第二十三話 では、誰の絵なのか
ところが、である。
その夜、家に戻ったアネシュカから、ファニエルの新作が見つかったことを知らされたマジーグの反応は、彼女にとって意外極まるものだった。
「彼が生きているわけはないのだがな……」
「え……、っ?」
アネシュカは思わぬマジーグの言葉に瞳を瞬かせた。
そして、数瞬の呆然のあと、顔を強張らせて目の前の男を見つめる。
それまで考えていなかったことだったが、よく思い起こしてみれば、そのときは総督を辞していたとはいえ、ファニエルがロウシャル軍からマリアドル軍に身柄を移されて流罪になったとき、マジーグはなおも軍の中枢にいたのだ。
となれば、彼がファニエルの行方を知らぬ訳はない。
遅まきながらアネシュカはそう気付く。
それから、ごくり、と唾を飲み込み、声を震わせながらマジーグに問う。
「……エド、ファニエル先生について何か知ってるの?」
すると、マジーグの彫りの深い顔が翳る。
そして彼はいかつい手を胸元に添えた。途端に首に伝った金の鎖が軽やかな音をして、跳ねる。それから彼は、首飾りの先端に下がった瑠璃石へとゆっくり、指先を差し伸べる。
こう、呟きながら。
「いつ見せるべきか、迷っていたのだが」
アネシュカのペリドット色の瞳に、瑠璃石が微かな音を弾けさせながら、上下に分かれ、蓋が持ち上がる様子が写った。
そして、露わにされた内部の空洞へと納まった、ちいさな肖像画に描かれた人物が、他でもない自分であることに息をのむ。
さらには、それが誰の手によって描かれたものであるのかにも。
アネシュカは叫んだ。
「これは、ファニエル先生の絵ね!」
「わかるか。流石、弟子だっただけはあるな」
「わからないはずないわ! こんな見事な肖像画を描ける絵師は、先生しかいないもの。……エド、なぜ先生の絵を?」
驚愕に目を丸くしたアネシュカの前で、マジーグは暫しの間、長い黒髪を傾けながら、感慨深げにファニエルの描いた肖像画に目を落していた。そして、それからゆっくりと顔を上げる。
彼の鷹のような黒い双眼は、深い郷愁の色を湛えていた。
「これは、十年前、俺がチェルデ総督を辞して祖国に帰還する際、流罪になっていたファニエルを訪ねて描いてもらったものなんだ。彼は、チェルデ東南部のハルフィノに流されていたのでな」
「……ハルフィノ?」
アネシュカは、突如明かされた師の消息に、思わず身を乗り出した。
それと同時に、告げられた土地の名に、どこか既視感を覚える。
するとその答えを示かのように、マジーグが口を開いた。
「ああ、そうだ。二年ほど前、俺たちマリアドルとギルダムの間で大きな会戦があった地だよ」
「あっ……」
マジーグの言にアネシュカは息をのむ。
――そうだわ。それはトリンを訪れていた外国の商人から聞いた覚えがある。ハルフィノで大きな戦いがあった。たしかそう言っていたわ。忘れるはずない、だって私はエドのことが心配で、ここ十年というもの、交易に訪れる商人を捕まえてはマリアドルの情勢を窺っていたのだもの。でも、そのハルフィノにファニエル先生がいた? ということは……。
そこまで考えて、彼女の胸を暗い予感が覆う。
アネシュカは思わず縋るように、マジーグに視線を放ったが、その顔つきは、固い。
そしてそのアネシュカの予感は、次のマジーグの言葉によって裏付けられたのだ。
「ファニエルは、二年前、ハルフィノで死んでいる。その戦に巻き込まれてな」
その瞬間、アネシュカの目の前は真っ暗になった。
どこか遠くから、秋の夜風が渦巻く音が聞こえる。
「二年ほど前のことだ。チェルデ東南部のハルフィノ村近郊の平原でギルダムとマリアドルの大きな会戦があった。俺も従軍していた戦だ。両軍の主力が激突し、近隣の町も巻き込むほどの激しい戦いだった。まあ、俺は運良く、生延びたのだがな」
蝋燭の光が揺らぐ台所で、椅子に腰掛けたマジーグが、険しい表情のままのままそう語るのを、同じく座したアネシュカは半ば放心しながら耳を傾けていた。
長らく気に掛けていた師の消息が明かされていくほどに、彼女の心の臓はどくん、どくん、と鳴る。
正直、これ以上のことを知ってしまいたくはない、マジーグの言葉から耳を背けてしまいたい、そんな気持ちだった。だが、アネシュカは鼻の奥がつん、と疼くのを感じつつも、彼の声に意識を集中させる。
まるでそれが、ファニエルの恩に報いる唯一の方法、とでもいうように。
「戦の後、俺はファニエルのことが気にかかり、村に立ち寄ったんだ。彼の消息が気になってな……まぁ、ひさびさにお前を知る人間と顔を合わせて、お前の話をしたかったのもあるが」
そこで言葉を句切るとマジーグは弱々しく、笑う。そしてしばらく黙りこくった後、彼は話の主軸に踏み込んだ。
「彼は家にはいなかったよ。いや、いなかったんじゃない。俺が見たのは黒く燃え尽きたファニエルの家の跡だ。村人に質すと、彼は戦火に巻き込まれて死んだとのことだった」
「そんな……」
耐えきれずアネシュカの唇から呻き声が漏れた。
