第二部 序章

十年越しの幸福

 秋の朝の、ひんやりとしつつも穏やかな空気のなか、アネシュカは亜麻色の髪を乱しながら寝台で寝返りを打つ。打ちつつ、無意識に手を伸ばす。

 傍にいるはずの男に。


「……ん」


 だが指先はなにも掠りもせず、滑らかなシーツをつっー、と触っただけだったので、彼女は不思議に思いながら、ゆっくりと寝ぼけ眼を持ち上げた。


 すると真上から降ってきた声がある。この二ヶ月を経て、ようやく聞き慣れた、野太くも柔らかな声音だった。


「おはよう、アネシュカ」

「……エド」


 声の方向に目を向けてみれば、優しげな黒い双眼が瞬いている。

 アネシュカは思わず安堵と幸福にペリドット色の瞳を細めた。


 眩しい朝の光を背に、白いチュニックと紺のズボンを纏ったマジーグが、微笑んで自分を見ていた。彼のいまは結んでいない長い黒髪が、視界の隅で、ゆらり揺れる。

 髪にところどころ白いものが目立つようになったことを本人はこのところ恥ずかしがるが、アネシュカにはそれすら愛おしくて仕方がない。


 マジーグがチェルデに戻り、早くもふた月のときが流れていた。

 それはアネシュカにとって、この十年というものの待ち焦がれていた、これ以上ない幸福に浸る日々であった。アネシュカは、今日も変わらぬそんな一日であることを予感し、微笑みながらマジーグを見つめる。


 そうして伸びをしながら寝台から半身を起こしてみれば、台所の方向から流れてくる香ばしい匂いが鼻腔を擽った。


「……おはよう。エド、もしかして今日も、朝ごはん作らせちゃった?」

「ああ。よく寝ていたからな」

「わぁ……ごめん、私ったら、また……!」

「いいんだよ。飯は作れる者が作る。軍隊ではそれが当たり前だ。俺だって閣下と呼ばれる前はよく戦地で炊事をしたものさ。それに……」

「それに?」


 アネシュカはそこで言葉を区切ったマジーグに問いかける。すると、目前の黒い目が、どこか悪戯めいた色に揺れた。


「それに、お前の寝顔はいくら見てても飽きぬよ。とても可愛い。毎朝、起こすのが惜しいくらいだ」

「……エドったら!」


 アネシュカは思わぬマジーグの言葉に、頬を赤らめさせる。すると、その顔を見た男が、ははは、と大きく口を開けて笑い声を上げながら言った。


「さあ、スープが冷めちまう。アネシュカ、早く着替えておいで」


 その声に、アネシュカは赤い顔のまま、こくり、と頷き寝台からようやく飛び降りる。幸せに心を満たしながら。


 穏やかな十月の朝だった。

 窓からはさんさんと朝のひかりが溢れ、心やすらかなふたりの時間を柔らかに包み込む。

 ちいさな庭の緑が微風にざわわ、と揺れる気配がする。



 アネシュカが身支度を整えて台所に戻ると、マジーグが自ら作った雑穀のスープをちょうど机の上の皿によそっているところであった。

 ふたりはちいさな台所のちいさな机に向き合って座り、それぞれ創世神話の神に祈りを捧げ、それからようやく朝餉の時間とする。


 パンをスープに浸しながら、マジーグはアネシュカに語りかける。


「壁画の復興は、進んでいるのか?」

「順調よ。今月は地底神ロアーンが天界に戦いを挑むシーンを描き進めてるの」

「ふむ。あの場面はロアーンの大舞台だからな。描き甲斐があるだろう」


 そう応じながらもマジーグの内心といえば、複雑だ。

 なにしろいま、アネシュカが創世神話の壁画復興に励んでいるのは、十年前のチェルデ総督時代、他ならぬ自分が神話の改竄を進めたから、他ならない。皇帝の命令とあれば、当時の彼にはどうしようもなかったが、十年を経ても、自身がアネシュカたちチェルデ人の文化の破壊を先導した事実は、なおも彼の心を翳らせる。


 しかし、アネシュカは自分の仕事を語るとき、そのことに全く触れようとはしない。


 意識してのことだろう、とマジーグは思う。

 彼にはアネシュカの気遣いが嬉しくもあった。だが、それ以上に、いまはチェルデの地に生きる自分の罪を、そのたびにひしひしと自覚してしまう。

 しかし、それを口にしてしまえば、アネシュカも必ずや、心を痛めることだろう。

 

