてみれば、己は、チェルデ僻地のレバ湖湖畔で生活していた、単なる絵が好きな田舎娘に過ぎなかったのだ。
――そんな私が、いまトリンで絵師になっていて、しかもエドと暮らしているなんてね。運命って不思議。でも、それはすべて、ファニエル先生が私を見つけてくれたからこそなのよね。
そう思うとき、アネシュカの心には懐かしい痛みが蘇る。
この十年はマジーグのことをひたすらに想うと同時に、ファニエルを案じ続けた年月でもあった。
なんとか自分とマジーグの力で死罪からは師を救ったものの、その後の彼の行方はようとしてしれない。
それがアネシュカには歯痒くて仕方ない。彼女にとってファニエルは恩人であり、偉大な師であることはいまも寸分も変わらないのだから。
そんなことを今日も思い返しているうちに、荷馬車はようやく王宮近くの路地に着いていた。
この一帯は王宮に仕える人が多く住み、王宮御用達の店などもある地区だ。なので、市場があるより下部の一帯に比べれば、落ち着いた雰囲気がある街並みである。
だが、その日はなにか、様子が違った。
「なんだ? このあたりがこんなに混んでいるのは珍しいぞ? なにか事件でもあったのかな」
荷馬車を停車させたトルトも訝しげにそう口にする。
アネシュカも落ち着かぬ気持ちになりながら、きょろきょろと見慣れぬ人溜りに視線を投げる。
すると、見知った顔がペリドット色の瞳にいきなり飛び込んできて、彼女の口からは驚きの声が漏れた。
「ロウシャル閣下……!」
「え、えっ? ロウシャルって、あの?」
トルトが目を丸くする。
そのときにはアネシュカはすでに荷台からスカートを翻して勢いよく飛び降り、人溜りに身を躍らせていた。
そして、群衆のなかでひときわ目立つ、周りより頭ひとつ高い金髪の大男に駆け寄り、声をかける。
「こんなところで、どうかしたんですか? ロウシャル将軍閣下」
すると、軍装に赤いマント姿のロウシャルがアネシュカに目を向けた。
いまはトリン自治政府の首席、という重責を務める彼が、果たして一絵師でしかない自分のことを覚えているかアネシュカには不安であった。
だが、次の瞬間、その恐れを払拭するかのように、アネシュカを認めたロウシャルは灰色の瞳を細め、にやり、と笑った。
「おお、お前はファニエルの工房の」
「覚えていただけていましたか。そうです。絵画工房のアネシュカ・パブカです。お久しゅうございます」
アネシュカはとりあえず、ロウシャルが己を覚えていてくれたことにほっ、としつつ亜麻色の頭を下げる。
彼と顔を合わせるのは、五年前、ファニエルの名誉回復審議の場で顔を合わせて以来のことだったからだ。
すると、ロウシャルは次に、アネシュカの思いもしない言葉を繰り出したのだ。
「そうだったな。ちょうどよかった。手間が省けたよ」
「え、手間?」
アネシュカはロウシャルの言葉に、虚を突かれ、ぽかん、とさせた。
そんな彼女の前で、ロウシャルは一旦顔に閃かせた笑顔を、きつく引き締める。そして、武人らしい改まった顔つきに表情を整えると、心なしか声を潜めながら、アネシュカにこう声をかけてきたのだった。
「アネシュカ。ちょっと、この店の奥まで来てもらえるか?」
「……え? 私がですか?」
「そうだ」
ロウシャルの厳しい声に驚きながら、アネシュカは目の前の店舗に視線を投げる。すると扉には画神アルバを模した木造の飾りが下がっているのが見える。
画商を示す看板だった。
――画商などに、国を統べる閣下が、なんの用事があるのかしら……?
アネシュカはそう首を傾げる。
しかし、そう考え込んでばかりもいられなかった。ロウシャルが部下らしい数人の役人らしき人間にここにいるよう告げると、マントを翻してさっさと店のなかへ入っていってしまったからだ。
ロウシャルの赤いマントの影が、鮮やかに朝の王都の石畳に躍る。
「閣下!」
アネシュカも慌てて、ロウシャルが姿を消した店の扉を開け、駆け込む。
荷馬車の御者台に取り残されたトルトが、なにやら自分に大声で怒鳴る声が背中を叩いたが、アネシュカは彼の声を無視して、急いで国の重鎮の背を追うしかなかった。
扉を閉めてしまえば、外の喧噪は途端に遮断され、画商の店のなかは静寂に満ちていた。店内には灯りが灯されてはおらず、朝といえども室内は仄暗い。
そんななかに滑り込んだアネシュカに、ロウシャルが肩越しに視線を放る。
そして彼は目配せで自分についてくるようにアネシュカに密やかに告げると、ずんずんとさらに店の奥へと進んでいく。その向こうにはまだいくつかの部屋があるようだった。ロウシャルはさらに扉を開けて、数多の絵が積まれ、微かに乾いた絵具の匂いが漂う空間を足早に歩んでいく。
建物の最奥らしき部屋に辿り着いたところで、彼の足は止まった。
一段と暗いその部屋でようやくアネシュカはロウシャルに追いつき、彼が険しい目を落している、台の上に置かれた一枚の絵画を覗き込む。
瞬間、アネシュカの息が止まった。
その絵の筆致には、見覚えがあった。暗い空間でも分からぬわけはないほどに。
草地に佇むひとりの妙齢の女性の絵だった。
花束を手にした、たおやかな女の表情。女の手元に添えられた生き生きとした花。風に優雅に躍る赤いヴェールの襞。
絵全体から、見るもの誰もを圧倒させる、繊細かつ大胆な筆致が匂い立ってくる。
アネシュカの背筋に震えが走る。それは、忘れられるわけもない、あの鮮やかな筆捌き、他ならない。
画神アルバの再来と謳われた画才ならではこその、絵だった。
突如現われた、見たことのない師の絵を前に、アネシュカの声は掠れる。
「この絵は……ファニエル先生の……?」
「ふむ。お前もやはり、そう思うか」
ロウシャルがアネシュカの声を聞いて、納得したように呟く。
それから、大きな肩を心なしかすくめながら、金髪の偉丈夫はちいさく、囁いた。
「あいつは生きていたのだな……。びっくりだよ」
その声は、己が守り切れなかった知己を懐かしむかのように、微かに震えていた。
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