しかしマジーグの声は止まらない。彼も、目の前で肩をがくり、と落しながら己の言葉に耳を傾ける愛しい女の姿に、耐えがたいものを感じてはいたが、そうとしてもこれは自分が彼女に伝えておかねばならない、という義務に似た気持ちがあった。
なのでマジーグは沈痛な表情ながら、話し続けることとする。残酷な現実を。
「残念だが、本当のことだ。その証に、俺は村人が建てたというファニエルの墓も確かめた。彼は、自らの絵を公の場に晒すことは禁じられてはいたものの、流罪になってからというもの、村人に絵を教えて暮らしていたらしいな」
「……ファニエル先生らしいわ……」
「ああ。だから、村の人間もファニエルのことは、たいへん悼んでいたよ。それを示すように、墓も罪人とは思えぬほど立派なものだった。たくさんの花も手向けられていた」
夜の狭い台所に、ゆらゆらと蝋燭の灯が揺れ、精悍なマジーグの顔へと陰影を落す。光と影が交差するなか、ふたりの間に重苦しい沈黙の帳が落ちた。
最後にマジーグは一言、こう、ぽつりと呟いて、ファニエルについての長い話を締めくくった。
「俺が知っているファニエルの消息は、そこまでだ」
気がつけば、いつしかアネシュカは泣いていた。
瞳から熱く透明な涙が流れ出る。脳裏にはあの師の美しい銀髪と、柔らかな笑みが浮かんでは、消える。
アネシュカは椅子から立ち上がり、マジーグの前に立つ。そして膝を折ると、彼の厚い胸板に涙に濡れる頬を寄せ、こう囁いた。
「エド……私、とても、つらい。せっかく、私と、そしてあなたが、助けた先生の命なのに」
マジーグはしくしくと噎び泣き続ける亜麻色の頭にそっと手を回し、彼女を抱き寄せる。そしてなにか上手い慰めを、と思うものの、適当な言葉が全くもって頭に浮かばず、人知れずちいさく息をつく。
そして、思う。
――俺がなんの慰めを口に出来るというのか。そもそも、俺がチェルデに攻め入らねば、アネシュカはこんなふうに師を失うことはなかったというのに。ここで俺が彼女に何を言っても、偽善に過ぎぬ。
そう思うほどに、マジーグの心は黒く澱む。そして、いま、自分がこうしてチェルデでアネシュカと幸福に暮らしている己の在り方は果たして真っ当なものなのか、どうしてもそのことに考えが及んでしまう。
アネシュカと生活を共にしてふた月あまり、それは口に出すことさえしなかったが、常に暗い靄のように、彼の心を覆って止まないのだ。その思いは、胸のなかのアネシュカのぬくもりを感じ取れば取るほどに、マジーグの気持ちをかき乱す。
アネシュカの悲しみに心から寄り添ってやりたいのに、自分にはその資格がないと思ってしまう、その現実が彼には辛くて、苦しくて、堪らなかった。
チェルデに戻るにあたり、何度も想像しては悩み、覚悟してきたことではあったが。
マジーグは懊悩から逃れるように、己にもたれかかったアネシュカの頭を撫でる。亜麻色の髪を漉く。
ついで、爪先で泣き濡れた頬をなぞる。
「……アネシュカ」
「なぁに……エド」
「泣き方も大人っぽくなったな。俺が弟の話をしたあの夜とは大違いだ」
マジーグの突然の軽口にアネシュカは一瞬、瞳を見開いたが、次の瞬間、思わず唇に笑みを浮かべる。
「やだ、エドったら」
「やっと笑ってくれたな。俺は、泣き顔より笑顔のお前が好きだよ」
マジーグも鷹のような黒い瞳と唇を緩ませた。そして、アネシュカをいま一度、ひっし、と抱きすくめる。大切な人の輪郭を確かめるかのように。
ふたりはしばらく、お互いの気持ちが落ち着くまで、そのままでいた。夜の風が遠くで唸る音を鼓膜に感じながら。
やがて、マジーグがぼそり、と野太い声で語を零す。
「……俺が気になるのは、いったい誰が、どんな目的で、死んだはずのファニエルの絵をトリンに流したのか、ということだ。または、その絵がファニエルのものではないとしたら、どういう理由で作者を偽って流通させたのか、というのもな」
「贋作じゃない……と思うわ、あの絵は、私が見る限り、ファニエル先生の手によるものだと、思う……」
「アネシュカがそう思うならそうかも知れぬが。だからこそ、それをはっきりさせるため、明日、工房で審議会をやるんだろう?」
「うん……」
「さぁ、あまり考えこんでも仕方ない。今日はもう休もう、アネシュカ」
アネシュカはマジーグの胸のなかで、彼の言葉に、こくり、と頷いた。
だが、そう言われても彼女は暫しマジーグの身体から身を離せずにいた。悲しく、心細い気持ちのときに、こうして抱きしめてくれる人がいる喜びに、もう少し浸っていたかったからだ。
夜が更けていく。
アネシュカは肩にかかったマジーグの黒髪を指先に絡め取り、それから彼の首筋を、優しく撫でた。
そして、おずおずと、自ら、唇を重ねる。目の前の男の存在に、心からの感謝を込めて。
するとマジーグもアネシュカに唇を寄せ、アネシュカのそれを優しく貪った。
それが、これから起こる波乱の前において、最後の口づけであることを、ふたりはこのとき、まだ知らない。
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