 そう思えばこそ、マジーグはその苦味迸る想いを胸に収め、アネシュカとこうして相対せざるを得ないのだ。


 しかし、アネシュカはそんなマジーグの逡巡については見てみぬふりを決め込め、会話を続ける。


「そうなの。でも難しいところもあってね。例えば……」


 そうして彼女は目の前に伸びる、腕まくりをした逞しい左腕に、いきなり右手を添えた。そして、そろそろと、爪先で肌を撫でる。


「わっ! なんだなんだ……こら、アネシュカ、食事中だぞ。触るな」

「うーん、男の人の腕描くのって、はっきりいって、私、苦手なのよね。やっぱりこの辺の上腕二頭筋がね、難しいというか……」


 アネシュカの瞳はいつのまにかスープ皿でもパンでもなく、マジーグの腕に注がれている。それも、いまが食事中であることを忘れてしまったかのような、絵描きならではの真摯さで。


 しかしながら、マジーグはたまったものではない。

 彼は自分の肌をなぞるアネシュカのあまい感触に、思わず心の臓を震わせる。それはそうだ。このように女人に触れられることなど、彼のいままでの人生ではそうそうあることではなかった。

 マジーグの顔は火照り、いつしか背中には汗が流れ出す。動悸が荒ぶる。


 果たして、彼にとって拷問のような数十秒が終わったのは、こう言いながらアネシュカが己の腕から指を離したときだ。

 しかしながらその言葉も、マジーグにとってはまたも頬を赤らめる類のもので、彼は今度は心の臓をぎゅっと縮ませた。


「ねぇねえ、エド。今度、腕を素描させてもらっていいかしら?」

「……それは構わんが、いきなり腕を掴まんでくれ。心の臓が止まりかねん」


 やっとのことでそう答えたマジーグに、アネシュカは悪戯っぽく笑いかける。そして目前の男を揶揄う口ぶりで語を放った。


「ん、なーに? エド、どきどきしてるの?」

「そっ……そういうわけではないが……」

「エド、かわいい。頬、真っ赤。でも私、エドのそういう顔、好きだな」


 アネシュカはなおも、にこにこ笑いながらマジーグを見やる。マジーグは黒い瞳をスープ皿に落として、なんとかこの場をやり過ごそうと試みる。


「アネシュカ、あまり揶揄わないでくれるかな……スープをひっくり返しちまう」


 俯いてそう声を絞り出した想い人を、アネシュカは愛しげに眺める。

 そして、彼女はあることに気づき、今度はそっ、と静かに唇を動かした。


「ねぇ、エド」

「今度はなんだ」

「いくら照れているからって、あまりに下を向きすぎて、せっかくの綺麗な黒髪がスープに浸かってるわよ」

「……!」


 マジーグはその声に慌てて、いまだ赤い顔を長い髪ごと跳ね上げた。

 その様子がなんともおかしくて、アネシュカは思わず声を上げて笑う。そのとき、アネシュカの笑い声に扉を叩く音が重なり、彼女は頬を緩めたまま叫んだ。


「あ! もうトルトが迎えに来ちゃった! 早く食べなきゃ! ……トールト! もう少し待っていて! なんなら家のなかに入っていてもいいから!」


 すると外から青年の声が聞こえる。

 扉越しなのではっきりとはわからぬが、どうやら、そんなことできるかよ、早くしろ、と不機嫌そうに叫んでいるようだ。


 アネシュカは勢いよくスープを飲み干しながら、首を傾げた。


「トルトったら、外に突っ立ってることないのに。変なところで頑固なんだからぁ……ごちそうさま! じゃあ、私、仕事に行ってくるわね!」

「ああ、気をつけて行っておいで。俺は今日は塀の修繕をしているよ」

「ありがとう、エド! 行ってきまーす!」


 そうして賑やかにアネシュカは家を飛び出していく。その様子は十年の時を経ても、いまだ出会った頃のように朗らかで、若々しくて、マジーグは思わず目を細めた。


 そして、一転して静寂が満ちた部屋のなかで、彼は食事を済ませ、後片付けをしようと椅子から立ち上がる。

 刹那、首元の瑠璃石がしゃらん、と音を立てた。


 マジーグは思わず首飾りを手に取る。そして、そのなかの肖像画を見つめるにあたり、思いに耽る。

 それから彼は、懐かしい元宮廷絵師を心に浮かべて、ちいさく独り言つ。


「そろそろ話したほうが良いのだろうが……どのように告げればいいものか。アネシュカにとって彼は、今も大切な師であることは違いないだろうに……」


 そのように囁いたものの、そのときのマジーグには、どうあっても考えが及ばなかった。

 その日、チェルデ自治区の都トリンで、ほかでもないファニエルについての騒動が起きていたことに。


 そして、その出来事こそが、彼とアネシュカを再び動乱へと誘う発端だったのだ。

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